信仰で結ばれた人たちは守られる

「兄弟たちが一致して共に住むのは,

何と素晴らしいことだろう。何と心地よいことだろう」。

(詩編133:1)

これは、ダビデという人物が歌った歌の中の1つです。

当時、イスラエルの民族はばらばらに生活していました。

でも、年に3度だけエルサレムに向かう機会がありました。

その光景を目にしたダビデは、心からこの言葉を歌ったに違いありません。

 

この歌は、現代の私たちにとっても大切なメッセージを伝えていると思われませんか?

本当の意味での真の一致というものが、血縁だけで成り立っているとしたら、ダビデは敢えてこの歌を歌う必要はなかったかもしれません。

残念なことに、血の繋がりがあったイスラエル人同士の間でさえも争いが起こっていました。

近年私たちが見ることがある戦争や戦闘というものも、民族的に近しいもしくは地理的に近しい人たち同士で起こっています。今ウクライナもしくはパレスチナで起こっている出来事も、それを証拠づけているのではないでしょうか。

では、真の平和は実現するでしょうか?

それを見出すことはできると思われますか?

今、インターネット上に世界で最も多くの人口が集まっていると言われています。そのインターネットやSNSの中で、真の平和や一致は実現していると思われますか?

私たちエホバの証人がこの一致を味わっています。私たちも年に3回の大会を味わうことができています。その場に行くことができた方たちは、みんなが一堂に集まる様子を見て、ダビデと同じような気持ちを感じられたかもしれません。

ではなぜ、このような血の繋がりも政治的な繋がりも全くないエホバの証人は、真の一致というものを実現できていると思われますか?

「あらゆる人を敬い,信仰で結ばれた兄弟たち全員を愛し,

神を畏れ,王を敬ってください」。

(ペテロ第一2:17)

何で結ばれているとありますか?

血の繋がりでも政治的なものでもなく、信仰で結ばれているとあります。

信仰で結ばれているゆえに、エホバを愛し敬って崇拝している。

それが繋がりを生んでいるということになります。

その結びつきはどれほど広く大切なものでしょうか?

一体何がそれを実現させているでしょうか?

そこでペテロは話し始めた。「神が不公平ではないことがよく分かりました。

神を畏れて正しいことを行う人はどの国の人でも神に受け入れられるのです」。

(使徒10:34,35)

エホバは不公平な方ではない。そして全ての国の人がエホバから受け入れられている。これが真の平和と一致を享受できている理由になっています。

その結果、現代では850万人そして240を超える国や地域で、エホバの証人がエホバを崇拝するために集まっています。私たちはwebサイトの中で国際大会の様子を、動画や写真で見ることができます。多くのいろんな背景から来た仲間たちが、共に楽しんでいる様子を見ることができます。

私たちが今味わっているこの信仰で結ばれた兄弟関係こそが、真の平和であると言えます。

ですがエホバの証人は、 自分たちがこの中に招き入れられて、その中で真の平和と一致を楽しむことで満足しているわけでは ありません。新たに多くの人をこの中に招き入れるための努力を日々払っています。

「しかし,聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,

エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,

また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。

(使徒1:8)

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イエス・キリストについて知っておきたい本当のこと

皆さんは次のように尋ねられたなら、どのような人物が思い浮かぶでしょうか?

歴史を通じて最も偉大な人、世界中の人々の人生に最も影響を与えた人物。

イエス・キリストも歴史上の偉人の1人としてよく知られています。

しかし名前は聞いたことがあるけれども、いったいどういう人なのか、あまりよくわからないとおっしゃる方も少なくありません。

皆さんはいかがでしょうか?

イエス・キリストと聞いてどのようなイメージを持たれますか?

イエスは今から約2000年前に、この地上で活動しておられました。

意外に思われるかもしれませんが、同時代の人々もイエス・キリストがどういう人なのか、あまりよくわかっていなかったということが分かります。

「イエスはカエサレア・フィリピ地方に来ていた時,

弟子たちに,『人々は人の子のことを誰だと言っていますか』 と尋ねた。

弟子たちは言った。『バプテストのヨハネや,エリヤ,

エレミヤ,預言者の1人などと言っています』」。

(マタイ16:13,14)

イエスは、人々がご自分のことをどのように理解しているのかということにとても関心を持ちでした。

神によって選ばれた特別な人でしたが、そのイエスのことはあまりよくわかっていなかったということが分かります。

中には、イエスに政治活動や慈善活動してほしいと思ったり、また個人間のトラブルを解決してほしいと思っている人もいたということがわかります。

私たちの時代でも、イエスについて間違ったイメージが広まっています。

イエスのことをただの善い人、預言者、改革者のような人と考えている人もいます。またキリスト教信者の多くも、イエスが神だと信じています。

では、本当のところイエスは何者なのでしょうか?何をした人なのでしょうか?最も大切な点として、イエス・キリストは今、何をしておられるのでしょうか?

聖書をじっくり読んで、イエスの身元調査をきちんと行うならば、周りの偏見や噂に惑わされることはないでしょう。

聖書が教えているイエスについての本当のことはどういうことでしょうか?

聖書には、 イエスの性格、教え、活動の記録が詳しく記録されています。

聖書をじっくり読んでいくと、イエスがただの善い人ではなかったということが少しずつわかってきます。

イエスについて知られ、知られていることのほとんどは、聖書の中の福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの記録から詳しい情報を得ることができます。

では、イエスについてどういうことがわかるでしょうか?

聖書を読んでいくと、イエスには人々を引きつけるような魅力的な性格があったことがよくわかってきます。

イエスが重い病を患っていた男性を見て可哀想に思って、病気故に人々から避けられていた男性に優しく触れて、病気を治されたシーンが出てきます。

イエスが思いやり深い方であったっていうことが、よくわかるのではないでしょうか。思いやりと訳されているギリシャ語の形容詞は、字義通りには共に苦しんでいるという意味があります。

イエスは完全な方でしたから、他の人が抱えているような辛い病気ですとか、不安、悩み、 そうしたものは一切ありませんでした。それでも、イエスはいつも他の人の気持ちをとても大切にしておられました。

自分のことを二の次にして、他の人を助けるために思いやりに動かされて行動されたということがわかります。

子供から大人まで、色々な人がイエスのそばにいたいと思いました。イエスとの距離を感じたり、見下されていると感じることはありませんでした。イエスがいつも気遣ってくれているということが伝わってきたので、イエスと一緒にいるとホッとして安心しました。

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真理はあなたの生活にどのように影響しますか

皆さんは普段の生活の中で、あるものが本物かそれとも偽物かということを

どの程度気になされるでしょうか? 

特に問題なければ本物じゃなくても構わないっていう方も多いかもしれません。

ただ、食料品ですとか医薬品などがフェイク品だったりしますと、健康とか命に関わってきますので重大な問題となってきます。 

フェイクニュースというものもよく耳にするようになりました。 私たちを間違った行動へと唆すものであれば、本当に気を付けなければいけません。

では宗教上の真理についてはどんなことが言えるでしょうか?

真理という言葉には、 真実、本物、本当のことといった意味合いが含まれ、宗教上の真理とはフェイクではないことと考えることができます。

ただ多くの人にとって、宗教上の真理を見出だすことはあまり重要とは考えられていないように思われないでしょうか?

イエス・キリストは、宗教上の真理は大事なものだと考えていました。

イエスが処刑される少し前にユダヤ人たちは、イエスが自分は王だと言ってローマに反逆しているとローマの総督であるピラトに訴えていました。

「ピラトは言った。『それでは,あなたは王なのだな』。

イエスは答えた。『その通りです。真理を明らかにすること,

このために私は生まれ,このために私は世に来ました』」。

(ヨハネ18:37)

イエスにとって宗教上の真理とは、 自分自身が存在していることの意味そのものでした。

しかし続く節などを読んでいきますと、ピラトはそんなことはどうでもいいことだという態度を取っています。

では、この違いはどのようにして生まれたのでしょうか?

イエスは、ピラトが認めていないあることを信じていました。 

「真理によって彼らを神聖なものとしてください。

 あなたの言葉は真理です」。

 (ヨハネ17:17)

イエスは、聖書に収められている神についての真実や神の目的についての説明などは全て真理だと認めていました。一方ピラトの方は、 一般的な意味における真実しか考えていませんでした。

これら2つ異なった真理に対する見方というのは、何か違いを生み出すでしょうか?

「私の教えを常に守るなら,あなた方は本当に私の弟子であり,

 真理を知り,真理によって自由になります」。

 (ヨハネ8:31,32)

真理を知るか知らないかということは、自由なのか束縛されているのかといった違いを生み出すわけです。 

この時囚われていたのはイエスの方ではないでしょうか?

おそらくそういった事実もピラトの態度に影響を与えたに違いありません。この男は何を言ってるんだと考えて、宗教上の真理には興味を持たなかったのかもしれません。

でも、イエスが念頭に置いていたのは別のことでした。

イエスによれば「罪を犯す人は皆,罪の奴隷です」。(ヨハネ8:34)

ここで言う罪とは、人類が生まれながらに置かれている神から引き離されてしまっている状態のことを指しています。その状態は最終的に死をもたらします。

この時のピラトもそのような状態にありました。 ただ本人はそのことを自覚していませんでした。

実のところ私たちも皆全員この同じ状態に置かれていると考えることができます。

では、どのように真理は人を奴隷状態から自由にするのでしょうか?

これまで何世紀にもわたって 大勢の人が奴隷として売られました。住む場所とか、仕事とか、食べ物とか、 結婚なども自由に選ぶことができなくて生涯自由になる機会は与えられませんでした。

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生きることには大きな意味がある

アフリカの宣教者のアロンという兄弟は、

「アフリカでは、人生の目的を求めて国中をさまよっている若者によく会いました」と言っています。

アフリカには大自然がたくさん残っており、独特の文化があるので、人生の目的を考えるには絶好の場所としてそこを旅しているようです。

南アフリカのキャンプ場で夜を過ごし夜空を見上げていきますと、天の川がはっきりと見えることができました。雲かなと思ったんですけど、星がたくさん集まっていて川になっていたので気がつきました。

銀河系の中心部の星がたくさんあるところを見るとそのようになるそうです。

自分が銀河系の少し離れたところから、この銀河系の中心を見ているんだということに気づき、宇宙の壮大さと自分の小ささを感じることができました。

昔は日本でも田舎に行くと天の川がよく見えたということです。

でも、じっと見てると怖くなってくるそうです。

まさに畏敬の念というものを感じさせるのです。

古代の人ダビデはこの星や宇宙を見てどのように思ったでしょうか。

「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。

死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか」。(詩編8:3,4)

自分がちっぽけな存在であるということを星を見て思ったようです。

多くの人は、宇宙や地球そして人体を見て、人はなぜ存在するようになったのかという風に考えます。

自分が存在する、つまり生きる意味は一体何なのか?と考えるのです。

ダビデ以外の聖書筆者も、宇宙や自然を観察して、まず神が存在しその神が何かの目的を持ってそれらを創造したという風に結論付けています。

「天を見上げてみなさい。誰がこれらの物を創造したのか。

星の軍勢を数え上げて率いている者である。その者は全ての星を名で呼ぶ。

膨大な活力と驚異的な力を持っているので,一つとして欠ける星はない。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

地の果てから果てまでを創造したエホバは,永遠にわたって神である。

疲れ果てることも,弱ることもない。その理解力は計り知れない」。

(イザヤ書40:26,28)

イザヤは天を見上げています。見上げた結論は何なのでしょうか?

エホバが全てのものを創造したと認めているわけです。

今日の私たちも空や宇宙を見ることができますが、同時に現代の科学とかを使ってもっと詳しく 調べることができ、それらが絶妙な造りになっていることを知ることができます。

2つの実例、1つ目は地球の位置について、2つ目は地球の循環システムについて考えてみましょう。

地球と太陽は、1億5000万キロの距離です!

もし5%だけ地球が太陽に近づいてしまったら、暑くなりすぎて焼け焦げてしまいます。

逆に1%だけ太陽から離れてしまったら、氷の世界になってしまい人類は生存することができなくなってしまいます。

皆さんどう思われますか?

この1億5000万キロという距離は、偶然出来上がった距離でしょうか?

それとも神が計算して配置した距離と思われますか?

この1億5000万キロの距離を保つために、もっと多くのことが関係しています。

地球と太陽が持つ引力と地球の公転や自転のスピードなどを計算して、その距離を保っていかなければいけないということです。

さらに、太陽が発する熱量も計算していきますと、ただ単に1億5000万という数字だけではなく、もっと複雑なことが関係していると言えます。

ただ、偶然にこの距離が出されたのでしょうか?

水の循環についても考えてみたいと思います。

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愛の神が悪を許しておられるのはなぜですか

なぜ?

災害とか悲惨な出来事に見舞われると誰もが口にする言葉です。

この短い言葉に込められている人々の苦悩とか心痛を考えると、 切実に感じられ人ごとではありません。

猛威を振るうハリケーンによって人命が奪われ、建物が破壊されます。

地震により数分で都市が瓦礫と化します。

いつもと変わらない平和な日が、戦争やテロによって恐怖と暴力の伴う悪夢のような日に一転します。

事故により家族が怪我をし、命を落とすことがあります。

多くの場合、何の罪もない無実な人々が犠牲になります。

近年こうした惨事が頻繁に起きているので、「なぜ」と神に訴えかける人の数が本当に増えています。

「神様、なぜこんなことをなさるのですか。あなたを怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか」

「神はどこにおられるのですか。万物を制御する方が、なぜこんなことを許されるのですか」

神の忠実な僕たちも同様の疑問を神に尋ねています。

「私に悪事を見させるのはどうしてですか。圧制を見過ごしておられるのはどうしてですか。私の前に破壊や暴力があるのはなぜですか。口論や争いがあまりにも多いのはなぜですか」。   (ハバクク1:3)

皆さんも本当に神がいるならば、なぜこれほどまでに悪いこと辛いことを許しているのかと考えたことないでしょうか。

でも「神様、なんでこんな苦しみを許しておられるんですか?」

この疑問、なんだか神が悪いことをもたらしてるように聞こえないでしょうか。

「エホバが憎むものが6つある。いや,ひどく嫌うものが7つある。傲慢な目,うそをつく舌,無実の人の血を流す手,邪悪なことをたくらむ心,急いで悪に走る足,うそばかり言う不正直な証人,兄弟の間に口論を引き起こす者である」。 (格言の書6:16-19)

ここに記されている7つの行為は基本的なもので、 人間が行うあらゆるタイプの邪悪な行為を網羅しています。

さらに注目できるのは、6つから7つに増えているという点です。 これはここに挙げられたものが全てではないということを示唆しています。

つまり、神は過去に起きた苦しみ、現在起きている新しいタイプの悪,そういったもの全てを憎んでおられるということをこの聖句は証明しています。

そうであるなら、神が苦しみとか不公正を全て憎んでおられて、それを除き去る方法をご存じで、そうする力を持っているのであれば、依然として至るところに災いが起きているのはなぜかと思うことでしょう。

神が苦しみを許しておられる理由を知るには、苦しみが始まったその地点まで戻る必要があります。

創世記3章には、最初の人間と蛇を操るサタンとのやり取りが記されています。

最初の女性のエヴァは、「庭園の真ん中にある木の実」について、「食べたり触れたりするならば死ぬ」と神から言われ,それを理解していたことがわかります。

それに対して蛇は「あなたたちは決して死にません」、木の実を食べた日に目が開かれ「神のようになって善悪を知るようになる」と述べます。(創世記3:1-6)

言い換えると、「自分たちには支配者としてのエホバは必要ない。 何が正しく何が間違えているかを自分で決定できる。だからその実を食べてごらん」と言っています。

サタンがエヴァをエホバに不従順になるように誘惑した時に、重要な疑問が提出されました。

サタンはエホバの支配する権利に関して疑問を投げかけ、神はあなたたちに良いものを与えていない、人間は神の支配を受けなければもっと幸福になれる。だから従う必要はない、とほのめかしたわけです。

これはエホバの主権、すなわち支配する権利に対する攻撃でした。

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「苦難の時」に救われるために

愛情深い親は子供のことを本当に心から愛おしく感じます。

そのため、その子を害となるものから守りたい助けたいという思いになります。

それで、その子のことを叱ったり褒めたりしてアドバイスを与えていきます。

愛情深い天のお父さんも同じです。

私たち人間はエホバに創造されましたから、いわばエホバの子供と言えます。

エホバは私たちのことも助けたい守りたいと思っています。

実際いつの時代でも、心から仕える多くの人々をエホバは守ってこられました。

そもそもエホバが人間を創造されたのはなぜでしょうか?

どのように歩むことを望んでいたのでしょうか?

それは楽園の地でエホバに仕え、従順に歩み、平和で喜びの多い日々を送ってほしい。そうした願いがありました。

でもノアの時代の人々はそれとはかけ離れていました。

不道徳や暴力といったエホバの基準に沿わない、多くの人たちが存在していました。この時代、エホバに仕えていたのはノアとその家族だけです。

ノアから見れば、それは毎日が苦難の日々だったかもしれません。

それでエホバは行動を起こします。

ノアとその家族を守るために箱船を造り、多くの人たちに警告を与えるようにという指示を与えました。

その指示に従うかどうか、それによって命を得られるかどうかが決まるのです。

結果はどうだったでしょうか。

残念なことに、ノアとその家族以外は全て洪水によって滅んでしまいました。

エホバの言われた通りにそうなったのです。

では、この記述から何がわかるでしょうか?

「正しい人の救いはエホバから来る。

神は苦難の時の彼らの要塞。

エホバは彼らを助け,救い出す。

悪人から助け出し,救ってくださる。

神のもとに避難したから」。

(詩編37:39,40)

エホバはご自分に頼る人々を守ってくださるということが分かります。

エホバは述べられたことを必ず実行され、その通りに果たされます。

有言実行される方と言えるのではないでしょうか。

こうした聖書の記述は、過去の出来事として終わるのではなく今の私たちにも関係する出来事だということをよく理解することができます。

ノアの出来事から数世紀後にロトという人物が登場してきます。

この時代の人々もノアと同じように暴力とか不道徳を行い神に従わない大勢の人たちがいました。

それでこの時も、エホバはこの街全体を滅ぼすことを決意し、今回は天使を使わし、ロトに家族を連れてすぐに逃げるようにという指示を与えました。

エホバは愛情深い方だということがわかります。ロトのことを本当に愛していたからです。

「生き延びるために逃げなさい!後ろを振り返ってはいけません。この地域のどこに立ち止まってもいけません。除き去られないよう,山地に逃げなさい!」と的確な指示を与えていたことがわかります。(創世記19:17)

結果はどうだったでしょうか?

エホバはロトたちが無事避難してから、ソドムの街に硫黄と火を降らせ、言葉通りにその街を滅ぼし尽くしたのです。

エホバに忠実に従ったロトとその娘たちだけが救われたのです。

このロトの記述から何がわかるでしょうか?

私たちの将来はどうなるのかも知ることができます。

「また,2つの町ソドムとゴモラを断罪し,焼き尽くして灰にし,神を敬わない人たちが将来どうなるかを示しました。

そして,不法な人々の恥知らずな行いに非常に苦しんでいた,正しい人ロトを救い出しました。

(この正しい人は日々,同じ町に住む人々の不法な行いを見聞きして,苦悩していました。)

ですからエホバは,神への専心を示す人々をどのように試練から救い出すかを知っています。

また,正しくない人々を処罰の日にどのように確実に滅ぼすかも知っています」。

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世界​の​問題​を​解決​できる​政府​は​あります​か?

皆さんお達者ですか?

今年は異常な暑さでした。
地球温暖化から逃れることは出来るのだろうかと感じる暑さでした。

いろんな問題を解決するために多くの国が一生懸命努力していますが
世界中の問題を全部きれいに解決できる政府があると思いますか?

マタイ 6:9, 10

「それで,このように祈らなければなりません。
『天におられる私たちの父よ,お名前が 神聖なものとされますように。

あなたの王国が来ますように。

あなたの望まれることが,天と同じように地上でも行われますように』」。

これは神の政府が地球全体を治める時が来て欲しい
という祈りです。


今世界にはたくさんの政府があり
しかも問題はどれも複雑で
一つのことに取り組むにも
みんなが足並みを揃えるのが難しい
と思いませんか?

ここで言っているのは
多くの人間の政府に代わって
一つの神の政府が地球全体を治める
ということです。

もしそうなったら
どんなことを期待したいですか?

聖書には神の王国が
・私たちのために何をするか
・何をしてきたか

・地球を治めるのはいつか
・統治者は誰なのか
についても書いてあります。

「地球を治める 神の王国」
という雑誌記事をご覧ください。

https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&issue=2020-05&pub=wp20&srcid=share

神の王国が必要なのはなぜですか?

皆さんは、今人間を支配しているのは誰だと思いますか?

神が支配していると思いますか?
では、神を身近に感じますか?
神がいるならこれほど苦しいことが多く生じているのに
なぜ何もしてくれないのだろうと思いませんか?

どう見ても今人間を支配しているのは人間だと思いませんか?
なぜこうなっているのでしょうか?

創世記 1:28, 29

「神は2人を祝福し,こう言った。
 『子を生み,増えて,地上全体に広がり,
   地球を管理しなさい。
  また,海の魚,空を飛ぶ生き物,地上を動く
   あらゆる生き物を治めなさい」。
 …「私は,地上にある,種を付ける全ての草木と,
    種のある果実を付ける全ての木を,
     あなたたちに食物として与える」。

人類史が始まった時,統治していたのは
全てのものを造った方であるエホバという名前の神です。
人が暮らすために備えられた美しいエデンの園には,
豊富な食べ物ややりがいのある仕事がありました。

しかし、最初の人間は神の統治を退けてしまいました。
それで、人間による支配が始まることになりました。
結果はどうなっていますか?

伝道の書 8:9

「これまでずっと,人は人を支配し,
 人に害を及ぼして(人を傷つけて)きた」。

人類はより良い統治者とより良い政治形態を必要としています。
私たちを創造した神はそれを実現させると約束しています。

ダニエル 2:44

「天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。
  その王国はほかのどんな民にも渡されません。
   これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,
    その王国だけが永遠に存続します」。

詳しくは、

神の王国が必要なのはなぜか
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=2020085&srcid=share

をご覧ください!

愛と信仰があれば強くなれる

皆さんは強い人と聞くとどんな人を思い浮かべますか?

サムソンのような腕っ節の強い人かもしれません。

あるいは、ダビデのように次々と戦に勝利していく支配者や王のことを思い浮かべるかもしれません。

ですから、イエスについて強い人と聞くと意外に感じるという方もいらっしゃるかもしれません。

イエスは弱々しい姿で 絵に描かれたりするからです。

しかしイエスは地上での活動の終わり頃、次のように宣言されました。

「これらのことを言ったのは,

あなたたちが私によって平和な気持ちになるためです。

あなたたちは世で苦難に遭いますが,勇気を出しなさい!

私は世を征服したのです」。

(ヨハネ16:33)

イエス・キリストは、ご自分が世を征服する強さを持つ方であることを宣言しておられます。

どんなに攻撃を受けても動じない人であったり、目的を達成するまで、粘り強さや信念といったものをしっかりと貫き続けられる人に対して、本当に強い人と表現したりするのではないでしょうか。

イエスは、この世を支配している悪魔サタンの影響力に決して屈することのない強さを発揮されました。

実際サタンはイエスに対して何の力もなかったと言うことができます。

サタンは、イエスが地上で人間となられた時に、エホバではなくて自分を1番に愛するよう誘惑するチャンスだと感じ食欲をはじめとする欲求のままに行動するよう誘惑しました。

けれども、イエスはそれを即座に退けられました。

続いて自分を目立たせたり、地位や権力を得ること、エホバ以外のものを崇拝するように誘惑しましたが、これもイエスにすぐさは退けられました。

その後、宗教家や政治家たちを用いてイエスを追い詰めていって、活動できないように様々な画策をしましたが、これもイエスには一切通用しませんでした。

ですからイエスは、この世界を支配していた悪魔という強い存在に対して完全に征服する強さを持っていたということができます。

イエスがこのように父であり神であるエホバに忠誠を保って仕え続け、任されたことをしっかりと最後までやり遂げることができる強さを持つことができたのは、エホバへの揺らぐことはない愛と強い信仰があったからです。

ですから私たちも、エホバへの愛と信仰があれば、必ず強い人となれるということができます。

イエスは、その歩みに習いたいと願う全ての人にとって、素晴らしい手本を示してくださいました。

世を征服されたイエスは、ご自分の弟子となる人たちがもっと強くなることができるように助けられました。

それはこのような理由があったからです。

「もし世の人々があなたたちを憎むなら,あなたたちを憎む前に私を憎んだということを思い出しなさい。

あなたたちが世の人々のようだったら,世から好まれることでしょう。

ところが,あなたたちは,私が世から選び出し,世の人々のようではないので,世から憎まれます」。

(ヨハネ15:18,19)

イエスの弟子となる人たちも、世の人々のようにはならない、つまりこの世界を支配している悪魔に影響されたりはしないので、憎まれたり迫害を受けることになると告げられたのです。

だからこそ、私たちは強い人となる必要があるのです。

イエスは、まず警戒し立ち向かうべき最大の敵は誰かということについてはっきりと教えられました。

それは、目の前で敵対心をあらわにしている宗教家や政治家たちではなく、背後にいるサタンであるということを何度も告げられました。

加えて「私たちを…邪悪な者から救い出してください」と神に祈り求めるべきだということをお教えになりました。(マタイ6:13)

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「預言の言葉」に注意を払う

ノストラダムスの大予言という言葉を聞いたことがあるかもしれません。それは1973年に発行されたフランスの占星術者ノストラダムスの伝記とか逸話を交えて解釈するという体裁を取った本でした。

1999年第7の月に人類滅亡が訪れるという解釈を掲載したことによって、将来に対する不安を抱いていた当時の日本でベストセラーとなりました。

しかし大予言は実現しませんでした。

聖書は人類に素晴らしい将来があることをたくさん予告しています。正しい人は地上で永遠に暮らしますとか、もはや死はなくなり悲しみも嘆きも苦痛もなくなるという約束をしています。(詩編37:29、啓示21:4)

新しく聖書を学んでいる方は、それを確信できように努力しているかもしれません。

「私たちにとって預言の言葉はいっそう確かなものとなりました。

預言の言葉は,暗い所で輝くランプのように皆さんの心の中を照らします。

夜が明けて明星が昇るまで,皆さんがそれに注意を払っているのは良いことです」。

(ペテロ第二1:19)

預言の言葉に注意を払っているのは、とても良いことであると述べています。私たちの信仰を強めることができるからです。預言の言葉とは何か。どのように預言の言葉は一層確かなものとなったのか。預言の言葉に注意を払うことはどのように私たちのためになるのか。そうしたことを学んでいきたいと思います。

<預言の言葉とは何か?>

あらかじめという「予」言は、未来の出来事を予想していることです。まだ到来していない先の出来事について言い当てるようにすることを言います。ノストラダムスの予言とか科学者の予言のように使われます。

聖書で言う「預」言は、神からの言葉、神の意志の啓示や布告、神からの道徳上の教え、神の命令や裁きの表明、これから起きることに関する宣言などが含まれるということです。ですから、神から「預」かる言葉であるということがわかります。

聖書には本当に将来に対するたくさんの預言が含まれています。エホバ神は全知全能の神です。ですからエホバ神だけが将来を正確に予告することができるのです。

「すでにご存じの通り,聖書の預言はどれも個人的な解釈に基づいてはいません。

どの預言も,人間の考えによって語られたのではありません。

人が聖なる力に導かれて,神からの言葉を語ったのです」。

(ペテロ第二1:20,21)

神の聖なる力つまり神の活動する力によって、情報が伝えられ、心を動かされまた導かれたことがわかります。

彼らの思いとか心に働きかけて、神の目的に従って彼らに動機付けを与えたり導いたりしたことがわかります。

ですから、神の言葉であるということです。

この聖書預言には、どんなことが記されているのでしょうか?

神の王国について書かれています。その王国政府によって、神はご自分の名前を神聖なものとして、この地球と人類に対して当初考えていたことを実現されるのです。

イエスも「あなたの王国が来ますように」と祈ったのではないでしょうか?

聖書の預言を実現する上で、イエスは本当に重要な役割を果たします。

イエスは、聖書中の多くの預言が成就していく上で中心人物であることが分かります。

創世記3章15節のエホバの最初の預言の宣言から、啓示の書の輝かしい数々の幻に至るまで聖書の預言は、メシア王国に関連したイエスの役割を考慮に入れなければ、正しく理解することはできません。

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死によってすべてが終わりますか

最近モロッコの地震で約3000人、
半年前のトルコ・シリアの大地震では5万人を超える方が、
1年半続くロシア、ウクライナの戦争では両軍合わせて50万人
を超える方々が亡くなっていると報道されています。

人が死ぬことを日本では、世を去る、逝去、他界
といった言葉で表現することがあります。
これは、人が死ぬと遠く別の世界で生き続けているという
仏教や神道の考えから来ています。
8月はお盆の習慣があります。
その時期には、先祖の霊が帰ってきて
家族と一緒に過ごすことができると信じられています。

亡くなった人がどこか他の場所で生きているという考えは他の宗教にもあります。
クリスチャンが死ぬと、天あるいは地獄に行くと信じられています。
ヒンズー教では、人が死ぬと違う生き物に生まれ変わることが信じられています。
このように多様性があるものの、ほとんどの宗教に共通している考えがあります。

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良心を正しい基準に合わせる,大切なのはなぜ?

皆さんは、自分が全く知らない土地を旅行しようと思う場合、持ち物の中に必ず地図を含めるに違いありません。

最近はスマホの地図アプリなどを使う方が多いと思います。見やすくて目的地までのルートをきちんと示してくれる地図があれば、迷わずに目的地に行くことができます。

私たち人間の一生も旅に例えられることがあります。

人生を導くものがあれば何も迷わないのに…そう感じる方も多いかもしれません。実は私たち1人1人生まれつきそういうものを持っていることをご存知だったでしょうか?

創造者であるエホバ神が、私たち人間に与えてくださっているものです。

「律法を持たない異国の人々も,律法にある事柄を生まれつき行えます…

彼らこそ,律法の内容が心に書かれていることを証明しています。

彼らの良心が彼らと共に語り,

彼らは自分の考えによって非難されたり弁護されたりしているのです」。

(ローマ2:14,15)

良心は、日々物事を決定する際に使う本当に大事な機能です。良心とは簡単に言うと、私たちの内面にある善悪の感覚のことです。

この良心があるので、悪いことをした時は明るく嬉しい気持ちになりますし、悪いことをした時は嫌な気持ちになります。良心が正しく働くなら、大好きなお父さんエホバとの絆を強め守ることができます。

正しく機能させるためには、正しい基準に沿って自分の良心を育てていく必要があります。

もし仮に、正しい基準を十分に理解していなかったり、何度も無視して自分の欲望のままに行こうとすると、良心は信頼できないものになってしまうことでしょう。

では正しい基準、良心が正しく働くよう自分を調整するための情報はどこから得られるでしょうか?どうやって良心を育てていくのでしょうか?

今の世の中は色々な情報で溢れています。

生き方考え方などを教えるセミナーにお金を払って参加したり、著名人やスポーツ選手、芸能人のような一見成功しているように見える人たちの言動を自分のお手本基準にする人もいます。

また結局人はいつか死ぬんだから、したいことをするため自分の内なる声に従って物事を決める人もいます。

見知らぬ土地に旅行に出る際、持っていた地図が古かったり、遠い記憶を頼りに書いてくれた地図だったらどうでしょうか?

せっかく地図を持ってきたのにきちんと見ず、自分の感覚で目的地まで向かうとしたならどうでしょうか?

目的地までの道のりは遠いかもしれません。旅行は楽しいものとはならないかもしれません。

正確で最新の地図である正しい基準を選ばないと、正しく働く良心を育てることはできません。

では、その情報はどこから得られるでしょうか?

私たちに良心を与えたのはエホバ神でしたね。人間を含む全てのものを造った方の考えを学ぶなら、正しい良心を育てるための基準をしっかり持つことができます。

では、具体的にどんな方法があるでしょうか?

まず初めに

神の教えを愛し大切にする気持ちを深めます.

「私はあなたの律法を愛してやまない!一日中じっくり考える。

私は敵よりも賢くなる。あなたのおきてがいつまでも私と共にあるから」。

(詩編119:97,98))

書いた人の神の教えを愛する熱い気持ちが伝わってきます。

この詩編作者の育った環境は良いものではありませんでした。エホバに従わない親に育てられ、ある時には自分の兄弟を親に殺されることさえあったのです。でも、そうした悪い環境に良心が影響されることはありませんでした。

神の律法を当てはめた人の物事がどのように良い方向に運ぶのか、それをよく見て律法に対する愛着を強めていたのです。

(さらに…)

人間には神の導きが必要 なぜそう言えるか

最近は国内外問わず大勢の観光客の方が来られます。
そういった方たちは初めての土地に来るので、
様々なガイドを取り寄せるということをいたします。
そういったナビとか導きといったものを必要とするわけです。

事前に導きがあると時間を節約することができますし、
知らなかった楽しい思いをすることができます。
知らなかった危険を避けることもでき、
安心して旅行を楽しむことができるというメリットがあります。

私たちの人生も、知らないところを旅行するようなもの
といえるのではないでしょうか?
正しいアドバイスが与えられるならば、
数多くのメリットがあります。

「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。
天の王国はその人たちのものだからです」。
(マタイ5:3)

イエスはここで、神のアドバイスとか
ガイドが必要であると言っています。
なぜそう言えるのでしょうか?

私たちは何回も生まれ変わって
ここに存在しているわけではありません。
私たちの人生というのは初めて存在します。
そうすると初めて直面することがたくさんあります。
ちょうど知らない土地を旅行しているようなものです。

何で私たちは生きているんでしょうか。
どんな目的があるんでしょうか。
家族は本当に幸せに生活するにはどうしたらいいんでしょうか。
今の命だけが全てのでしょうか。
と様々な疑問が湧いてくるわけです。

そうすると大勢の人たちは、
哲学とか宗教といったものに目を向けることがあります。
でも疑問に対する答えっていうのは、
それぞれ宗教ごとに異なっているのではないでしょうか。
中にはそういった事柄に答えることがない宗教も
たくさんあります。

例えば、神に感謝する様々な祭りというものが
日本で頻繁に行われていることを知っています。
そういった感謝の念というのは、
何かが聞かれたとか備えられたことに対する感謝や願い
を表したものであって、
何か自分の人生を導いてくださっていうことに対する感謝を
祀るようなものはほとんどないのではないでしょうか。
こういった事柄を考えてみますと、
何が私たちの人生を導く正しい導きなのか
そもそもそういう導き自体があるのかということも、
ということを考えさせられるものとなります。

「正しいことを切望している人たちは幸福です。
満たされるからです」。
(マタイ5:6)
神の導き、正しい導きを切望している人たちは満たされる。
正しいアドバイスを見出すことはできるとイエスは保証しておられます。
この正しいアドバイスとはどんなものなのでしょうか?
文脈を見ると神の導きについて触れていますから、
神から見て正しいそういうアドバイスであるに違いありません。

そのようなアドバイスを本当に受け取ることができるのでしょうか?

「私はあなたに洞察力を与え,進むべき道を教える。
あなたに目を留めて助言を与える」。
(詩編32:8)

神ご自身聖書の中でご自分を自己紹介しておられます。
神は人生を始めて歩む経験の少ない人たちに洞察力を与えて
賢く歩むことができるようにしてくださいます。
進むべき道をガイドしたりアドバイスしてくださる方である
ということが述べられています。
あなたたちではなく「あなたに」とあるので、
それぞれのその状況に合わせて必要なアドバイスを
与えてくださる方であることが書かれています。

神はどのように導いてくださるのでしょうか?

「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,
教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。
(テモテ二3:16)

神はご自分の力を用いて、
導きとなる聖書を書かせていうことです。
聖書の中で唯一の神であると明らかにされているエホバは、
聖書を用いて人間を導いてくださるというわけです。

イエスもマタイ5章の言葉を語った時に、
そのことを意識していたに違いありません。
なぜなら、イエスはご自分の人生の中で絶えず
神の名前と神の言葉聖書に注意を向けることをされました。
例えば、 イエスが最初に活動を始めた時に
サタンから誘惑を度々受けられました。
その時にイエスは、聖書の言葉をわざわざ引用して、
そのようにしなければならないということを明らかにされました。
他の人々から多くの質問を受けることもありましたが、
その機会も絶えず聖書を引用し
エホバの名前を含めて取り上げることにより
ご自分がエホバの導きというものをいつも意識していることを明らかにされました。
ですから、私たちは聖書に注目していくことが必要です。

聖書は、本当に特異な宗教書ということが言えます。
全人口の中で約3000以上の言語で翻訳されています。
ですから多くの人々は、
自分が知っている言語で聖書を読むことができます。
これほど翻訳されている宗教書はありません。
つまり、神の導きを誰でも
見ようと思えば近づくことができる書物となっています。
ですから聖書は人生のガイドブック
ともいうことができるでしょう。

人生のガイドブックである聖書から
私たちが益を得るにはどうしたらいいのでしょうか?
スマートフォンとかインターネットで
いろんな情報を集めたとしても、
よく見ていなかったり行動しなければ、
本当に正しいことなのか全く役立たないのか
ということがわかりません。
同様に聖書も、実際開いて読んで理解して、
行動し当てはめていくなら、
本当に価値のあるものなのだということが
分かってくるに違いありません。

「正しいことを切望している(飢え乾いている)
人たちは…満たされる」とありました。
(マタイ5:6))

暑い中奉仕したりすると、
喉が乾いてくるのではないでしょうか。
そういった時に冷たい水がコップで差し出されたとしたら
どうしますか。
ずっと眺めていたら、何も良い益はありません。
しかしそれを飲んだ時に、
私たちは本当にほっとし安らぎを感じて、
体自体がその水によって癒されるという経験をして
価値を知ることができます。
同様に私たちは、渇望を実際に
行動で表すことが必要となってきます。

そうすると、3つほどの益が得られるようになっていきます。

1.私たちの人生が幸福なものとなっていく

「エホバの律法は完全で,力を吹き込む。
…経験の浅い人を賢くする。
…心に喜びが生まれる。
…目が開かれる。
…金よりも,多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも,巣から滴り落ちる蜂蜜よりも甘い」。
(詩編19:7-10)

エホバの導きを意識するならば、
その人は生きていく力を得ることができます。
初めて歩む人生でも賢く歩め心に喜びが生まれていきます。
さらに多くのことを発見し、目が開かれます。
本当に良い事柄に気付くこともありますし、
危険を避けるという形で目が開かれることもあります。
本当にそれが人生において価値があるということを実感することができます。

2.神の助けを得られる

エホバ神はご自分のアドバイスを信頼する人を
喜んでくださいます。
例えば、古代にアブラハムという人がいました。
人生においてエホバの導きを絶えず信頼して、
その導きに従って歩んだ人でした。
その人は当時様々な技術とか文化も最先端の町に住んでいた人
自分自身も裕福な人でした。
でもある時、神から自分の導きに従って行動するように
と言われました。

アブラハムはどうしたでしょうか?
その導きに従い神を信頼して導きに沿って行動しました。
一生そうしました。困難な時もそうしました。
どんな結果が待っていたでしょうか?
アブラハムは人間でありながらも神に友と呼ばれるうな
そういう親しい絆を築くことが出来ました。

真の友とはどんなものだと思いますか?
本当に様々な時に助けたり、励ましたり、支えてくれたりします。
エホバ神もアブラハムの人生において、
いつも助け支え励まし導いてくださったのです。
私たちもエホバとの絆をそのようなものにすることができるということです。
私たちの人生は、真の友エホバによって支えられることに
喜び得られるということになるのではないでしょうか。

3.将来の希望を持つことができる

神の導きを自覚する人たちは神の王国の希望を与えられるとイエスは言われました。
(マタイ5:3)
神はこの王国を通して、今の様々な悪い状態
困難な状態を解決しようとしておられます。
例えば、病気、死、戦争、老化、災害といった
様々な問題に直面する私たちを、
人間の政府では何もすることができないので、
ご自分の政府を用いて解決しようと計画しておられます。
私たちはそのような神の約束について聖書を通して
目を向ける時に、真の希望を得ることができます。

ある人たちは、神の王国の当事者として
天からこの地球を導くことができます。
また別の人たちは
様々な問題が解決されて楽園のような状態になったこの地球で、 永遠に生きられるという素晴らしい希望があります。

では、私たちはそういった神の導きをを受けるでしょうか?

残念ながら、
全ての人が神の導きを受け入れるわけではありません。
中には神の導きに気づいていながら、
それを受け入れなかったり、
途中でやめてしまう人たちもいます。
どんな障害があって、
神の導きを受け入れることができないのでしょうか?
イエスはそのことについても私たちも教えてくださっています。

「人が種をまきに出掛けました。
まいていると,幾らかは道端に落ち,
鳥が来て食べてしまいました。
幾らかは土が少ない岩地に落ち,
土が深くないのですぐに芽を出しました。
しかし,太陽が昇ると日に焼けて,
根がないので枯れてしまいました。
幾らかはいばらの間に落ち,
伸びてきたいばらにふさがれてしまいました。
さらに,幾らかは良い土に落ち,実を付け始め,
ある種は100倍,ある種は60倍,
ある種は30倍の実を付けました」。
(マタイ13:3-8)

この例え話は何を言いたかったのでしょうか?
「人が王国に関する言葉を聞いても意味を悟らない場合,
邪悪な者がやって来て,
心にまかれたものをさらっていきます。
これが道端にまかれたものです。
岩地にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞き,
喜んですぐに受け入れる人です。
けれども自分の内に根がなく,一時は続きますが,
その言葉のために苦難や迫害が生じると,
すぐに信仰を捨ててしまいます。
いばらの間にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞く人ですが,
今の体制での心配事や富の誘惑によってその言葉が塞がれ,
実らなくなります。
良い土にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞いて,意味を悟る人です」
(マタイ13:19-23)

この例え話は人について述べていることがわかります。
「土」は各人の心の状態です。
そして 「種」は聖書に書かれている王国に関する言葉です。

最初の人は道端に落ちた種です。
道端は畑と違って人々に踏み固められている土地です。
つまり心が周囲の人々の影響や価値観に左右されて
固まってしまってるような状態の人のことを指しています。
そのような状態の人の特徴は何でしょうか?
ノアの洪水の時の人々はどんな生活だったでしょうか。
(マタイ24:37-39)
食べたり飲んだり、結婚したりするという日常生活に追われて、
その言葉で頭が一杯いっぱいになってしまった人たちでした。
時間やエネルギーは全てそれにつぎ込まれていたので、
神の導きを受ける機会があったのに
後回しになってしまいました。
そういった人たちは、
サタンによって神の導きを受ける機会を取り去られてしまい、
その結果命を失っていきます。

では何が必要でしょうか?
「王国に関する言葉を聞いても意味を悟らない場合」
と説明されています。
つまり時間を取って神の言葉を学んだり
じっくり考えたりすることによって
意味を悟ることができるわけです。
つまり踏み固められた土のような固定概念を、
神の言葉によって種を受け入れ易くすることができる
ということです。

では、2番目の心の状態は岩地に落ちた種です。
それは最初、土があったので芽を出しました。
ところが陽に当たると枯れてしまったわけです。
これは喜んで受け入れたのに、様々な強い反対に遭った時に
やめてしまった人のことを指しています。

なぜやめてしまったのでしょうか?
不幸があったからではありません。
土が薄くて、下に硬い凝り固まったものがあったわけです。
これはその人の今まで培ってきた感情とか価値観が凝り固まっている状態です。
そういった人々は聖書を学びました。
しかし学ぶにつれて、聖書の基準つまり神の正しい導きは
古い厳しい時代に合わないという感情が芽生えてくるわけです。

例えば、世の中の性に関する基準はだんだん低下していきます。
結婚関係前の性関係とか同性愛という事柄に関して
世では寛容ではになってきて基準を下げてきています。
岩のような固められた古い感情を持っているならば、
周りの人にそれは古くさいとか見方が厳しいとか言われた時に、
すぐに諦めてしまいます。やめてしまうわけです。

このような状態になった時にどうしたら良いでしょうか?

コリント第一6章11節をみると、
1世紀にそのような状況で神の基準から外れた不道徳な生活を送っていた人たちが
変化した経験が載せられています。
鍵となったのは、「神の聖なる力によって」その人たちが
神の導きを受け入れるようになったことが言及されています。
ですから、神の聖なる力を意識して祈り求めて、
神の聖なる力を聖書からじっくり考えて得るようにすることが必要になります。

エホバの助けがあるならば、
今の価値基準が変化しているのはサタンと邪悪な天使たちによるものであり、
そういった事柄に従った結果がどういうものであるのかをよく理解して、
自分の岩のような硬い概念を崩していけるわけです。
ですから神の言葉を受け入れて、じっくり考えていくことが必要です。

3番目はいばらの間にまかれた種です。
それはいばらともに成長して、
最終的に塞がれて実らなくなってしまいます。

いばらとは何でしょうか?
「今の体制での心配事や富の誘惑」とあります。
世の中で生活していますと、
様々な生活必需品や仕事や老後の事柄や病気、
時には災害にあったりしたらどうするんだろうということで、
私たちが過度に心配するならどうでしょうか。
その不安を少しでも払拭したいと思って、
お金や物質的なものを十分蓄えておこうという気持ちになっていきます。
それが必要なことだと思い、
また神の導きを受けるのと並行してそれが行えると思って、
つまり両方育っていったわけです。
ところが「富の誘惑」裕福という魅惑が出てきます。
足りてしまうわけではなくて、〝もっと″という概念です。
そうすると、そのいばらによって最終的に塞がれてしまって、
神の導きを受け入れなくなってしまうのです。

どうしたらいいでしょうか?
いばらを引き抜くのが最善ということになるでしょう。
今の体制の心配事を引き抜くには、
過度の心配を払拭しなければなりません。
どうしたらいいですか?
それは、聖書の導きをじっくりと考えるということです。
エホバはご自分の導きに従う人たちに
どんな助けや約束をされてますか?
その人たちをどのように保護しておられるのでしょうか?
聖書の中でそれがどのように反映されていますか?
先ほどのアブラハムのように従った人に対して
どのように答えてこられたのかということを知るならば、
信仰が増し加わって
恐れの気持ちを持たずに済むようになっていくわけです。

.

この例え話は、意味を悟らないということから始まって、
意味を悟るということで終わっています。
つまり、神の導き神の言葉の意味を悟るために私たちはじっくり考える努力を絶えず払っていかなければならないとイエスをおっしゃったのです。
私たちはチャンスを逃さないようにいたしましょう。

聖書まだ学んでいない方は、無償の聖書レッスンを受けて、
神の言葉を取り入れる機会を逃さないようにしましょう。
t.co/REdyiKUiXa
すでにに学び始めた人たちは、
エホバが与えてくださっている週2回の集会の機会を、
切望したり自覚したりして必要なものだと意識を持って、
時間を優先的に買い取って、定期的に出席するようにいたしましょう。
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=1011229&srcid=share
そうするなら神の導きをじっくりと考えるチャンスが
開かれていくことになります。

私たちは、自分だけではなくて周りの人々もエホバのガイドや
アドバイスを受けるということに対して関心を払うことができるでしょうか?
旅行した時に、本当に良いガイドやアドバイスを受けたなら、
今度は同じ道を歩む人にそれを伝えたくなるというのは人の気持ちです。
神の導きがどんなところにあるのか、
そしてそれはどのように得ることができるのかということを
知らせることによって周りの人を助けて参りましょう。

ガイドやアドバイスというものは
本当に私たちの人生を豊かにしていくものです。
では、エホバのそのようなガイドやアドバイスを
謙遜に受け入れていきましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
http://inx.lv/5yT5
からご覧になれます。

ずっと続く固い友情を築くには

あなたのお友達と思える人をちょっと思い浮かべてみてくだい。
あなたが今イメージしたその友達は、
1.普通の友達 2.親友 3.大親友、どれに当てはまるでしょうか?

lineアプリには友達というカテゴリーあり、
その友達に追加することによって
相手とトークすることができるようになります。
でも、本当の意味でその友達と呼べるのは
果たして何人でしょうか?
お店関連、ガソリンスタンドとかも友達追加しないと
トークすることができませんが、
普通の友達でも親友でもなければ、
大親友ということはできません。

そもそも友達というのは どういう定義なのでしょうか?
ある女性は、友達というのはなんでも自由に話せる人、
いつでも電話をかけられる人、それが友達だと述べています。

では、親友とはいったいどういうものなのでしょうか?

「真の友はどんな時にも愛を示す。
苦難の時に頼れる兄弟である」。
(格言の書17:17)

本当の友は、一緒にいるだけで心が安らぐような存在です。
親友とは大変な時、落ち込んでいる時、元気がない時、
また不安な時、お互いに素直に感情を出し、
いわゆる本音トークで慰めてくれる人です。
何があっても裏切ることはありません。
本当に信頼できる人を親友と呼べるのではないでしょうか。

真の友達って本当にいいですよね。
心からいいなと思える人のことです。
ですから、この格言17章17節は
いいな!いいな!と覚えることができます。

では、どうやってその良い友達を
選んでいくことができるのでしょうか?

こんなことはありませんか?
仲のいいお友達が持っているものとか、
身に着けているものがすごくよく見えて、
それどこで買ったの?どこに売ってる?
と思わず聞きたくなるかもしれません。
なんかいいな。いい意味で影響を受けます。

子供が今までに聞いたことのない言葉を使います。
親はどこでそんな言葉覚えてきたの?
誰がそんな言葉使ってたの?と聞きます。
良くも悪くも友達から大いに影響を受けるということです。
自分の性格やライフスタイルに
影響を与えるということもあるかもしれません。

「賢い人たちと共に歩むと賢くなり,
愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う」。
(格言の書13:20)

ここで賢い人と愚かな人が対比されています。
その結果も全く違ってきます。

ペテロとヨハネは、当時の高等教育を受けていない、
いわゆる普通の人でした。
そんな2人の話し方を見聞きしていた宗教家の人たちが
非常に驚いたと記録されています。
この2人はイエスと一緒にいたことを知って、
周りの人たち宗教家の人たちも納得しました。
イエスと一緒にいるんだったら賢い人になるわと。

愚かな人の例もあります。
ディナは、あまり行いの良くない
地元の女性たちと一緒にいたくて、
よく出かけていったということが聖書に記録されています。
町の中で若い女性たちがうろうろしていることに目をつけられて、
ある時にレイプされてしまうという悲惨な事件がありました。

私たちは友達を選ぶときにどんな点を見るといいのでしょうか?

1つ目の点は良い性格の人です。
きつい嫌な性格の人を敢えて友にすることに
メリットはあるのでしょうか?

「だまされてはなりません。
悪い交友は良い習慣を台無しにし(道徳心をむしばみ)ます」。
(コリント第一15:33)

これまでの培ってきた良いものを蝕むような人は、
友にしない方が賢明といえます。
むしろ自分にとってプラスになる人、良い感化を与えてくれて、
見習いたい真似したい良いところを持っている人を
友にしていきましょう。

「鉄が鉄を研ぐように,人は友を研ぐ」。
(格言の書27:17)
さらに自分を磨き上げてブラッシュアップしてくれる人
を自分の友達にしていきましょう。

選ぶ点で大切な2つ目の点は、神が決めた基準を守る人です。

世の中は、性的マイノリティとかLGBTといった同性愛を
認めてあげようという動きが今一般的になってきています。
そういう生き方をしてる人が、
あなたにとって プラスになるでしょうか?
神様はどういう見方をしているでしょうか?

「性的不道徳や,あらゆる汚れ…
恥ずべき行い,愚かな話,下品な冗談なども,
聖なる人にふさわしくありません」。
(エフェソス5:3-5)
性に関することを含めて神が決めた基準を守っている人
そういう人を友にしていくことにいたしましょう。

友を選ぶのに大切な点は何でしたか?
良い性格の人かどうか、神を愛している人かどうか、
こんな点をぜひ見ていくことにいたしましょう。

では、その人との固い友情を築くには
どうしたら良いのでしょうか?

「愛は辛抱強く,親切です。愛は嫉妬しません。
愛は自慢せず,思い上がらず,下品な振る舞いをせず,
自分のことばかり考えず,いら立ちません。
愛は傷つけられても根に持ちません。
愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。
愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,
全てのことを希望し,全てのことを忍耐します」。
(コリント第一13:4-7)

(さらに…)