最近モロッコの地震で約3000人、
半年前のトルコ・シリアの大地震では5万人を超える方が、
1年半続くロシア、ウクライナの戦争では両軍合わせて50万人
を超える方々が亡くなっていると報道されています。
人が死ぬことを日本では、世を去る、逝去、他界
といった言葉で表現することがあります。
これは、人が死ぬと遠く別の世界で生き続けているという
仏教や神道の考えから来ています。
8月はお盆の習慣があります。
その時期には、先祖の霊が帰ってきて
家族と一緒に過ごすことができると信じられています。
亡くなった人がどこか他の場所で生きているという考えは他の宗教にもあります。
クリスチャンが死ぬと、天あるいは地獄に行くと信じられています。
ヒンズー教では、人が死ぬと違う生き物に生まれ変わることが信じられています。
このように多様性があるものの、ほとんどの宗教に共通している考えがあります。
人間の中に不滅の何かがあって、それが体が死んだ後も生き続けるという考えです。
この信条によって、大事な人を失ったその悲しみをいくらかでも慰めようとしているのかもしれません。
いずれにしても、死は残された家族や友人にも大きな影響を与えます。
言葉にはならない大きな悲しみ、喪失感を味わうものとなるでしょう。
ある精神科医は「親が死ぬとあなたは自分の過去を失い、
子供が死ぬと将来を失う」と述べました。
人が死ぬのは当たり前、生命の出現の過程の一部であると考える人が殆どです。
そうだとしても、死は受け入れがたく、
人生の一部が欠けたかのように感じるほど
大きな打撃を与えるものとなります。
このように死に対する考え方は様々です。
では、聖書は何と述べていますか?
「宴会が開かれる家に行くよりも,死を悼む家に行く方がよい。
死は全ての人が迎える終わりであり,
生きている人はそれを心に留めなければならない」。
(伝道の書7:2)
人が死ぬことを終わりに至ることと述べています。
聖書の観点から見て、死とはどういうことなのか考えてみましょう。
そもそも人はエホバによって作られました。
まず、人が命を得る過程について確認してみましょう。
「エホバ神は地面の土で人を形作り,
その鼻に息を吹き込んで命を与えた。
すると生きた人になった」。
(創世記2:7)
エホバ神が土で形作った人に息を吹き込んで生命力を与えると
「生きた人」(呼吸する生き物)になりました。
人は神によって与えられた生命力と、その生命力を維持するための
息・呼吸の両方に依存していることがわかります。
これが人が命を得る過程です。
では、死はどうでしょうか?
この過程が逆になります。
「人は息絶えると地面に戻る。
まさにその日,その人の考えは消えうせる」。
(詩編146:4)
ここで人は息絶えるつまり呼吸が停止すると命を維持する力がなくなり、
すぐに思考が消滅すると書かれています。
結果どうなりますか?
やがては地面に戻る、つまり土に帰っていくんです。
創世記2章7節で述べられている創造の過程が逆になります。
そう聖書は述べています。
この考えは科学と一致しています。
よくニュースなどで事件や事故の被害者が
心肺停止状態にあると報道されることがあります。
これは心拍と呼吸が止まってる状態で、
まだ蘇生する可能性があります。
蘇生措置によって心臓と肺が再び働き出すと、
その人は生き返ることがあります。
しかし蘇生の可能性がないと医師が判断するならば、
その人は死んだとみなされます。
ワールドブック百科事典は
心臓と肺が働きを停止すると、その人は臨床的には死んだ
とみなされるかもしれないが…人体の個々の細胞は数分間生き続ける。
約3分後酸素の結合に最も敏感な脳細胞が死に始める。
最後に死ぬのは骨、皮膚の細胞で
それらは数時間成長し続けることもあると述べています。
ですから呼吸や心拍および脳の機能を停止した後でさえ、
生命力はしばらくの間、体の中でとどまっていることがわかります。
ですから、生き絶えて呼吸が止まり、生命力が失われていき、
地面に戻ることで死ぬというこの聖書の考えは正しいことがわかります。
これが聖書の言う「全ての人が迎える終わり」なのです。
死ぬと感情もなくなり思考もなくなり意志を交わすこともできなくなります。
ですから、死は体もそして思考の全てがなくなります。
全てが終わり、存在しなくなるという意味です。
誰しも死を当然自然のものとみなしています。
でもそれを受け入れることは決して容易ではありません。
そこに矛盾が生じています。
聖書はこの矛盾の理由を説明しています。
「神は全てを適切な時に美しくし(整え)た。
神は人に,永遠を思う心さえ与えた。
それでも人は,真の神の行いを決して知り尽くすことがない」。
(伝道の書3:11)
ここで神は全てを美しくしたと書かれています。
ですから、エホバが人を創造した際にも美しくされました。
死はどうでしょうか?決して美しいものではありません。
人は元々永久に永遠に生きられるように造られていたのです。
そしてエホバは人に永遠を思う心さえ与えられました。
ですから人間が永遠に生きること、そして永遠に生きたいと願うことがエホバの本来の目的だったんです。
生きたいと願っていてもいつかは死ぬ。これが矛盾の理由です。
この矛盾を解消する希望はありますか?
あります。それも死が関係しています。
「罪の代償は死ですが,
神が与える贈り物は,私たちの主である
キリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
(ローマ6:13)
罪の代償は死と書かれています。つまり死は罪に対する罰です。
この原則に従えば、完全であった最初の人間アダムが死ぬようになったのは当然です。 なぜなら彼はエホバに反逆し、罪を犯したからです。
アダムは美しい楽園で永遠の命を得ていました。
しかし、禁じられていた木の実を食べて神の命令に背きました。
結果不完全になり、老いて死ぬようになりました。
彼らは完全さそして地上の楽園で永遠に生きるという権利を失いました。
全人類に罪と死をもたらしたのです。
私たちはみな彼らの子孫ですから、生まれながらに罪を受け継いでいます。
不完全であり、永遠に生きることはできません。
しかしイエスの死は、罪の対象ではありませんでした。
イエスは元々天で天使として存在しており、その後地上で完全な人間として生まれました。
イエスは敵たちに迫害され、無実の罪で杭につけられて殺されました。
死の3日後にエホバはイエスを地上で蘇らされ、そして天に戻られました。
イエスは完全で罪を犯すことがありませんでした。
この地上でも最後まで神に従順でした。
イエスは神に背いて命を失ったのではなく、神の望むことを進んで行ったが故に敵たちに殺されたのです。
ですからイエスは全く罪のない状態で死にました。
罪の代償としての死ではなかったのです。
それでエホバはイエスを復活させました。
この出来事を命の観点で考えてみましょう。
イエスは天での天使として命の権利を持っていました。
そして地上に来た時、完全な人間として生きる命の権利をも所有するようになりました。
イエスはこの地上で罪を犯すことなく死んだために、人間として地上で永遠に生きる権利を失うことはありませんでした。
つまりイエスは死んだ後も、2種類の命の権利をそのまま保有していたのです。
天と地上で永遠に生きる権利です。
エホバはイエスの復活の際、地上の体ではなく天での体とされました。
その復活の際に、天使として生きる命の権利を行使されました。
死ぬ前のイエスが、人間として永遠に生きる権利を自由に用いることができませんでした。なぜなら自分が生きるために用いていたからです。
ですが今、それが可能になりました。
では、その地上で永遠に生きる権利を
イエスをどう用いられましたか?
イエスは人類のために、 自分の完全な命の価値をエホバに差し出したのです。
アダムが神に反逆した故に私たちは皆、罪を生まれながらに持っています。
いわばエホバに負債を負ってるような状態です。
エホバは公正の神です。
負債を返すには、失った命に等しいもの、人間の完全な人間の命が必要だったのです。しかし人類に完全な命を持つ人はいません。
しかしイエスが犠牲にした命と、アダムが失った命には同等の価値があります。
イエスは自分ではなく人類のためにその価値を用いられました。
これによって全ての人の罪という負債を帳消しにする支払いがなされたのです!
これがエホバとイエスによって備えられた贖いという素晴らしい贈り物です。
贖いはエホバとイエスから全人類への贈り物、
つまり誰もが活用できるものです。
このプレゼントを受け取って活用するかどうかは、各自の意思に任されています。
そうするためには条件があります!
「子に信仰を抱く人は永遠の命を受ける。
子に従わない人は命を得ず,
神の憤りがその人の上にとどまる」。
(ヨハネ3:36)
そうです、従うことが求められています。
エホバとイエスに従うならば、贖いから力を得ることができます。
では、どのように従うべきでしょうか?
エホバとイエスについての知識を取り入れ、その知識に従って行動する必要があります。その基本的な知識は聖書にあります。
この聖書もエホバからの素晴らしいプレゼントです。
ですから毎日読み、毎日の生活でそれを当てはめていくことができます。
そうするならば、この素晴らしい贈り物を感謝して大事にしているということを示すことができるでしょう。
加えて、エホバがイエスを復活せたことは、やがて復活があることの確証となっています。
イエスの復活によりエホバの無限の力を確信することができるからです。
宇宙の年齢を130億年と推定する科学者がいます。
聖書の中ではイエスが全創造物の初子であると述べられています。
つまり1番最初にエホバが造られたのはイエスであるという意味です。
ですからイエスは宇宙よりも長く存在していることがわかります。
では、エホバがイエスを蘇らせた時、 イエスの記憶に関するどんな情報が必要でしたか?
イエスが目撃した天と地の生命の全歴史に関する知識、この地上でイエスが完全な人間として経験した事柄、その他膨大な情報が必要でした。
エホバはそれら全てを完全に記憶しておられ、復活したイエスに戻されました。
イエスを超える記憶を持つ人間は果たしているでしょうか?
イエスが生き返ったことにより、必ず復活がある、しかもエホバは全ての人を元通り復活させる力と能力が確かにあるということを確信することができるのです。
このようにイエスの死は終わりではなく、
大きな価値と意味があったのです。
今日は、死によって全てが終わるのだろうかという
問いに対する答えを聖書から考えてくることができました。
神とキリストの働きがなかったらそうだったでしょう。
贖いがなければ、人類は希望のない状態に置かれたままでした。
人間は老化と死に立ち向かうために様々な研究をしています。
科学や医薬の進歩は目覚ましいものがあります。
その進歩によって、寿命がいくらか伸ばされたり、多くの病気を治すことができるようになっています。
そうした最新テクノロジーを持ってしても、人間が生命の再生やあるいは創造を行うことはできません。
それができるのはエホバだけなのです。
ですから、エホバに希望を置く必要があります。
神に仕える昔の人たちは、復活に対する希望をしっかりと抱いていました。
「人は死ぬと,もう一度生きられるでしょうか。
私は捕らわれている間,解放の時が来るまでずっと待ちます。
あなたは呼んでくださり,私はあなたに答えます。
あなたはご自分の手で造った人に再び会いたいと願い(人のことを慕い)ます」。
(ヨブ記14:14,15)
ヨブは自分の死を囚われとみなし、解放の時をずっと待つと言っています。
ヨブにとってその解放は確実で、その時自分は呼ばれることを分かっていたのです。
なぜなら自分が死ぬと、エホバがどんな気持ちになるか知っていました。
エホバはご自分の忠実な民をもう一度見ることを願い慕う、
つまり心からそれを望まれるのです。
イエスが死なれたのは西暦33年です。
それから約2000年たとうとしています。
今エホバは行動しておられません。
それは、 神に従わないという選択がどんな結果になるのかを
全ての人にはっきりと見せるためです。
十分な時間が経過しその結果は明らかです。
エホバが行動を起こされ、全ての問題を解決する時は足早に迫っています。
その時、死者は甦り、人類は地上での永遠の道へと導かれていくのです。
ご自分に従う者たちを生き返らせるというエホバの目的は確実なので、
彼らは今でも生きていると見なされています。
「死者の復活に関して,神が語った事柄を読まなかったのですか。
こう言っています。
『私はアブラハムの神,イサクの神,ヤコブの神である』。
この方は死んだ人の神ではなく,生きている人の神です」。
(マタイ22:31,32)
ここでイエスは、エホバがモーセに語った言葉を引用しています。
(出エジプト記3:6)
モーセの時代西暦1514年には、アブラハムの死後329年、イサクの死後224年、ヤコブの死後197年がすでに経過していました。
死んだ人は何も知らず、感情も考えもなく、エホバを崇拝することはできません。
エホバは「生きている人の神」なのです。
しかし、エホバはここで「アブラハムの神、 イサクの神、ヤコブの神である」と述べています。
私は彼らの神であったとは述べておられません。
彼らはエホバな完全な記憶の中で生き続けていたのです!
エホバは彼らは必ず生き返らせることを決めています。
その実現が全く確かなので、
エホバからすれば彼らは今でも生きてるかのように考えておられるのです。
同じく私たちにも復活の希望があります。
エホバとイエスによる贖いのおかげで、楽園で永遠に生きるという希望があるのです。
鍵は何ですか?
今日考えたように、エホバとイエスに従うことです!
そうするなら、今も、そして将来の新しい世においても、
神と神を愛する全ての人の友情を永遠にわたって楽しむことができるのです。
そうです今もそして将来も、エホバに従うことが大切なのです。
「しかし,今や皆さんは罪から自由にされて神の奴隷になったので,
神聖な生き方という実を生み出しています。
行き着く先は永遠の命です」。
(ローマ6:22)
ここでは、神聖な生き方をするようにと勧められています。
今、エホバに忠節に仕えていること従っていることを、
生き方によって実証してまいりましょう。
そうすれば今、豊かな祝福を受け、
その行きつく先つまりその終わりは永遠の命となるのです。
裏付けとなる聖書の言葉は、
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