神が世界を終わらせる時は来る?

もし現在世界で起きている深刻な問題には何がありますか
と聞かれたならばどんな問題を思い浮かべるでしょうか?

人々の命を奪ってしまう戦争を引き起こす
各国の外交問題でしょうか。
世界各地で甚大な被害をもたらす自然災害や
異常気象の原因となっている環境問題でしょうか。
科学技術が進む現代にあっても、食糧が十分に得られずに
苦しんでいる人がいるという格差問題というものがあります。
日々の生活費という経済的な問題や、就職・就学に関する問題、
高齢化や病気の家族の世話など
もっと多くの問題が浮かぶかもしれません。

このように、
私たちは本当に多くの問題に囲まれて生活しています。
誰もがこれらの問題をなくしてほしいと
強く願っているに違いありません。

世界中の多くの人が求めているにもかかわらず、
多くの国の政府がその必要に応えることができていないのは
なぜでしょうか?
聖書の中には、
その根本的な理由の1つが次のように述べられています。

「エホバ,私はよく知っています。
人は自分の道(生き方)を定めることができません。
自分で自分の歩みを導くことができないのです」。
(エレミヤ10:23)

この聖句は、人間には自分たちを正しく治める能力が
ないことを示しています。
人間を造られた神エホバは、
人間を正しく治める能力を人には与えていないのです。
例えて言うならば、
人が水の中や宇宙で生きるように造られていないように、
人を支配するようには造られていないということです。

できないことをしようとしてきたので、
世の中には理不尽に思えることが多く、
人々は色々な問題に苦しんできました。
「これまでずっと,人は人を支配し,
人に害を及ぼしてきた」とある通りです。
(伝道の書8:9)

今ある問題は引き続き解決されることなく、
永遠に人々を苦しませるのでしょうか?
人は誰に支配してもらえるように造られていたのでしょうか?

聖書の中には、
このような疑問に対する答えが載せられています。
まず、人間の政府による支配がどのようになっていくのか
という点についてこう預言されています。

「この王たちの時代に,
天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。
その王国はほかのどんな民にも渡されません。
これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,
その王国だけが永遠に存続します」。
(ダニエル書2:44)

ここに書かれている夢、
この言葉はどんなことを意味しているのでしょうか?

まず「この王たちの時代に」とあるので、
地球上でそれぞれの国が
治めている時に神の王国を建てるということが分かります。
この王国が他の国に統治権を奪われることはありません。
そして、この神の王国と世界の国々との間に戦いがあって、
神の王国は全ての国々に勝利して終わらせます。

このようなことが実際に起こり得るのでしょうか?
この神の王国はどんな段階を踏んで
世界全体を治めるようになるのでしょうか?
ダニエル書にある記述の中から紐解いていくことができます。

誰が人間を治めるのかを決めるということについて、
エホバはバビロンのネブカドネザル王に
統治権に関する夢を見せました。
そのことがダニエル4章の中に記されています。
どのような夢だったでしょうか?

「大地の真ん中に、非常に大きい木が立って」います。(4:10)
「頂が天に達して,地の果てからも見える」とあるので、
本当に大きな木であることがわかります。(4:11)
美しく実が豊かになっていて、全ての生き物が
その木から必要なものを得ることができます。(4:12)

しかし聖なる者が天から下ってきて「この木をり倒し」
生き物たちを追い払うように言います。(4:13,14)
そして「切り株と根は」
「鉄と銅のたが」をかけられ地面に残されます。(4:15)
心は変えられ「獣の心が与えられて,
7つの時が過ぎる」と述べられています。(4:16)
「至高者が人間の王国の統治者であり,
ご自分の望む者にそれを与え,
最も立場の低い人をさえその上に立てるということを,
人々に知らせるため」であるとと告げられます。(4:17)

この夢を見たネブカドネザルは
一体どんなことを意味しているのか分からず、
この夢の解き明かしをダニエルに求めます。
そして、神はダニエルにこの夢の意味を説明させました。

「それは王ご自身です。
あなたは強大な方となり,威光が天にまで達し,
支配が地の果てにまで及んだからです」。(4:22)

この大きな木はネブカドネザル王のことを指していました。
ですので、この後の謎の解き明かしをすることは、
ダニエルにとってとても勇気が必要だったかもしれません。

「あなたは人々の中から追いやられ,
野獣とすみかを共にし,
雄牛のように草を食べることになります。
天からの露にぬれるままになり,こうして7つの時が過ぎます。
そしてあなたは,至高者が人間の王国の統治者であり,
ご自分の望む者にそれを与えるということを知るのです。
…切り株と根は残しておくようにとのことでしたから,
天が治めているということをあなたが知った後に,
王国は再びあなたのものになります」。
(4:25,26)

このようにダニエルは夢を明かしていきました。
そして解き明かし通りに事が起きていくことになります。

天から声が聞こえて
「王国はあなたから取り去られました」と告げられ、
ネブカドネザルは野獣のように生活するようになります。(4:31,32)
そして「7つの時」が過ぎると「正気に戻り」、「王国の栄光」や
「輝かしい威光も元に戻った」と言います。(4:36)

ネブカドネザルが見た夢と
この夢の実現から何がわかるでしょうか?
それは誰が人間を治めるかはエホバ神が決めるということです!
エホバの考えに沿って物事が運ばれていったのです。

この夢は、私たちにも影響を及ぼします。
この夢の中で預言されていた出来事というのは、
後の時代に大規模に起きることになっていて、
それには神の王国の設立が関係しているからです。

この夢が単にネブカドネザルの身に起きたことを予告しただけ
ではなかったと言える理由について5つの要素を取り上げます。

1つ目はタイミングです。
神がこの夢を見せたタイミングはイスラエルという
当時の神の王国が滅びて間がない頃でした。

歴代第一29章23節に「ソロモンは父ダビデの代わりに王として
エホバの王座についた」と書かれています。
このエホバの王座についたというのは、
平和の統治がエルサレムにいたイスラエルの王たちによって
行われていたということを表しています。
エホバの統治を表していたイスラエル王国が滅びて
間もない頃にこの夢を見せたということは注目に値します。

2つ目は人物です。
神が夢を見させたネブカドネザルという人物は、
エホバの統治を表していたイスラエル王国を
終わらせた人ということで、
神の王国に関してとても重要なことを行った人物でした。

3つ目はメッセージです。
夢そのものの中で述べられていた点を
思い起こすことができます。
ダニエル4章17節の中ほどには
「至高者が人間の王国の統治者」であると述べられていました。
夢のメッセージは、人間の国全てを統治する権利を
神が持っているということでした。
「至高者」つまり神が人間の王国の統治者であることに言及されていることから、 単にネブカドネザルだけではなく、
神の統治権つまり神の王国にも関連があることが分かります。

4つ目はダニエル書のテーマです。
ダニエル書に繰り返し出てくるテーマの1つが
神の王国の統治です。
例えば2章には巨大な像の夢で、
世界強国を砕く神の王国について扱われています。
またダニエル7章13、14節では、
王国の王について書かれています。

ダニエル書の預言は終わりの時が関係しています。
ダニエルが見聞きした事柄は「終わりの時まで秘密にされ」
終わりの時になって初めて
全貌が明らかにされることになっていました。
(ダニエル12:4,8,9))

タイミング、人物、 メッセージ、テーマ、終わりの時
という点から、この夢に出てきた木は、
ネブカドネザルの統治のことだけではなく、
神の統治を表しているということが言えるのです。

ではネブカドネザルの見た夢が、
今度は神の王国にどのように実現するのでしょうか?

エホバの統治はエルサレムにいた
イスラエルの王たちによって行われていました。
エホバはダビデの子孫の1人が
王になって永遠に統治すると約束していました。
(サムエル二7:16)
一方でエホバの預言者エゼキエルは、
次のように予告していました。

「主権者である主エホバはこう言う。
『ターバンを外し,冠を脱ぎなさい。
それらがそのままになることはない。
立場が低い者を高くし,高い者を低くしなさい。
私は,破滅,破滅,破滅をもたらす。
法的権利を持つ者が来るまで,冠は誰のものにもならない。
私はその者に冠を与える』」。
(エゼキエル書21:26)

ここではまずターバンを外し、冠を脱ぎなさいと願っています。
これはエホバの王座における王が除かれること、
つまりイスラエルの王たちによる神の統治を
終わらせること意味しています。
そして、エルサレムを中心とする「高い」ユダ国は低くされ、
異国の人々の勢力が「高く」されていく
ということを述べています。
さらに、法的権利を持つものが来る
つまり新しい王が任命されるということを予告していました。

この予告にある王家が取り除かれるということは、
ネブカドネザルが紀元前607年に
エルサレムを滅ぼした時に実現しました。
これによって神の統治が中断しました。

(さらに…)

自己中心的な世の中で愛を表すには

自己中心的な人はどんな人でしょうか。

自分中心でいる人、自分のことだけ自分のことばかりを考える人のことです。 

こういう人たちが増えていると感じるのではないでしょうか。

自己中心的な考え方や態度というのは色んな形で表れます。 

家族や周りの人に対する態度、お金や物に対する見方、

仕事のやり方、運転の仕方などです。 

もし自分のことばかり考えて生きていくなら、

やがて自分と周りの人を傷つけていくことになります。

本物のクリスチャンは、自己中心的な態度を取りたいとは思いません。

なぜなら愛のある人になりたいと思っているからです。愛は利他的です。 

ですから、自己中心というのは愛の対局にあることになります。

愛の対局にいるということは、エホバの対局にいるということになります。

なぜなら「神は愛だからです」。(ヨハネ第一4:8)

エホバは愛そのものです。ですから、自己中心的な人というのは、

エホバからかけ離れた最悪のポジションにいるということになります。

自己中心的な態度をただ避けるだけでは、本物のクリスチャンとは言えません。

イエスは次のようにも教えたからです。 

「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。

 それは,互いに愛し合うことです。

 私があなたたちを愛した通りに,

 あなたたちも互いを愛しなさい。 

 あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,

 あなたたちが私の弟子であることを知ります」。

 (ヨハネ13:34,35)

イエスは弟子たちに愛を表すように,それこそがイエスの弟子である

つまり本物のクリスチャンであることの証拠になると言ったのです。 

それで、自己中心的な人はクリスチャンになることはできません。

クリスチャンになった後に、自己中心的な態度を示すようになったり、

愛を十分表せないようになったりするならば、

その人はクリスチャンとしては色褪せてしまうことになります。

それで、私たちは自己中心的な世の中で愛を表したいと思います。

その生き方こそが本当の幸福につながります。 

エホバとイエスが幸福なのは、愛を表しているからです。

「受けるより与える方が幸福である」とイエスは教えました。(使徒20:35)

自己中心的な態度を示し続けると、自分と周りの人を傷つけることになりますが、

 愛を表し続けるなら、自分と周りの人が幸福になるということです。

では、本物のクリスチャンはどのように愛を表すのでしょうか?

それは当然、聖書が教えている方法で愛を実践することによってです。

聖書は愛について本当に多くのことを教えています。 

コリント第一13章4から7節では、

愛のあるクリスチャンがすることとしないことについて書いてあります。 

「愛は辛抱強く,親切です。

 愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず,下品な振る舞いをせず,

 自分のことばかり考えず,いら立ちません。

 愛は傷つけられても根に持ちません。 

 愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。 

 愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,

 全てのことを希望し,全てのことを忍耐します」。

辛抱強さと親切が1つのセットになっていることに注目できます。

この2つが同時に示されるときに、愛の力が一層強く発揮されるということです。 

仲の良い夫婦でも、時折喧嘩をしたり言い合いになったりすることがあります。

互いにイライラして、嫌悪な雰囲気になってしまうこともあります。

そんな時に辛抱強くなければと自分に言い聞かせて、

まずは言い争いをやめて辛抱強さを示そうとします。

でも辛抱強さを示しますが、相手と口を利かなくなるでしょうか。

辛抱強さを示しますが、きつい口調になったり、

(さらに…)

信仰で結ばれた人たちは守られる

「兄弟たちが一致して共に住むのは,

何と素晴らしいことだろう。何と心地よいことだろう」。

(詩編133:1)

これは、ダビデという人物が歌った歌の中の1つです。

当時、イスラエルの民族はばらばらに生活していました。

でも、年に3度だけエルサレムに向かう機会がありました。

その光景を目にしたダビデは、心からこの言葉を歌ったに違いありません。

 

この歌は、現代の私たちにとっても大切なメッセージを伝えていると思われませんか?

本当の意味での真の一致というものが、血縁だけで成り立っているとしたら、ダビデは敢えてこの歌を歌う必要はなかったかもしれません。

残念なことに、血の繋がりがあったイスラエル人同士の間でさえも争いが起こっていました。

近年私たちが見ることがある戦争や戦闘というものも、民族的に近しいもしくは地理的に近しい人たち同士で起こっています。今ウクライナもしくはパレスチナで起こっている出来事も、それを証拠づけているのではないでしょうか。

では、真の平和は実現するでしょうか?

それを見出すことはできると思われますか?

今、インターネット上に世界で最も多くの人口が集まっていると言われています。そのインターネットやSNSの中で、真の平和や一致は実現していると思われますか?

私たちエホバの証人がこの一致を味わっています。私たちも年に3回の大会を味わうことができています。その場に行くことができた方たちは、みんなが一堂に集まる様子を見て、ダビデと同じような気持ちを感じられたかもしれません。

ではなぜ、このような血の繋がりも政治的な繋がりも全くないエホバの証人は、真の一致というものを実現できていると思われますか?

「あらゆる人を敬い,信仰で結ばれた兄弟たち全員を愛し,

神を畏れ,王を敬ってください」。

(ペテロ第一2:17)

何で結ばれているとありますか?

血の繋がりでも政治的なものでもなく、信仰で結ばれているとあります。

信仰で結ばれているゆえに、エホバを愛し敬って崇拝している。

それが繋がりを生んでいるということになります。

その結びつきはどれほど広く大切なものでしょうか?

一体何がそれを実現させているでしょうか?

そこでペテロは話し始めた。「神が不公平ではないことがよく分かりました。

神を畏れて正しいことを行う人はどの国の人でも神に受け入れられるのです」。

(使徒10:34,35)

エホバは不公平な方ではない。そして全ての国の人がエホバから受け入れられている。これが真の平和と一致を享受できている理由になっています。

その結果、現代では850万人そして240を超える国や地域で、エホバの証人がエホバを崇拝するために集まっています。私たちはwebサイトの中で国際大会の様子を、動画や写真で見ることができます。多くのいろんな背景から来た仲間たちが、共に楽しんでいる様子を見ることができます。

私たちが今味わっているこの信仰で結ばれた兄弟関係こそが、真の平和であると言えます。

ですがエホバの証人は、 自分たちがこの中に招き入れられて、その中で真の平和と一致を楽しむことで満足しているわけでは ありません。新たに多くの人をこの中に招き入れるための努力を日々払っています。

「しかし,聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,

エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,

また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。

(使徒1:8)

(さらに…)

イエス・キリストについて知っておきたい本当のこと

皆さんは次のように尋ねられたなら、どのような人物が思い浮かぶでしょうか?

歴史を通じて最も偉大な人、世界中の人々の人生に最も影響を与えた人物。

イエス・キリストも歴史上の偉人の1人としてよく知られています。

しかし名前は聞いたことがあるけれども、いったいどういう人なのか、あまりよくわからないとおっしゃる方も少なくありません。

皆さんはいかがでしょうか?

イエス・キリストと聞いてどのようなイメージを持たれますか?

イエスは今から約2000年前に、この地上で活動しておられました。

意外に思われるかもしれませんが、同時代の人々もイエス・キリストがどういう人なのか、あまりよくわかっていなかったということが分かります。

「イエスはカエサレア・フィリピ地方に来ていた時,

弟子たちに,『人々は人の子のことを誰だと言っていますか』 と尋ねた。

弟子たちは言った。『バプテストのヨハネや,エリヤ,

エレミヤ,預言者の1人などと言っています』」。

(マタイ16:13,14)

イエスは、人々がご自分のことをどのように理解しているのかということにとても関心を持ちでした。

神によって選ばれた特別な人でしたが、そのイエスのことはあまりよくわかっていなかったということが分かります。

中には、イエスに政治活動や慈善活動してほしいと思ったり、また個人間のトラブルを解決してほしいと思っている人もいたということがわかります。

私たちの時代でも、イエスについて間違ったイメージが広まっています。

イエスのことをただの善い人、預言者、改革者のような人と考えている人もいます。またキリスト教信者の多くも、イエスが神だと信じています。

では、本当のところイエスは何者なのでしょうか?何をした人なのでしょうか?最も大切な点として、イエス・キリストは今、何をしておられるのでしょうか?

聖書をじっくり読んで、イエスの身元調査をきちんと行うならば、周りの偏見や噂に惑わされることはないでしょう。

聖書が教えているイエスについての本当のことはどういうことでしょうか?

聖書には、 イエスの性格、教え、活動の記録が詳しく記録されています。

聖書をじっくり読んでいくと、イエスがただの善い人ではなかったということが少しずつわかってきます。

イエスについて知られ、知られていることのほとんどは、聖書の中の福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの記録から詳しい情報を得ることができます。

では、イエスについてどういうことがわかるでしょうか?

聖書を読んでいくと、イエスには人々を引きつけるような魅力的な性格があったことがよくわかってきます。

イエスが重い病を患っていた男性を見て可哀想に思って、病気故に人々から避けられていた男性に優しく触れて、病気を治されたシーンが出てきます。

イエスが思いやり深い方であったっていうことが、よくわかるのではないでしょうか。思いやりと訳されているギリシャ語の形容詞は、字義通りには共に苦しんでいるという意味があります。

イエスは完全な方でしたから、他の人が抱えているような辛い病気ですとか、不安、悩み、 そうしたものは一切ありませんでした。それでも、イエスはいつも他の人の気持ちをとても大切にしておられました。

自分のことを二の次にして、他の人を助けるために思いやりに動かされて行動されたということがわかります。

子供から大人まで、色々な人がイエスのそばにいたいと思いました。イエスとの距離を感じたり、見下されていると感じることはありませんでした。イエスがいつも気遣ってくれているということが伝わってきたので、イエスと一緒にいるとホッとして安心しました。

(さらに…)

真理はあなたの生活にどのように影響しますか

皆さんは普段の生活の中で、あるものが本物かそれとも偽物かということを

どの程度気になされるでしょうか? 

特に問題なければ本物じゃなくても構わないっていう方も多いかもしれません。

ただ、食料品ですとか医薬品などがフェイク品だったりしますと、健康とか命に関わってきますので重大な問題となってきます。 

フェイクニュースというものもよく耳にするようになりました。 私たちを間違った行動へと唆すものであれば、本当に気を付けなければいけません。

では宗教上の真理についてはどんなことが言えるでしょうか?

真理という言葉には、 真実、本物、本当のことといった意味合いが含まれ、宗教上の真理とはフェイクではないことと考えることができます。

ただ多くの人にとって、宗教上の真理を見出だすことはあまり重要とは考えられていないように思われないでしょうか?

イエス・キリストは、宗教上の真理は大事なものだと考えていました。

イエスが処刑される少し前にユダヤ人たちは、イエスが自分は王だと言ってローマに反逆しているとローマの総督であるピラトに訴えていました。

「ピラトは言った。『それでは,あなたは王なのだな』。

イエスは答えた。『その通りです。真理を明らかにすること,

このために私は生まれ,このために私は世に来ました』」。

(ヨハネ18:37)

イエスにとって宗教上の真理とは、 自分自身が存在していることの意味そのものでした。

しかし続く節などを読んでいきますと、ピラトはそんなことはどうでもいいことだという態度を取っています。

では、この違いはどのようにして生まれたのでしょうか?

イエスは、ピラトが認めていないあることを信じていました。 

「真理によって彼らを神聖なものとしてください。

 あなたの言葉は真理です」。

 (ヨハネ17:17)

イエスは、聖書に収められている神についての真実や神の目的についての説明などは全て真理だと認めていました。一方ピラトの方は、 一般的な意味における真実しか考えていませんでした。

これら2つ異なった真理に対する見方というのは、何か違いを生み出すでしょうか?

「私の教えを常に守るなら,あなた方は本当に私の弟子であり,

 真理を知り,真理によって自由になります」。

 (ヨハネ8:31,32)

真理を知るか知らないかということは、自由なのか束縛されているのかといった違いを生み出すわけです。 

この時囚われていたのはイエスの方ではないでしょうか?

おそらくそういった事実もピラトの態度に影響を与えたに違いありません。この男は何を言ってるんだと考えて、宗教上の真理には興味を持たなかったのかもしれません。

でも、イエスが念頭に置いていたのは別のことでした。

イエスによれば「罪を犯す人は皆,罪の奴隷です」。(ヨハネ8:34)

ここで言う罪とは、人類が生まれながらに置かれている神から引き離されてしまっている状態のことを指しています。その状態は最終的に死をもたらします。

この時のピラトもそのような状態にありました。 ただ本人はそのことを自覚していませんでした。

実のところ私たちも皆全員この同じ状態に置かれていると考えることができます。

では、どのように真理は人を奴隷状態から自由にするのでしょうか?

これまで何世紀にもわたって 大勢の人が奴隷として売られました。住む場所とか、仕事とか、食べ物とか、 結婚なども自由に選ぶことができなくて生涯自由になる機会は与えられませんでした。

(さらに…)

生きることには大きな意味がある

アフリカの宣教者のアロンという兄弟は、

「アフリカでは、人生の目的を求めて国中をさまよっている若者によく会いました」と言っています。

アフリカには大自然がたくさん残っており、独特の文化があるので、人生の目的を考えるには絶好の場所としてそこを旅しているようです。

南アフリカのキャンプ場で夜を過ごし夜空を見上げていきますと、天の川がはっきりと見えることができました。雲かなと思ったんですけど、星がたくさん集まっていて川になっていたので気がつきました。

銀河系の中心部の星がたくさんあるところを見るとそのようになるそうです。

自分が銀河系の少し離れたところから、この銀河系の中心を見ているんだということに気づき、宇宙の壮大さと自分の小ささを感じることができました。

昔は日本でも田舎に行くと天の川がよく見えたということです。

でも、じっと見てると怖くなってくるそうです。

まさに畏敬の念というものを感じさせるのです。

古代の人ダビデはこの星や宇宙を見てどのように思ったでしょうか。

「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。

死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか」。(詩編8:3,4)

自分がちっぽけな存在であるということを星を見て思ったようです。

多くの人は、宇宙や地球そして人体を見て、人はなぜ存在するようになったのかという風に考えます。

自分が存在する、つまり生きる意味は一体何なのか?と考えるのです。

ダビデ以外の聖書筆者も、宇宙や自然を観察して、まず神が存在しその神が何かの目的を持ってそれらを創造したという風に結論付けています。

「天を見上げてみなさい。誰がこれらの物を創造したのか。

星の軍勢を数え上げて率いている者である。その者は全ての星を名で呼ぶ。

膨大な活力と驚異的な力を持っているので,一つとして欠ける星はない。

あなたは知らないのか。聞いていないのか。

地の果てから果てまでを創造したエホバは,永遠にわたって神である。

疲れ果てることも,弱ることもない。その理解力は計り知れない」。

(イザヤ書40:26,28)

イザヤは天を見上げています。見上げた結論は何なのでしょうか?

エホバが全てのものを創造したと認めているわけです。

今日の私たちも空や宇宙を見ることができますが、同時に現代の科学とかを使ってもっと詳しく 調べることができ、それらが絶妙な造りになっていることを知ることができます。

2つの実例、1つ目は地球の位置について、2つ目は地球の循環システムについて考えてみましょう。

地球と太陽は、1億5000万キロの距離です!

もし5%だけ地球が太陽に近づいてしまったら、暑くなりすぎて焼け焦げてしまいます。

逆に1%だけ太陽から離れてしまったら、氷の世界になってしまい人類は生存することができなくなってしまいます。

皆さんどう思われますか?

この1億5000万キロという距離は、偶然出来上がった距離でしょうか?

それとも神が計算して配置した距離と思われますか?

この1億5000万キロの距離を保つために、もっと多くのことが関係しています。

地球と太陽が持つ引力と地球の公転や自転のスピードなどを計算して、その距離を保っていかなければいけないということです。

さらに、太陽が発する熱量も計算していきますと、ただ単に1億5000万という数字だけではなく、もっと複雑なことが関係していると言えます。

ただ、偶然にこの距離が出されたのでしょうか?

水の循環についても考えてみたいと思います。

(さらに…)

愛の神が悪を許しておられるのはなぜですか

なぜ?

災害とか悲惨な出来事に見舞われると誰もが口にする言葉です。

この短い言葉に込められている人々の苦悩とか心痛を考えると、 切実に感じられ人ごとではありません。

猛威を振るうハリケーンによって人命が奪われ、建物が破壊されます。

地震により数分で都市が瓦礫と化します。

いつもと変わらない平和な日が、戦争やテロによって恐怖と暴力の伴う悪夢のような日に一転します。

事故により家族が怪我をし、命を落とすことがあります。

多くの場合、何の罪もない無実な人々が犠牲になります。

近年こうした惨事が頻繁に起きているので、「なぜ」と神に訴えかける人の数が本当に増えています。

「神様、なぜこんなことをなさるのですか。あなたを怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか」

「神はどこにおられるのですか。万物を制御する方が、なぜこんなことを許されるのですか」

神の忠実な僕たちも同様の疑問を神に尋ねています。

「私に悪事を見させるのはどうしてですか。圧制を見過ごしておられるのはどうしてですか。私の前に破壊や暴力があるのはなぜですか。口論や争いがあまりにも多いのはなぜですか」。   (ハバクク1:3)

皆さんも本当に神がいるならば、なぜこれほどまでに悪いこと辛いことを許しているのかと考えたことないでしょうか。

でも「神様、なんでこんな苦しみを許しておられるんですか?」

この疑問、なんだか神が悪いことをもたらしてるように聞こえないでしょうか。

「エホバが憎むものが6つある。いや,ひどく嫌うものが7つある。傲慢な目,うそをつく舌,無実の人の血を流す手,邪悪なことをたくらむ心,急いで悪に走る足,うそばかり言う不正直な証人,兄弟の間に口論を引き起こす者である」。 (格言の書6:16-19)

ここに記されている7つの行為は基本的なもので、 人間が行うあらゆるタイプの邪悪な行為を網羅しています。

さらに注目できるのは、6つから7つに増えているという点です。 これはここに挙げられたものが全てではないということを示唆しています。

つまり、神は過去に起きた苦しみ、現在起きている新しいタイプの悪,そういったもの全てを憎んでおられるということをこの聖句は証明しています。

そうであるなら、神が苦しみとか不公正を全て憎んでおられて、それを除き去る方法をご存じで、そうする力を持っているのであれば、依然として至るところに災いが起きているのはなぜかと思うことでしょう。

神が苦しみを許しておられる理由を知るには、苦しみが始まったその地点まで戻る必要があります。

創世記3章には、最初の人間と蛇を操るサタンとのやり取りが記されています。

最初の女性のエヴァは、「庭園の真ん中にある木の実」について、「食べたり触れたりするならば死ぬ」と神から言われ,それを理解していたことがわかります。

それに対して蛇は「あなたたちは決して死にません」、木の実を食べた日に目が開かれ「神のようになって善悪を知るようになる」と述べます。(創世記3:1-6)

言い換えると、「自分たちには支配者としてのエホバは必要ない。 何が正しく何が間違えているかを自分で決定できる。だからその実を食べてごらん」と言っています。

サタンがエヴァをエホバに不従順になるように誘惑した時に、重要な疑問が提出されました。

サタンはエホバの支配する権利に関して疑問を投げかけ、神はあなたたちに良いものを与えていない、人間は神の支配を受けなければもっと幸福になれる。だから従う必要はない、とほのめかしたわけです。

これはエホバの主権、すなわち支配する権利に対する攻撃でした。

(さらに…)

「苦難の時」に救われるために

愛情深い親は子供のことを本当に心から愛おしく感じます。

そのため、その子を害となるものから守りたい助けたいという思いになります。

それで、その子のことを叱ったり褒めたりしてアドバイスを与えていきます。

愛情深い天のお父さんも同じです。

私たち人間はエホバに創造されましたから、いわばエホバの子供と言えます。

エホバは私たちのことも助けたい守りたいと思っています。

実際いつの時代でも、心から仕える多くの人々をエホバは守ってこられました。

そもそもエホバが人間を創造されたのはなぜでしょうか?

どのように歩むことを望んでいたのでしょうか?

それは楽園の地でエホバに仕え、従順に歩み、平和で喜びの多い日々を送ってほしい。そうした願いがありました。

でもノアの時代の人々はそれとはかけ離れていました。

不道徳や暴力といったエホバの基準に沿わない、多くの人たちが存在していました。この時代、エホバに仕えていたのはノアとその家族だけです。

ノアから見れば、それは毎日が苦難の日々だったかもしれません。

それでエホバは行動を起こします。

ノアとその家族を守るために箱船を造り、多くの人たちに警告を与えるようにという指示を与えました。

その指示に従うかどうか、それによって命を得られるかどうかが決まるのです。

結果はどうだったでしょうか。

残念なことに、ノアとその家族以外は全て洪水によって滅んでしまいました。

エホバの言われた通りにそうなったのです。

では、この記述から何がわかるでしょうか?

「正しい人の救いはエホバから来る。

神は苦難の時の彼らの要塞。

エホバは彼らを助け,救い出す。

悪人から助け出し,救ってくださる。

神のもとに避難したから」。

(詩編37:39,40)

エホバはご自分に頼る人々を守ってくださるということが分かります。

エホバは述べられたことを必ず実行され、その通りに果たされます。

有言実行される方と言えるのではないでしょうか。

こうした聖書の記述は、過去の出来事として終わるのではなく今の私たちにも関係する出来事だということをよく理解することができます。

ノアの出来事から数世紀後にロトという人物が登場してきます。

この時代の人々もノアと同じように暴力とか不道徳を行い神に従わない大勢の人たちがいました。

それでこの時も、エホバはこの街全体を滅ぼすことを決意し、今回は天使を使わし、ロトに家族を連れてすぐに逃げるようにという指示を与えました。

エホバは愛情深い方だということがわかります。ロトのことを本当に愛していたからです。

「生き延びるために逃げなさい!後ろを振り返ってはいけません。この地域のどこに立ち止まってもいけません。除き去られないよう,山地に逃げなさい!」と的確な指示を与えていたことがわかります。(創世記19:17)

結果はどうだったでしょうか?

エホバはロトたちが無事避難してから、ソドムの街に硫黄と火を降らせ、言葉通りにその街を滅ぼし尽くしたのです。

エホバに忠実に従ったロトとその娘たちだけが救われたのです。

このロトの記述から何がわかるでしょうか?

私たちの将来はどうなるのかも知ることができます。

「また,2つの町ソドムとゴモラを断罪し,焼き尽くして灰にし,神を敬わない人たちが将来どうなるかを示しました。

そして,不法な人々の恥知らずな行いに非常に苦しんでいた,正しい人ロトを救い出しました。

(この正しい人は日々,同じ町に住む人々の不法な行いを見聞きして,苦悩していました。)

ですからエホバは,神への専心を示す人々をどのように試練から救い出すかを知っています。

また,正しくない人々を処罰の日にどのように確実に滅ぼすかも知っています」。

(さらに…)

世界​の​問題​を​解決​できる​政府​は​あります​か?

皆さんお達者ですか?

今年は異常な暑さでした。
地球温暖化から逃れることは出来るのだろうかと感じる暑さでした。

いろんな問題を解決するために多くの国が一生懸命努力していますが
世界中の問題を全部きれいに解決できる政府があると思いますか?

マタイ 6:9, 10

「それで,このように祈らなければなりません。
『天におられる私たちの父よ,お名前が 神聖なものとされますように。

あなたの王国が来ますように。

あなたの望まれることが,天と同じように地上でも行われますように』」。

これは神の政府が地球全体を治める時が来て欲しい
という祈りです。


今世界にはたくさんの政府があり
しかも問題はどれも複雑で
一つのことに取り組むにも
みんなが足並みを揃えるのが難しい
と思いませんか?

ここで言っているのは
多くの人間の政府に代わって
一つの神の政府が地球全体を治める
ということです。

もしそうなったら
どんなことを期待したいですか?

聖書には神の王国が
・私たちのために何をするか
・何をしてきたか

・地球を治めるのはいつか
・統治者は誰なのか
についても書いてあります。

「地球を治める 神の王国」
という雑誌記事をご覧ください。

https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&issue=2020-05&pub=wp20&srcid=share

神の王国が必要なのはなぜですか?

皆さんは、今人間を支配しているのは誰だと思いますか?

神が支配していると思いますか?
では、神を身近に感じますか?
神がいるならこれほど苦しいことが多く生じているのに
なぜ何もしてくれないのだろうと思いませんか?

どう見ても今人間を支配しているのは人間だと思いませんか?
なぜこうなっているのでしょうか?

創世記 1:28, 29

「神は2人を祝福し,こう言った。
 『子を生み,増えて,地上全体に広がり,
   地球を管理しなさい。
  また,海の魚,空を飛ぶ生き物,地上を動く
   あらゆる生き物を治めなさい」。
 …「私は,地上にある,種を付ける全ての草木と,
    種のある果実を付ける全ての木を,
     あなたたちに食物として与える」。

人類史が始まった時,統治していたのは
全てのものを造った方であるエホバという名前の神です。
人が暮らすために備えられた美しいエデンの園には,
豊富な食べ物ややりがいのある仕事がありました。

しかし、最初の人間は神の統治を退けてしまいました。
それで、人間による支配が始まることになりました。
結果はどうなっていますか?

伝道の書 8:9

「これまでずっと,人は人を支配し,
 人に害を及ぼして(人を傷つけて)きた」。

人類はより良い統治者とより良い政治形態を必要としています。
私たちを創造した神はそれを実現させると約束しています。

ダニエル 2:44

「天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。
  その王国はほかのどんな民にも渡されません。
   これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,
    その王国だけが永遠に存続します」。

詳しくは、

神の王国が必要なのはなぜか
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=2020085&srcid=share

をご覧ください!

愛と信仰があれば強くなれる

皆さんは強い人と聞くとどんな人を思い浮かべますか?

サムソンのような腕っ節の強い人かもしれません。

あるいは、ダビデのように次々と戦に勝利していく支配者や王のことを思い浮かべるかもしれません。

ですから、イエスについて強い人と聞くと意外に感じるという方もいらっしゃるかもしれません。

イエスは弱々しい姿で 絵に描かれたりするからです。

しかしイエスは地上での活動の終わり頃、次のように宣言されました。

「これらのことを言ったのは,

あなたたちが私によって平和な気持ちになるためです。

あなたたちは世で苦難に遭いますが,勇気を出しなさい!

私は世を征服したのです」。

(ヨハネ16:33)

イエス・キリストは、ご自分が世を征服する強さを持つ方であることを宣言しておられます。

どんなに攻撃を受けても動じない人であったり、目的を達成するまで、粘り強さや信念といったものをしっかりと貫き続けられる人に対して、本当に強い人と表現したりするのではないでしょうか。

イエスは、この世を支配している悪魔サタンの影響力に決して屈することのない強さを発揮されました。

実際サタンはイエスに対して何の力もなかったと言うことができます。

サタンは、イエスが地上で人間となられた時に、エホバではなくて自分を1番に愛するよう誘惑するチャンスだと感じ食欲をはじめとする欲求のままに行動するよう誘惑しました。

けれども、イエスはそれを即座に退けられました。

続いて自分を目立たせたり、地位や権力を得ること、エホバ以外のものを崇拝するように誘惑しましたが、これもイエスにすぐさは退けられました。

その後、宗教家や政治家たちを用いてイエスを追い詰めていって、活動できないように様々な画策をしましたが、これもイエスには一切通用しませんでした。

ですからイエスは、この世界を支配していた悪魔という強い存在に対して完全に征服する強さを持っていたということができます。

イエスがこのように父であり神であるエホバに忠誠を保って仕え続け、任されたことをしっかりと最後までやり遂げることができる強さを持つことができたのは、エホバへの揺らぐことはない愛と強い信仰があったからです。

ですから私たちも、エホバへの愛と信仰があれば、必ず強い人となれるということができます。

イエスは、その歩みに習いたいと願う全ての人にとって、素晴らしい手本を示してくださいました。

世を征服されたイエスは、ご自分の弟子となる人たちがもっと強くなることができるように助けられました。

それはこのような理由があったからです。

「もし世の人々があなたたちを憎むなら,あなたたちを憎む前に私を憎んだということを思い出しなさい。

あなたたちが世の人々のようだったら,世から好まれることでしょう。

ところが,あなたたちは,私が世から選び出し,世の人々のようではないので,世から憎まれます」。

(ヨハネ15:18,19)

イエスの弟子となる人たちも、世の人々のようにはならない、つまりこの世界を支配している悪魔に影響されたりはしないので、憎まれたり迫害を受けることになると告げられたのです。

だからこそ、私たちは強い人となる必要があるのです。

イエスは、まず警戒し立ち向かうべき最大の敵は誰かということについてはっきりと教えられました。

それは、目の前で敵対心をあらわにしている宗教家や政治家たちではなく、背後にいるサタンであるということを何度も告げられました。

加えて「私たちを…邪悪な者から救い出してください」と神に祈り求めるべきだということをお教えになりました。(マタイ6:13)

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「預言の言葉」に注意を払う

ノストラダムスの大予言という言葉を聞いたことがあるかもしれません。それは1973年に発行されたフランスの占星術者ノストラダムスの伝記とか逸話を交えて解釈するという体裁を取った本でした。

1999年第7の月に人類滅亡が訪れるという解釈を掲載したことによって、将来に対する不安を抱いていた当時の日本でベストセラーとなりました。

しかし大予言は実現しませんでした。

聖書は人類に素晴らしい将来があることをたくさん予告しています。正しい人は地上で永遠に暮らしますとか、もはや死はなくなり悲しみも嘆きも苦痛もなくなるという約束をしています。(詩編37:29、啓示21:4)

新しく聖書を学んでいる方は、それを確信できように努力しているかもしれません。

「私たちにとって預言の言葉はいっそう確かなものとなりました。

預言の言葉は,暗い所で輝くランプのように皆さんの心の中を照らします。

夜が明けて明星が昇るまで,皆さんがそれに注意を払っているのは良いことです」。

(ペテロ第二1:19)

預言の言葉に注意を払っているのは、とても良いことであると述べています。私たちの信仰を強めることができるからです。預言の言葉とは何か。どのように預言の言葉は一層確かなものとなったのか。預言の言葉に注意を払うことはどのように私たちのためになるのか。そうしたことを学んでいきたいと思います。

<預言の言葉とは何か?>

あらかじめという「予」言は、未来の出来事を予想していることです。まだ到来していない先の出来事について言い当てるようにすることを言います。ノストラダムスの予言とか科学者の予言のように使われます。

聖書で言う「預」言は、神からの言葉、神の意志の啓示や布告、神からの道徳上の教え、神の命令や裁きの表明、これから起きることに関する宣言などが含まれるということです。ですから、神から「預」かる言葉であるということがわかります。

聖書には本当に将来に対するたくさんの預言が含まれています。エホバ神は全知全能の神です。ですからエホバ神だけが将来を正確に予告することができるのです。

「すでにご存じの通り,聖書の預言はどれも個人的な解釈に基づいてはいません。

どの預言も,人間の考えによって語られたのではありません。

人が聖なる力に導かれて,神からの言葉を語ったのです」。

(ペテロ第二1:20,21)

神の聖なる力つまり神の活動する力によって、情報が伝えられ、心を動かされまた導かれたことがわかります。

彼らの思いとか心に働きかけて、神の目的に従って彼らに動機付けを与えたり導いたりしたことがわかります。

ですから、神の言葉であるということです。

この聖書預言には、どんなことが記されているのでしょうか?

神の王国について書かれています。その王国政府によって、神はご自分の名前を神聖なものとして、この地球と人類に対して当初考えていたことを実現されるのです。

イエスも「あなたの王国が来ますように」と祈ったのではないでしょうか?

聖書の預言を実現する上で、イエスは本当に重要な役割を果たします。

イエスは、聖書中の多くの預言が成就していく上で中心人物であることが分かります。

創世記3章15節のエホバの最初の預言の宣言から、啓示の書の輝かしい数々の幻に至るまで聖書の預言は、メシア王国に関連したイエスの役割を考慮に入れなければ、正しく理解することはできません。

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死によってすべてが終わりますか

最近モロッコの地震で約3000人、
半年前のトルコ・シリアの大地震では5万人を超える方が、
1年半続くロシア、ウクライナの戦争では両軍合わせて50万人
を超える方々が亡くなっていると報道されています。

人が死ぬことを日本では、世を去る、逝去、他界
といった言葉で表現することがあります。
これは、人が死ぬと遠く別の世界で生き続けているという
仏教や神道の考えから来ています。
8月はお盆の習慣があります。
その時期には、先祖の霊が帰ってきて
家族と一緒に過ごすことができると信じられています。

亡くなった人がどこか他の場所で生きているという考えは他の宗教にもあります。
クリスチャンが死ぬと、天あるいは地獄に行くと信じられています。
ヒンズー教では、人が死ぬと違う生き物に生まれ変わることが信じられています。
このように多様性があるものの、ほとんどの宗教に共通している考えがあります。

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良心を正しい基準に合わせる,大切なのはなぜ?

皆さんは、自分が全く知らない土地を旅行しようと思う場合、持ち物の中に必ず地図を含めるに違いありません。

最近はスマホの地図アプリなどを使う方が多いと思います。見やすくて目的地までのルートをきちんと示してくれる地図があれば、迷わずに目的地に行くことができます。

私たち人間の一生も旅に例えられることがあります。

人生を導くものがあれば何も迷わないのに…そう感じる方も多いかもしれません。実は私たち1人1人生まれつきそういうものを持っていることをご存知だったでしょうか?

創造者であるエホバ神が、私たち人間に与えてくださっているものです。

「律法を持たない異国の人々も,律法にある事柄を生まれつき行えます…

彼らこそ,律法の内容が心に書かれていることを証明しています。

彼らの良心が彼らと共に語り,

彼らは自分の考えによって非難されたり弁護されたりしているのです」。

(ローマ2:14,15)

良心は、日々物事を決定する際に使う本当に大事な機能です。良心とは簡単に言うと、私たちの内面にある善悪の感覚のことです。

この良心があるので、悪いことをした時は明るく嬉しい気持ちになりますし、悪いことをした時は嫌な気持ちになります。良心が正しく働くなら、大好きなお父さんエホバとの絆を強め守ることができます。

正しく機能させるためには、正しい基準に沿って自分の良心を育てていく必要があります。

もし仮に、正しい基準を十分に理解していなかったり、何度も無視して自分の欲望のままに行こうとすると、良心は信頼できないものになってしまうことでしょう。

では正しい基準、良心が正しく働くよう自分を調整するための情報はどこから得られるでしょうか?どうやって良心を育てていくのでしょうか?

今の世の中は色々な情報で溢れています。

生き方考え方などを教えるセミナーにお金を払って参加したり、著名人やスポーツ選手、芸能人のような一見成功しているように見える人たちの言動を自分のお手本基準にする人もいます。

また結局人はいつか死ぬんだから、したいことをするため自分の内なる声に従って物事を決める人もいます。

見知らぬ土地に旅行に出る際、持っていた地図が古かったり、遠い記憶を頼りに書いてくれた地図だったらどうでしょうか?

せっかく地図を持ってきたのにきちんと見ず、自分の感覚で目的地まで向かうとしたならどうでしょうか?

目的地までの道のりは遠いかもしれません。旅行は楽しいものとはならないかもしれません。

正確で最新の地図である正しい基準を選ばないと、正しく働く良心を育てることはできません。

では、その情報はどこから得られるでしょうか?

私たちに良心を与えたのはエホバ神でしたね。人間を含む全てのものを造った方の考えを学ぶなら、正しい良心を育てるための基準をしっかり持つことができます。

では、具体的にどんな方法があるでしょうか?

まず初めに

神の教えを愛し大切にする気持ちを深めます.

「私はあなたの律法を愛してやまない!一日中じっくり考える。

私は敵よりも賢くなる。あなたのおきてがいつまでも私と共にあるから」。

(詩編119:97,98))

書いた人の神の教えを愛する熱い気持ちが伝わってきます。

この詩編作者の育った環境は良いものではありませんでした。エホバに従わない親に育てられ、ある時には自分の兄弟を親に殺されることさえあったのです。でも、そうした悪い環境に良心が影響されることはありませんでした。

神の律法を当てはめた人の物事がどのように良い方向に運ぶのか、それをよく見て律法に対する愛着を強めていたのです。

(さらに…)