アフリカの宣教者のアロンという兄弟は、
「アフリカでは、人生の目的を求めて国中をさまよっている若者によく会いました」と言っています。
アフリカには大自然がたくさん残っており、独特の文化があるので、人生の目的を考えるには絶好の場所としてそこを旅しているようです。
南アフリカのキャンプ場で夜を過ごし夜空を見上げていきますと、天の川がはっきりと見えることができました。雲かなと思ったんですけど、星がたくさん集まっていて川になっていたので気がつきました。
銀河系の中心部の星がたくさんあるところを見るとそのようになるそうです。
自分が銀河系の少し離れたところから、この銀河系の中心を見ているんだということに気づき、宇宙の壮大さと自分の小ささを感じることができました。
昔は日本でも田舎に行くと天の川がよく見えたということです。
でも、じっと見てると怖くなってくるそうです。
まさに畏敬の念というものを感じさせるのです。
古代の人ダビデはこの星や宇宙を見てどのように思ったでしょうか。
「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。
死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか」。(詩編8:3,4)
自分がちっぽけな存在であるということを星を見て思ったようです。
多くの人は、宇宙や地球そして人体を見て、人はなぜ存在するようになったのかという風に考えます。
自分が存在する、つまり生きる意味は一体何なのか?と考えるのです。
ダビデ以外の聖書筆者も、宇宙や自然を観察して、まず神が存在しその神が何かの目的を持ってそれらを創造したという風に結論付けています。
「天を見上げてみなさい。誰がこれらの物を創造したのか。
星の軍勢を数え上げて率いている者である。その者は全ての星を名で呼ぶ。
膨大な活力と驚異的な力を持っているので,一つとして欠ける星はない。
あなたは知らないのか。聞いていないのか。
地の果てから果てまでを創造したエホバは,永遠にわたって神である。
疲れ果てることも,弱ることもない。その理解力は計り知れない」。
(イザヤ書40:26,28)
イザヤは天を見上げています。見上げた結論は何なのでしょうか?
エホバが全てのものを創造したと認めているわけです。
今日の私たちも空や宇宙を見ることができますが、同時に現代の科学とかを使ってもっと詳しく 調べることができ、それらが絶妙な造りになっていることを知ることができます。
2つの実例、1つ目は地球の位置について、2つ目は地球の循環システムについて考えてみましょう。
地球と太陽は、1億5000万キロの距離です!
もし5%だけ地球が太陽に近づいてしまったら、暑くなりすぎて焼け焦げてしまいます。
逆に1%だけ太陽から離れてしまったら、氷の世界になってしまい人類は生存することができなくなってしまいます。
皆さんどう思われますか?
この1億5000万キロという距離は、偶然出来上がった距離でしょうか?
それとも神が計算して配置した距離と思われますか?
この1億5000万キロの距離を保つために、もっと多くのことが関係しています。
地球と太陽が持つ引力と地球の公転や自転のスピードなどを計算して、その距離を保っていかなければいけないということです。
さらに、太陽が発する熱量も計算していきますと、ただ単に1億5000万という数字だけではなく、もっと複雑なことが関係していると言えます。
ただ、偶然にこの距離が出されたのでしょうか?
水の循環についても考えてみたいと思います。
もし家の人がゴミを捨てずにずっと置いたままで、トイレやキッチンの下水管が詰まってしまったら、そこは不衛生になって生活することができなくなってしまいます。
地球はまさにこのゴミ屋敷のような状態に置かれています。地球の外にゴミを持って捨てに行くことできません。汚水や汚染された空気も外に捨てに行くこともできずにずっと地球の中にあるという状態です。
でも、地球は非常に綺麗に美しく保たれています。どうしてでしょうか?
これはいくつかの循環システムによって可能になっています。
水の場合を考えてみましょう。
1.太陽の熱によって水が蒸発して空気中に揚げられます
2.そのようにして綺麗になった水は凝結して雲になります
3.綺麗になった雲の水が雨や雪としてまた地面に落ちていく
この循環システムによって、毎年どれぐらいの水が循環して浄化されているのでしょうか。
ある資料では、496兆トンもの水が毎年綺麗になっていると説明されていました。
水だけではなく、炭素と酸素の循環とか窒素も循環していつも綺麗にされています。
少し比較してみるのはいかがでしょうか?
人類が科学技術を発達させて、非常に便利な生活を実現させてきました。
しかし、毎年多くの有害廃棄物を出しています。
人類は独自の浄化リサイクルシステムを開発することができずに、有害物質が毎年増えていっているわけです。
逆に地球はこの絶妙な再生システムが備わっており、化学処理プロセスによりすべての廃棄物が完全にリサイクルされて綺麗な地球を保っているわけです。
人類は独自の浄化リサイクルシステムを発明して運用できなかったので、元々地球が持っているこの再生システムに頼るしかないと結論付けました。
最近聞くサステナブルという問題です。元々地球が持っていたものに頼るしかないと結論付けたわけです。
著述家のM.コリーは「もし本当に地球の生態系がただ偶然に進化したのであれば、これほど完璧な環境調和に達することは不可能であろう」と言っています。
皆さんはどうでしょうか?
「エホバは天の創造者,真の神であり,
地を形作った方,それを造ってしっかりと据えた方。
意味もなく創造したのではなく,人を住まわせるために形作った方」。
(イザヤ書45:18)
ここからエホバが地球を創造したこと、地球に目的があってしっかりと据えたということがわかります。
地球がだんだん破壊されてしまって、人が住めないところになるのではないかと案じている人がいるかもしれませんが、聖書はその考え方を支持してはいません。
また、地上で人が生きるように神が意図したというのであれば、この地球の目的と調和して、人間にも何か人生に意味や目的があるに違いないと期待することもできるのではないでしょうか。
次に、私たちの体についても見てみたいと思います。
体の造りを調べ深く考えていくと、ここにもやはり人間は神が何かの考えがあって存在するようにされたと思われる証拠がたくさん出てきます。
DNAはどれほどの情報を保存することができるのでしょうか?
ある資料見ていきますと、大体普通の本の100万ページぐらいの情報を入れることができるということです。
私たちが使っている新世界訳聖書が大体2100ページぐらいありますので、聖書470冊分ぐらいの情報がDNAの中に入ります。
では、この聖書470冊分のデータはどれぐらいのサイズのものなのでしょうか?
DNAは、細胞の染色体のカップの中に入っています。この核の大きさが大体直径5ミクロン(0.005mm)ほどだそうです。全然見えないぐらい小さいものです。
少し考えてみてください。
もし皆さんが偶然に100万ページのコードのある技術マニュアルを道端で拾ったとしましょう。
そこには自己修復とか自己複製の機械の作り方が書かれていて、何十億ものパーツがちょうど良いタイミングで組み合わされるような説明が非常に緻密に書かれています。
ところがこのマニュアルは顕微鏡でしか見えないのです。
さてこのマニュアル、偶然にできたマニュアルでしょうか?
それとも誰かが一生懸命書いたマニュアルと思われますか?
さらに人体を調べていくと、人間は独特の存在で、他の動物とは違うというところをたくさん見ることができます。
「それから神は人を自分に似た者,神に似た者として創造した」。
(創世記1:27)
人は神に似たものであるということが分かります。
生まれながらに動物にはない独特の感覚を人間は有しているということです。
特に人は神を意識することができ、神が示している愛に強く反応できます。
さらに、神との友情を築いて、神の意図を知りたいという自然の欲求をも持っています。
これらの感覚を満足させることによって、人間は永続的な幸福、満足感を得ることができるのです。
逆に考えていくと、神は人類をある目的を持って造ったことがここでもわかります。
何の目的もなく人間に神のかたちを与えるというのは道理に叶っていないからです。
人間の造りについても考えると、人間は特殊な存在であるということは間違いありません。
こう考えていって、多くの人は創造者が人間を特別の目的を持って造ったと結論付けています。
創造者が特別の目的を持って人類を造ったのであれば、
その目的は一体何なのでしょうか?
聖書にこの手がかりが書かれています。
「神は2人を祝福し,こう言った。
『子を生み,増えて,地上全体に広がり,地球を管理しなさい。
また,海の魚,空を飛ぶ生き物,地上を動くあらゆる生き物を治めなさい』。
(創世記1:28)
これはエホバが、アダムとエバに与えた命令です。
家族を増やしてエデンの園を管理して、後には地球全体に広がっていくことが書かれていました。
この創世記の前後の記述も含めて考えていきますと、生きることの意味、神の人間に対する思いを探ることができます。
28節の最初の言葉をもう1度ご覧になってください。
「神は2人を祝福した」と書かれています。
アダムとエバはエホバ神との良い関係を持っていたことがここからわかります。
先ほど呼んだ27節では、人間が神の像を持っていて、人間には神との親密な関係が必要であるということを先ほど考えました。
当時2人は本来の必要を満たして、十分幸福な生活を送ることができたことがここからわかります。
アダムとエバは、エホバとの意思の疎通を通わせていたということがわかります。
ある聖書学者は、アダムは毎日エホバと話をしていたと考えられるとも書いています。
エホバは、アダムとエバに愛情を感じてもらって、2人と親しくなることを目的としていたということがわかります。
皆さんは如何ですか?
このアダムとエバの状況のことを羨ましく思われるのではないでしょうか。
1つ目の生きることの意味がここから分かります。
つまりエホバとの良い関係を持つことです!
エホバはアダムとエバ2人を祝福したという表現からそのことがわかります。
少し前にDNAについてご一緒に考えていきました。
非常によくできており、科学者によると人の体は元々永遠に生きることができるようであったとも言われています。
「善悪の知識の木の実は,食べてはならない。
それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである」。(創世記2:17)
もし食べずにエホバに従うのであれば、アダムとエバは永遠に生き続けることができたと言います。
さらに、アダムの生活環境は最高でした。楽園で有意義な生活もありました。
ここで、2つ目の生きる意味の説明ができます。
つまりそれは、最高の環境の中での完全な命!というものです。
アダムとエバは、エホバ神との良い関係、永遠の命と完全な環境そういうものを持っていたわけです。
これにより、2人の人生は本当に意味深いものでした。
真の意味で生活を満足できるものがあったわけです。
アダムとエバは楽園で生活できたのであれば、現在はなぜ地球は楽園ではないのでしょうか?
アダムとエバは、エホバ神に反逆してこの楽園での永遠の命を失ってしまいました。
2人はエデンの園から追い出されて、その子供たちも永遠の命の機会を失ってしまいました。
聖書はこの罪と死の関係を「1人の人によって人類に罪が入り,罪によって死が…広がった」ったと書いています。(ローマ5:12)
その理由で、今地球には楽園が存在しません。
もしアダムが完全であったなら、なぜアダムは失敗したのか?完全な人間は失敗するはずはないのではないか、と思われる方もいるかもしれません。
アダムとエバは完全な人間でした。
ただこの完全というのは、神に絶対反逆しないという意味ではない相対的な意味での完全でした。
肉を切る意味で完全な包丁があるとします。本当によく切れます。
この包丁は完全なので、これを使ってスープを飲むことができるでしょうか?
口の中が血だらけになってしまうかもしれません。
あるものが完全だとしても、その完全というのはそのものに付された目的との関係において完全というわけです。
では、アダムが持っていた目的は一体何なのでしょうか?
神は自由意志を持つ理知的な人類をアダムを通して生み出すことを意図していました。
エホバは、人が自分で愛を培ってご自分の律法に従うことを選択できるように設計しました。
私たちは、エホバに強制されて無理やり従うことは意図されていなかったということです。
逆に、心から自発的にエホバを愛して従うことができるように造られています。
人類はこの自由意志を用いてエホバを崇拝し従う時に本当の喜びや満足を感じることができます!
アダムは自由意志を使って誤った決定を下し、失敗することになってしまったのです。
アダムとエバが生きる目的を失ってしまったのであれば、子孫はそれを得る見込みはないでしょうか?
私たち人類にはそれは不可能ですが、エホバには可能です。
「雨や雪は天から降り注ぎ,地を潤し,芽を出させて作物を生じさせ,
種をまく人に種を与え,食べる人にパンを与える。
それまでは天に戻らない。
同じように,私の口から出る言葉も,成果を収めずに私のもとに戻ることはない。
必ず私の望むことを成し遂げ,私が託した使命を確実に果たす」。
(イザヤ書55:10,11)
エホバは循環システムのことを引き合いに出して、ご自分の目的も成果を出して必ず返ってくると述べています。
11節ではエホバの目的は必ず実現すると約束しています。
全能の神エホバは失敗することはありません。
聖書は啓示の書の中で、地を損なっている人々が滅ぼされると言っています。
その後、もう1度地球を最初の目的通り楽園にすると約束しています。
その時、神に心から従う人には、もう一度アダムのように完全にされるという希望が載せられています。
エホバにより、人類が本来持っていた人生の意義を達成した満足のある生活が将来可能になるという明るい希望を差し伸べているわけです。
最初に話した「人生の目的を求めて国中をさまよっている若者によく会いました」と言っていたアフリカの宣教者は、「求めている目的を見出した人はほとんどいませんでした」と言っています。
多くの人は、大自然や生物を見たりして、自分の人生の目的についてじっくり考えます。
社会的地位や財産を築いたり快楽を追い求めたりして人生を今満喫したらこれが人生の目的なんだと思う人もたくさんいます。
ところが、これらが真の意味での生きる目的であるとは思えずに、失望したり諦めたりしているというのが現実です。
なぜでしょうか?
エホバはどんな気持ちで人間を造ったかということを考えていないからです!
私たちはいかがでしょうか?
自然や人体など色々考えましたが、聖書を調べて人生の意味を見つけることができたのではないでしょうか?
エホバのお気持ちを理解して生活し、エホバとの良い関係を築くというのが鍵でした。
このようにしてエホバからの愛を受けることもでき、幸福を現在感じ取ることもできています。
不完全ではあるものの自由意志を正しく用いることによって、私たちは充足感を得ることができています。
聖書もこのように励ましています。
「全てを聞いた今,結論はこうだ。
真の神を畏れ,その方のおきてを守りなさい。
人の務めはそれに尽きる」。(伝道の書12:13)
この畏れとは、神を愛してその力と偉大さを尊ぶ故に神に対して示す崇敬や畏敬に満ちた態度のことを表しているようです。
神を愛しており、神が愛してくださるのを知っているので、そのようにエホバを畏れるということです。
それで、引き続きエホバに対する認識や知識そして愛を深めるために、聖書や自然をよく調べて、深くこれからも考え続けていくようにいたしましょう。
おきてを守る点についてはいかがでしょうか?
私たちがエホバを畏れるならば、喜んでそのおきてに従いたいと思うのではないでしょうか。
従うことが1番幸福な結果になるということを知っているからです。
エホバが私たちに自由意志を与えてくださっていることを考えました。
私たちはエホバのおきてに従いますけれども、同時に自由意志を用いてそのように行います。
このおきてに従うことと自由意志がちょうど重なり合ったところを見つけることによって、私たちは人生に真の意味での満足感と喜びを得ることができるわけです。
もしこのポイントがまだ見つかっていないならば、もう少し頑張って探してみるのはいかがでしょうか。
そのようにすれば、人生はとても豊かになります。
エホバの地上に対する目的は、近い将来に完全に実現します。
その時は、私たちは完全な意味で人生の目的を満喫しながら、
永遠の命を楽しめるに違いありません。
それで今から、この人生の意義やエホバの考えを念頭において、
幸福な生活を送るようにしていきましょう。
裏付けとなる聖書の言葉は、
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