どの宗教を選ぶかは重要?

家からここまで来る時、

Googleマップを開くとルートは何通りかありますが、

どの道を選ぼうがそこまで大差はありません。

何分かの違いです。

では、どの宗教を選ぶかという道選びはどう思われますか?

どの宗教どの道を選んでも大差はない。どの宗教にもいいところがある。

行き着く先はみんな同じだと考えている方が多くおられます。

どの宗教を選ぶかっていうのは重要なことなのでしょうか?

重要なのであれば、どの宗教を選べば良いのでしょうか?

宗教の道選びというのは簡単なものではないかもしれません。

なぜなら世界中にはこの宗教が本当にたくさんあるからです。

ある資料によると世界の様々な宗教は、大きく分けると19、

細かく分けると約1万ほどあると言われています。

その宗教の中で神と呼ばれているものも本当に多くあります。

神道では八百万の神と言われ、至るところに神が存在するという教えがあります。

木とか石とかトイレにも米粒にも神様がいると信じておられる方もおられます。

自分は神を信じていないと言っても、スポーツ選手、著名人、政治家を

いわば神のように扱って尊敬している人たちもいます。

また夢のために自分の全てを費やしている方々もいます。

神とは呼ばれないかもしれませんが自分の生活の中心に置いて

そうしたものを神とみなしている人々もたくさんおられます。

では、本当に神と呼べる存在がいるのでしょうか? 

神の言葉と言われていて世界中のほぼ100%の人が

理解できる言語で読むことのできる聖書という本に、

何と書いているのか共に調べてみましょう。 

聖書は神について何と教えているでしょうか?

聖書は、本当の神はただ1人の存在だと教えています。

「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,

 あなたが遣わされたイエス・キリストのことを

 知る必要があります」。

 (ヨハネ17:3)

イエスが地上におられる時、最後の晩に神に語りかけた言葉です。

誰かに語りかけたり電話をかける時に、

どこの誰に電話をするかを知らずに電話をかけることがあるでしょうか。 

電話をかける時には、どこの誰に電話をするのかを知っていて、 

実際にその人が存在していて電話に出て話を聞いてくれることを確信しています。

イエスもここで唯一の真の神がどこの誰なのかをはっきり分かっていたので、

そのように語りかけました。 

聖書で教えているその神とはどんな方でしょうか?

詩編83編18節を見ると「エホバという名」を持っておられることがわかります。

そしてこのエホバは、私たちの目には見えず天に住んでおられます。

ではそのエホバは何をした方でしょうか?

「私たちの神エホバ,

 あなたは栄光と栄誉と力を受けるのにふさわしい方です。

 あなたが全てのものを創造されたからです。

 全てのものは,あなたのご意志によって存在するようになり,

 創造されました」。

 (啓示21:4)

聖書はエホバだけが全能の神であること、 

そして人間を造った存在であるってことを教えています。

世界中には多くの宗教がありますが、その崇拝の対象というのは、

地球上にある自然だったり動物だったり人物だったりすることがあります。

でもそうした地球上にあるものは全て、

エホバのご意志によって存在しているということがわかります。 

このエホバが地球や宇宙を創造する前はエホバだけが存在していたわけです!

こうしたことを考えてみると、エホバだけが

崇拝を受けるにふさわしい方と言えるのではないでしょうか。

聖書にこうしてはっきりエホバという神がいて、エホバだけが

崇拝されるべき方だということを教えているにもかかわらず、 

(さらに…)

愛は憎しみに勝てるか

私たちは今、戦争や紛争のニュースを
毎日のように見ているのではないでしょうか。
また様々な民族間で、
長い歴史の中で培われてきてしまった偏見とか憎しみによって
時々暴力が発生しているのを私たちは見聞きしています。

人間にはそういった傾向があることを十分知っていますが、
一方で人間にはそれとは正反対の性質も
あるのではないでしょうか。
つまり人を愛するというものです。
困っている家族とか友人のために、
自分の持っているものを喜んで与えたり、
また助けを与えたりというのは多くの人々がしています。
きっと皆さんもそのようにしておられるのではないでしょうか。

愛によって可能になる平和な状態を
誰もが望んでいると言えるでしょう。
これに異論を唱える人はいないはずです。
では、人間にはそういった特質もありながら、
なぜ世の中に憎しみが今まさに溢れているのでしょうか?

聖書は憎しみと暴力が
どのようにして始まったのかを明らかにしています。
エホバが人間を創造された時そこに憎しみは存在せず、
完全に平和な状態が見られました。
しかしそれは長く長く続きませんでした。

聖書はサタンという悪魔の存在を明らかにしています。
(ヨハネ8:44)
エホバに対する反逆の精神から、
エホバが理想とする環境とは
真逆の状態を地球上に作り上げてきました。
人間は愛という特質を持ちながらも、憎しみや暴力の方が今
世界中に溢れているその最大の原因がこの悪魔サタンです。

現状を見ると、
愛より憎しみの方が勝っているように感じるかもしれません。
明るい未来を期待することはできないのでしょうか?
聖書は間もなく愛が憎しみに完全に勝利する
ということを明らかにしています!

最初の人間2人がエホバに従い続けるならば、
平和な状態は永遠に続くはずでした。
しかしサタンの策略のためにそうはなりませんでした。
しかしエホバは、
反逆した2人から生まれて増加していく不完全な人間を
心から愛しておられ、見捨てることはされませんでした。
それで愛の動機として
新たなプランを立てたことを宣言されました。

「そして私は,あなたと女の間,
またあなたの子孫と女の子孫の間に敵意を置く。
彼はあなたの頭を砕き,
あなたは彼のかかとに傷を負わせる」。
(創世記3:15)

この言葉はエホバが蛇に語っている流れとなっています。
かかとを砕かれるというのは確かに大怪我ですが、
致命傷とはなりません。
しかし、頭を砕かれるならそれは命を失うことを意味します。

エホバは蛇に語りかけたとありました。
けれども動物は言葉を理解することはできません。
この蛇は理性を持つ存在だったに違いありません。
啓示の書12章9節でサタンは「初めの蛇」と呼ばれています。
サタンは見えない体で蛇の背後に回って、
あたかも蛇が話しかけているように話しかけエバを騙しました。

聖書では、ある人と同じような考え方や行動する人のことを
その人の子孫と呼ぶことがあります。
それで蛇の子孫というのは、サタンと同じようにエホバ神や
エホバに仕える人に敵対する天使と人間を表しています。
創世記には、ノアの時代にサタンの考え方に魅力を感じて、
天での持ち場を捨てて地上に降りてきて、
人間の体を着けた天使たちの記録があります。
その天使たちは地上で猛威を振るい、
その影響を受けた人々が
極めて暴力的になったという記録も残されています。

この聖句に出てくる「女」がエバであるはずはありません。
アダムとエバは子孫を設け、
それは不完全になった後のことだったため、
子孫は不完全さを受け継ぎました。
不完全な人間が自分たちより遥かに強力な
悪い天使を滅ぼすことはできません。
啓示の書で明らかにされている通り、
「女」はエホバに忠実に仕える天使たちで構成される
エホバの組織の天の部分を表しています。
では「女の子孫」は何を表しているでしょうか?

エホバは長い歴史の中で、ご自分の約束をどのように果たすかを
徐々に明らかにしてこられました。
この子孫は創世記22章に記録されている通り、
アブラハムの家系から出ることがまず予告されました。

女の子孫は蛇である悪魔サタンの頭を砕く人間よりもっと
力のある存在でなければなりません。
天におられたイエスはエホバの奇跡によって
アブラハムの家系の処女から生まれることによって、
完全な人間として地上に来られました。
そしてイエスは30歳の時バプテスマ受け、
聖なる力によってエホバから選ばれた者となり、
この時イエスは「女の子孫」の主要な部分になりました。

エホバが幾つもの預言に明らかにされたことによって、
この「子孫」は、イエスと人間から選ばれた共同統治者
14万4000人で構成されるグループだ
ということが分かっています。
現在イエスは、神の王国の王として天で統治しておられます。
そして共同統治者の14万4000人の殆どの人は
天に集められています。
まさに今、創世記3章15節で語ったエホバのプランの
最終部分にあることがわかります。

イエスは地上におられた時、
憎しみがなくなるという神の約束を含む真理を伝えていました。
そして愛が憎しみに勝てるということを、
伝えただけではなく自らの行動で示しました。

「悪人と争ってはなりません。
右の頰を平手打ちする人には,もう一方の頰も向けなさい。
あなたを法廷に連れていって内衣を取ろうとする人には,
外衣も与えなさい。
権威のある人から1キロ行くよう要求されたなら,
一緒に2キロ行きなさい。
求める人に与えなさい。
借りようとする人に背を向けてはなりません。
あなたたちは,こう命じられたのを知っています。
『隣人を愛し,敵を憎まなければならない』。
しかし私は言います。
敵を愛し続け,迫害する人のために祈り続けなさい」。
(マタイ5:38-44)

イエスは弟子たちに、
挑発に乗らず仕返ししないようにと語りました。
イエスは自分が教えたこのことを実践し、
エホバと人々に対する深い愛を示されました。

イエスはマブデスマを受けた後、
自分に与えられた役割について深く考えるために
断食を伴う40日の考えるための期間を取りました。
そこに付け込んだのがサタンで、石をパンに変えるようにとか、
高いところから飛び降りてエホバの力を試すようにとか、
自分を崇拝するなら地球上の全ての国を与える
などと誘惑しました。
しかしイエスは力強くその誘惑を退けて、
聖書の言葉を使ってサタンが間違っているということを
完璧に証明しました。

またイエスは死の直前、言われのない罪をでっち上げられ、
言葉による侮辱とか流血を伴う暴力に耐えました。
この出来事は愛が憎しみに勝てることと
どのような関係があるのでしょうか?

イエスがこれらの障害を乗り越えることによって初めて、
最初の人間が失った完全な命を、
自身の完全な命を与えることによって
取り戻すことが可能になったからです。
人類は自分では取り除けない不完全さとそれに伴う死から
解放されることになりました。

イエスは人類に最大の愛を示されたと言えます。
悪魔サタンの行いを終わらせるための
最初のステップを踏んだということができるでしょう。
サタンは、このエホバの計画が失敗に終わるよう
恐れを抱かせて命を差し出す任務から
逃げ出すよう仕向けるために、
死の直前まで苦痛を与えました。
しかしイエス・キリストはしっかりと立ち、
その企みは失敗に終わりました。

最後までこの苦しみに耐えて死なれたことによって、
サタンが女の子孫イエスの
かかとを砕くという言葉が成就しました。
しかしこれは致命傷とはならない傷です。
それはどのように証明されたでしょうか?
自分の任務を完璧に遂行したイエスを、
エホバはわずか3日後に復活させ、
本来の居場所である天へと引き上げられました。

イエスの生き方そして完全な命を捧げた死そしてこの復活は、
愛が憎しみに勝てることを示すものとなりました。
憎しみに愛の方が勝てるということを証明されました。

ではこの現在私たちは、
そのイエスに見倣うことができるでしょうか。
私たちも、憎しみより
愛が勝っていることを示すことはできるでしょうか?

キリストの教えを信じているという人々でも、
実際にはその教えに従った生き方をせず、
暴力や憎しみを抱いて生活している人はたくさんいます。
では現在、
本当の意味でイエスに見倣う人々は存在するのでしょうか?

イエスは本当の意味でご自分の教え、
愛を実践する人々のその見分け方を明らかにしています。

「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。
それは,互いに愛し合うことです。
私があなたたちを愛した通りに,
あなたたちも互いを愛しなさい。
あなたたちの間に愛があれば,
全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。
(ヨハネ13:34,35)

イエスは、聖書を信じているんだと
自分から発信するということではなく、
愛に基づく行動とか、愛によって形作られた人格によって、
本当にイエスに倣っている人を見分けることができる
と言われました。

エホバやイエスが示されたこの深い愛を学んで、
それを示すことができるように
真剣に努力している人々がいるでしょうか?
実際に見られているその証拠からすると、
エホバの証人がそれに当たるということに
疑問の余地はないでしょう。
エホバの証人が勝手に主張しているのではなく、
言葉ではなくて行いによってそれを証明しています。

仲間を兄弟また姉妹と呼んで、心からの愛を示し合っています。
反対する人や迫害する人に対しても
愛を示すように真剣に努力しています。
確かに反対とか迫害の経験は喜ばしいものではありません。
しかしそれに耐えているエホバの証人は、
あることがきっかけでエホバの愛を
知ることができたのと同じように、
今は反対している家族とかまた友人が
エホバの側に付くことを願い、
辛抱強く愛を示し続けているのではないでしょうか。

証人の中には、
過去に暴力とか憎しみが身近に見られる環境で育った人や、
複雑な環境で愛を知らずに育った人たちもいます。
しかし彼らはエホバとイエスの愛を知り、
生き方を大きく変えました。

「子供の頃は大変でした。
なぜ、自由に生きられないのだろうとずっと考えていました。
自由に発言することも、
行きたいところに行くことも許されません。
ユダヤ人にはできるのに、アラブ人にはできないのです。
このままじゃダメだ。ユダヤ人を追い出してやる。
私はある反イスラエル組織の指導者になりました。
そのため、1985年から4年間服役することになりました。
なぜだ、なぜなんだと考え続けました。

しかし、あることで私の人生は大きく変わりました。
ものみの塔誌が定期的に届くようになったのです。
子供の頃からずっと探していたもの、
それは聖書の真理の中にありました。
地上から流血行為をなくせるのは神の王国だけです。
私はエホバとの関係を大切にし、
学んだことを行い続けました。
それが私を変えたのです」。

「私はユダヤ人として育てられました。
子供の頃から自分たちは選ばれた国民だと教えられます。
周囲の人たちは皆アラブ人を憎んでいました。
いいアラブ人は死んだアラブ人と言う人さえいました。
殺される前に殺せという古くからの言葉があります。
その言葉は聖書からの引用だというのです。

真理を学ぶことによって
私の中にあった偏見は全て消え去りました。
エホバは私たちがアラブ人を含めて
あらゆる背景の人を愛することを望んでおられます。
そのことを知って大変爽やかな気分になりました。
今、私はエホバの軍に加われてとても幸せです。
その軍の幾百万もの人々は戦うことによってではなく、
あらゆる国のあらゆる背景の人々の命を救うことによって
エホバに仕えているのです」。

生まれながらの環境で、
憎しみというものを吸い込まれて育ったような人々がいます。
自分を守るためには相手を殺すしかない
と教えられ続けて育ってきた人々も、
エホバとイエスについて学ぶことによって、
本当の愛というものを知り、
人格やその生き方を大きく変えたのです。

今、世界の状況はますます悪くなっていて、
暴力とか憎しみが満ちています。
しかしその状態は、今の社会体制全体の終わりが
近いことを示す証拠ともなっています。

イエスの弟子がイエスに、
体制の終わりにどういう「しるし」があるのか、
どういうものを見かけたら
その終わりが近いということがわかるのか尋ねた時、
戦争、食糧不足、地震とか
世界的な規模で起きる様々な事象についてイエスは述べました。
(マタイ24:3,7)

「またその時,多くの人が信仰を捨て,
互いに裏切り,憎み合います。
…不法なことが増えるために,大半の人の愛が冷えます」。
(マタイ24:10,12)

エホバが行動される直前には、憎しみとか愛が冷え切る状況が
見られるということをイエスは預言されました。
それは過去にない規模で、
まさに今見ることができている状態と言えます。
このエホバが行動される時は、
後にも先にも例のない大転換点となります。

まもなくイエスは、
初めの蛇であるサタンを底知れぬ深みに投げ込みます。
イエスは圧倒的な力でサタンに勝利して1000年間閉じ込めます。
そして1000年後、サタンは一時的に解放されます。
エホバの新しい体制で生活してきた人全てが平等に
最後の試みにあります。
その後イエスは、サタンとサタンと共に
エホバに敵対する子孫を完全に滅ぼします。
ここで蛇の頭を砕くことが実現し、
これをもって創世記3章15節で宣言された
エホバの壮大なプランは完遂します。
愛が憎しみに勝てるということが、
そこで完全に証明されるわけです。

私たちはそれを生きて見たいと思うのではないでしょうか。
エホバの愛に倣いそれを示し、
エホバに喜ばれる者として行動するならば、
エホバの新しい体制に迎え入れてくださいます。
そしてそこでエホバの愛や力がどのように示されるかを、
私たちは実際に見ることができます。

ではその目標を達成するために
日々努力していきたいと思います。
そしてエホバとイエスに見習って、
本当の愛をこれからも示し続けていくことにしましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
nolog.link/s/8NU9hJ
からご覧になれます。

今の時代に頼れるものはありますか

皆さんは行ったことがない場所に行こうと思ったらどうしますか?


自分の感覚を頼りに進むでしょうか。

では心の声はいつでも正しいと思いますか?

知っていそうな人に付いていくでしょうか。
経験や知恵は確かに参考になりますし、
同じ基準で行動するなら受け入れてもらえます。

でも周りの人の意見はいつでも正しいのでしょうか?

エレミヤ 10:23
「人は自分の道(生き方)を定めることができません。
 自分で自分の歩みを導くことができないのです」。

伝道の書 8:9
「これまでずっと,人は人を支配し,
 人に害を及ぼして(人の損失となって)きた」。

地図に頼るならどうでしょうか。
人生にも、地図のような実績のある役立つ指針があればよいと思いませんか?

世界は目まぐるしく変化しています。
変わらない確実なものってある? 
どうしたら正しい選択ができる?と思うかもしれません。

詩編 111:8
新世界訳聖書 (スタディー版)

「神の命令は全て信頼でき,
 常に確実な(十分な根拠がある)もの。
 今もこれからもずっと。
 真実さと正しさに基づいている」。

聖書のアドバイスはいつでも頼りになると
どうして言えるのでしょうか。


「ものみの塔」2024 No.1  
何が正しい? 今の時代に頼れるもの
をご覧ください。

https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&issue=2024-07&pub=wp24&srcid=share

聖書の奇跡は本当に起きましたか

聖書にはこのような記述があります。
「第4夜警時に,イエスは湖の上を歩いて舟の所に来た」。
(マタイ14:25)

それは重力の法則に関することなので信じられない
と懐疑的な人は言います。

-271度に冷やした液体ヘリウムとをビーカーの中に入れて、
その中に鉛を浸してそのそばに棒磁石を入れると、
その棒磁石は電磁石になり、-
271度の液体ヘリウムがビーカーの壁を
ずっと上がっていってこぼれるという現象が起きるそうです。
これはこの重力の法則に反する事柄が起きた
ということではないでしょうか。
ですから状況によっては重力の法則などに反することも
起きることが分かります。

聖書の奇跡というのを信じない人も多いかもしれません。
その中には神学者と言われる人もいるようです。
そういうことなのでイタリア、フランス、スペインなどの
カトリック教徒の50パーセントくらいの方が
聖書の奇跡を信じていないようです。

魔術の場合、見せかけが超自然的な感じを出すために
特別な演出とか儀式が付き物だとされています。
聖書の奇跡はどうでしょうか?
こういった仕掛けは何も関係していません。
公衆の面前で公然と行われるわけです。
何の仕掛けもないわけです。
でもそういうことが起きると、本当に不思議な状況なわけです。

「さて,ラザロという男性が病気だった。
マリアとその姉妹マルタの村ベタニヤの人である。
このマリアは,主イエスに香油を注ぎ,
イエスの足を髪の毛で拭いて乾かした人である。
その兄弟ラザロが病気だった。
この姉妹たちは人を遣わしてイエスに次のように伝えた。
『主よ,あなたが愛情を抱いている者が病気です』。
しかしイエスはそれを聞いて,こう言った。
『この病気は死で終わるのではなく,神に栄光をもたらし,
神の子も栄光を受けます』」。
(ヨハネ11:1-4)

奇跡というのは個人の栄光とかではなくて、
神の栄光のためになされたわけです。

「夕方になってから,
人々は邪悪な天使に取りつかれた人を大勢連れてきた。
イエスは邪悪な天使たちを言葉で追い出し,
病気に苦しむ人全てを治した」。
(マタイ8:16)

「イエスは全ての町や村を旅して回り,
会堂で教え,王国の良い知らせを伝え,
あらゆる病気や不調を治した」。
(マタイ9:35)

病気を治してもらいたい人が近づいてきて、
治せなかったことなどなく、全ての人を治したところが
聖書の奇跡が魔術と違うところです。

さらに聖書の奇跡というのは、
その目撃証人によって本当であったということが
確証されています。

出エジプトの時に、
モーセとアロンが奇跡をまず最初はファラオの前で、
エジプトの祭司たちの目の前で行いました。
それから十の災いを行ったわけです。
ですから多くの人の目撃証人がいるわけです。
実際にそういったことがなければ、
何か変えてもそれは嘘だということになってしまうのですが、
そういうことなく今まで歴史に残っているということです。

「私が皆さんに伝えた最も大切な点の中に,
私自身も学んだ事柄があります。
それは,聖書にある通りキリストが
私たちの罪のために死んでくださり,
そして葬られ,聖書にある通り3日目に生き返らされ,
ケファの前に現れ,それから12人の前に現れたことです。
その後,キリストは一度に500人以上の兄弟の前に現れました。
その中には死の眠りに就いた人がいるものの,
ほとんどは今も生きています。
その後,キリストはヤコブの前に,
それから全ての使徒たちの前に現れました。
そして最後に,私の前にも現れてくださいました。
あたかも早産で生まれた子の前に現れるかのようにです」。
(コリント第一15:3-8)

復活後イエスは500人以上の前に現れたということです。
最初弟子たちは、イエスが復活したことを信じなかった。
だけど次々と現れるので信じないわけにいかない。
目撃者が奇跡の証拠だということですね。
そういったことがなくてあったと書いても
歴史として後に残らないわけで、
今聖書で読むことができるので、
確かにそういったことは起きたんだ
ということになるのではないでしょうか。

以前オリンピックの陸上競技で
金メダルを取った選手がいました。
表彰式の前にドーピング検査で陽性になった人が、
メダルを剥奪されて、
その記録も抹消されてしまうということがありました。
実際に本当のことでなければ記録も残らないということです。

ゴルフのプロの公式戦では、
お互いにラウンドする選手同士でスコアを記入するそうです。
自分も記入して、ホールアウトした時に見せるわけです。
その時スコアが合わないとその選手はは失格してしまうわけです
本当のことでないと資格がなくなって失格になってしまい
記録も後に残らないということです。

聖書にはいろんな奇跡が書かれています。
そういったことがでっち上げであれば、
負けた場合など相手のほうがかなり厳しい見方をしますので、
歴史的に残らないわけです。
でも残ってるということは、
そういうことが実際に起きたので、
目撃証人として見ているので、
書いて残っているということです。

では、神が奇跡を行った目的は何だったのでしょうか?

エホバが主権者だということを
知らせるために行われたということです。
モーセとアロンが確かに神から指名されたことを
証明するために奇跡が行われたということもありました。

「イエスはこれを最初の奇跡としてガリラヤのカナで行い,
自分の力を明らかにした。
弟子たちはイエスに信仰を持った」。
(ヨハネ2:11)

イエスの最初の奇跡として、水を上等のぶどう酒に変えました。
イエスがこうしたことを行えるというのは、
約束のメシアであることを証明するものでした。
イエスは、人類を罪と死から自由にするために神が立てた
手立てであることを証明しなければなりませんでした。

では今日、奇跡が起きないのはなぜでしょうか?
今日、信仰を築き上げるために
奇跡が必要でない理由も考えたいと思います。

「愛は決して絶えません。
一方,預言する能力があっても,それは除き去られます。
さまざまな言語があっても,それはなくなります。
知識があっても,それは除き去られます」。
(コリント第一13:8)

「さまざまな言語」というのは
奇跡的に別の言語を話すことです。
突然、他の国の言語を話し始めたならば
それは奇跡ではないでしょうか。
奇跡があっても「それはなくなります」と
1世紀に言ってるので、
現在ではないということになるわけです。

真の神をを納得したり求める点で
奇跡よりも良いものがあるということです。

アルバートっていう方は真の神を求めている人でした。
色々と宗教を調べてみましたけれど
なかなか納得できないという状況でした。
聖書を読んで、まことの神のアブラハムやモーセや
ノアやサウロに対する態度や接し方が気に入りました。
ある時、辺ぴな場所に車を飛ばして行って祈りました。
「神様、どうぞ奇跡をお示しください。
そしてあなたの存在を証明するものであれば
なんでも構いません」。
祈りは聞かれないまま数日が経ち、
エホバの証人の訪問を受けました。
聖書から取られた雑誌をいくらか残していき、
それがきっかけとなって聖書レッスンが始まりました。
ある程度聖書レッスンを行って
正確な知識がだんだん入ってやがて
ついに真の神を見出したわけです。

現代において真の神への信仰を築き上げるためには、
聖書レッスンが唯一の方法ということになるでしょう。

しかしながら、
奇跡も聖書の中の正確な知識となるべき大切なものと言えます。
非常に大切な聖書の中の真実の世界の知識の
一部だということになるわけです。

では、将来エホバが行ってくださる奇跡から
ずっと益を得るにはどうしたらよいでしょうか?
また、どのような奇跡が用意されているのでしょうか?

「神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。
もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。
以前のものは過ぎ去ったのです」。
(啓示21:4)

どうすればよいでしょうか?
私たちが信頼している聖書への確信を
引き続き保つということになるでしょう。
そのためには個人的に毎日通読を定期的にして、
その個人研究に励むことができるでしょう。
そういったことを行いながら、
将来地球をパラダイスにしてくださるといった
素晴らしい益にあずかれるように、
これからも忠実に歩んでまいりましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
nolog.link/s/8NU9hJ
からご覧になれます。

問題の多いこの世界にあっても安心感を抱けます

今日、多くの人が自分と家族の安全を心配しています。

人々が安心感を抱けないのはなぜでしょうか?

もしかするとポリクライシスという言葉をお聞きになったことがあるかもしれません。

複数の世界的な危機が絡み合って、私たちの生活に大きな影響を及ぼすという意味があります。

次々と不安になる出来事が起きています。

自然災害、感染症などの疫病、凶悪な犯罪が起きています。

恐ろしいテロ、戦争が起きています。

核兵器を開発する国が増え、私たちの安全が脅かされています。

今年の初めには石川県の能登半島で大きな地震があって、大きな被害がありました。

この先もっと大きな地震があって、私たちの生活に大きな影響を及ぼすのではないかと心配しておられる方も多いかもしれません。

問題の多いこの世界にあっても安心感を抱ける、そのような道があるでしょうか?

今日は、私たちの生活するこの世界が安心感を抱けないのはなぜか、そしてこの世界にあってもどこに安心感を生み出せるのか、ご一緒に聖書を開いて考えてみることにいたしましょう。

1800年代末に聖書研究者たちは、1914年が重大な年であることを理解することができました。

聖書に基づく正確な年代計算を通して、1914年という年を境に終わりの時代と呼ばれる特別な時代に入ることを理解できたわけです。

興味深いことに一般の歴史家たちも、1914年が人類史上の転換点であったっていうことを認めています。

1914年を境に、世界ではどのような出来事が起きるようになったでしょうか?

最も偉大な人として知られているイエス・キリストは、今の私たちの時代に、人々の心から安心感を奪うような様々な出来事が生じることを予告しておられました。

「イエスがオリーブ山の上で座っていると,

弟子たちが自分たちだけで近づいてきて,言った。

『教えてください。そのようなことはいつあるのでしょうか。

あなたの臨在と体制の終結のしるしは何ですか』。

そこでイエスは言った。

『…あなたたちは戦争の音や戦争の知らせを聞きます。

動揺しないようにしなさい。

これらのことは必ず起きますが,終わりはまだなのです。

国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,

あちらこちらで食糧不足や地震があります。

これら全ては苦しみの激痛の始まりです』」。

(マタイ24:3,6-8)

イエスは戦争の音や戦争の知らせを聞きます。国民は国民に王国は王国に敵対して立ち上がりますと語られました。

福音書筆者の1人であったルカも平行記述の中で、私たちが戦争や騒乱について聞くというイエスの言葉を引用しています。(ルカ21:9)

イエスの予告された通りになったでしょうか?

1914年以来、戦争、革命、国内紛争、テロなどが珍しいことではなくなってきました。

それによって多くの人の命が失われてきました。

かつては比較的安全と言われていた国においても、今ではテロの脅威と日々戦っているところもあります。

地球上のどこにいる人も、自分や大切な家族が大変な出来事に巻き込まれてしまうのではないか心配しながら生活しています。

最初の世界大戦は、1914年に勃発しました。

この戦争は単なる二国同士の軍隊の争いではなく、いくつもの国家が民間人を含め国民全体を巻き込んで行った戦争でした。

確かに1914年に地上から平和が取り去られたと言うことができます。

最近でもロシアとウクライナ、イスラエルとガザにおける戦争の知らせを聞くと、私たちは本当に不安な気持ちになります。

でもイエス・キリストは「動揺しないようにしなさい」という興味深い言葉を述べられました。

(さらに…)

いつも正直でいる

人生の中では、誰かに初めて会って自己紹介をするということがよくあります。

そのような時は相手に良い印象を持ってもらいたいと思うので外見にも気を遣い、鏡を使って服装とか髪型などをチェックします。

もし、どこか良くない場所が見つかったらどうしますか?

きっとすぐにそこを直すと思います。

この外見と同じように大切なのは内面の特質です。

今日特に考えたいのは、そのうちの1つ正直さです。

この正直であるとは、嘘偽りがなく、ごまかしたり、人を騙したりしないということです。

これはとても大切なことです。

なぜならいつも正直でいることが、他の人との関係はもちろんエホバ神との関係にも大きな影響があるからです。

残念ながら私たちの周りには不祥事が多く見られます。

電話などの特殊詐欺に気をつけておられる方も多いと思います。

インターネット犯罪も私たちにとって大きな脅威となっています。

スマホを使うとき、ネットで買い物をするときなど、全てパスワードを使います。

それは不正直な人たちからの攻撃から自分を守るために、今や当たり前の行動となっています。

このように、不正直が当たり前となっている今の状況をどう思われるでしょうか?

聖書は、悪魔が今この世界を支配しているのがその原因であると説明しています。

その結果、不正直が見られるのが当たり前のこととなっているわけです。

しかし常に真実を語る神であるエホバは、嘘や偽りを憎まれます。

そのエホバを愛しエホバに仕える私たちもエホバと同じ考え方をします。

正直さに関しても同じです。

「私たちのために祈り続けてください。

私たちは,鋭敏な良心を持っていると信じており,

何事においても正直に行動したいと願っています」。

(ヘブライ13:18)

私たちが神を愛し仕えているのであれば、神と同じように正直さを大切にしていかなければなりません。

エホバの証人である私たちがエホバに見倣って正直であるならば、エホバについての良い印象というのは、どんどん広がっていきます。

具体的に何をしていく必要があるでしょうか?

まず、正直に自分を見つめることです。

不完全な私たちは、自分には特に悪いところはないと思う傾向があるようです。

「心はほかのどんなものよりも信用できず,必死になる。

誰がこれを知り得るだろうか」。

(エレミヤ17:9)

私たちの心は時々、間違っていると分かっている方向へ自分を進ませてしまうことがあります。

信用できない必死になる誰も知り得ない私たちの心は、自分には特に悪いところがないと言い聞かせながら、間違っている方向へ 自分を進ませてしまうことがあります。

その悪いところをそのままにしておくならば、いずれそれがもっと大きな問題へと深化していきます。

ですから、私たちは自分に正直である必要があります。

どのようにして、自分には特に悪いことがないと思ってしまう傾向を

避けることができるでしょうか?

「神よ,私の全てを探り,私の心を知ってください。

私を調べ,不安な気持ちを知ってください。

私に何か良くないところがないかどうかを見て,

永遠の命に導いてください」。

(詩編139:23,24)

私たちも同じ精神態度を培う必要があります。

私を調べ、正しい方向に導いてくださいという態度です。

たとえ私たちが自分を正当化したとしても、エホバは全てをご存知です。

私たちは皆、正しいことについても正しくないことについても、自分の行動についてエホバに言い開きをする必要があります。

それで私たちは、事あるごとにエホバに真剣に祈り、自分を調べ、何か良くないところがあると気づいたならば、それを謙遜に正していく必要があります。

(さらに…)

将来のことを心配する必要がないと言えるのはなぜ?

私たち人間の思いや感情は、
見たり聞いたりすることから大きな影響を受けます。
楽しい出来事を目にすれば、心も楽しく明るくなります。
しかし悲しい出来事を目にするならば、 落ち込んだり、
辛くなったり、不安に感じることがあります。

私たちは、できれば毎日楽しく
何事もなく過ごしたいとは思っておりますが、
そのようにはなかなかいかないものです。
未だ収束の見通しがつかない
新型コロナウイルスもその1つと言えるでしょう。
いつ感染するかわからない、
家族も感染するかもわからない不安が生じます。
経済がかなり傾いています。
この先、家族を養っていけるのかどうかという不安も生じます。
自然災害もあります。戦争も今行われています。
最近では、健康面でサポートするサプリメントによって
命を落とすといったことも見られます。

多くの人たちはそうしたものを見ると、
本当にどこに安心感を求めればよいのかわかりません。
また、どの選択肢が本当は正しいのかもわからず、
多くの方が不安を抱いています。

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では、私たちはどうでしょうか?
同じように不安な気持ちに駆られるでしょうか?
聖書の神であるエホバは、次のように述べています。

「神は私たちの避難所,力。
苦難の時,すぐに助けになってくださる。
それで私たちは恐れない。
たとえ地上に異変が起きても,
山々が深い海の中に落ちても」。
(詩編46:1,2)

エホバは私たちの避難所。助けてくださる。
それ故に恐れることはない。
つまり今の悪い状況の中でも、
これから先悪くなっていったとしても、私たちが
エホバに頼るならば心配する必要はないと述べているのです。

では、私たちは将来、そして今でも心配しないでいられるよう、
エホバはどのように助けてくださっているのでしょうか?

関連する聖句の言葉をいくつか開いて、
共に考えていきたいと思います。

「正しい人は地上に住み続け,
そこで永遠に暮らす」。
(詩編37:29)

近い将来、正しい人だけが楽園の地で永遠に暮らすことができる
とエホバは約束しておられるのです。
ここで言う「正しい人」とはどのような人でしょうか?
それは、聖書に書かれているエホバ神の言葉に
進んで従う人のことです。
その人たちはエホバの教えを謙遜に受け入れて、
実際に行動します。

皆さんは楽園と聞くと、
どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか?
戦争などはありません。 人が傷つけ合うことはないのです。
また、病気になることもありません。
誰1人マスクを着けている状況は見られません。
やりがいのある仕事、食べ物も豊かにあります。
皆が喜びに満ちた生活を送ることができているのです。
ライオンと子どもたちが戯れるという
今では考えられない光景が、将来楽園の地では
当たり前のように見ることができるのです。

さらにエホバは使徒24章15節の中で、
復活の希望も約束しておられます。
残念ながら私たちは不完全ですから、誰もが死を経験します。
ぽっかりと空いた心の大きな穴を埋めるっていうのは、
今の今の世の中では難しいかもしれませんが、
エホバは将来必ず亡くなった人とまた再び会える
と約束しておられるのです。

これは本当に素晴らしいことと言えるのではないでしょうか。
本当に心待ちにしたいと思います。
エホバは亡くなった人たちのことも私たちと同様愛しておられ、
心から生き返らせたいと思っているのです。

私たちは先週イエスの死の記念式を通して、
エホバが私たちを愛しておられることを改めて再確認できました。
復活に関する話がなされました。
聖書を詳しく学でいくとわかりますが、
イエスが行われた事柄、数々の奇跡は、
これから先エホバが行われる事柄を表していて、
それは必ず起きると確信することができます。

「私の口から出る言葉も,
成果を収めずに私のもとに戻ることはない。
必ず私の望むことを成し遂げ,
私が託した使命を確実に果たす」。
(イザヤ55:11)

エホバは有言実行される方だということがわかります。
そして、続く聖句の中では、
必ず私の望むことを成し遂げるとも述べています。
エホバの望むこととは何でしょうか?
正しい人が楽園の地で永遠に生きエホバに最後まで従い、
亡くなった愛する仲間を将来復活させるということです。
それをエホバは必ず成し遂げ、
それを確実に果たすと断言しているのです。

それで1つ目は、エホバはこの素晴らしい将来を約束していて、
そこに私たちが目を向けられるよう助けてくださっている
という点でした。

2つ目は、今現在の助けについて考えてみましょう。

「しかし今は,絶えずあなたと共にいる。
あなたは右手をつかんでくださった。
あなたは助言して導いてくださり,
そうして私が栄光を受けるようにしてくださる」。
(詩編73:23,24)

この「あなた」というのはエホバです。
エホバは右手を掴んでくださる、
つまり導いてくださるという意味です。
今現在でもエホバは私たちを導き、
そして助けを与えてくださっています。
どのように助けを与えてくださっているのでしょうか?

「皆さんの中に知恵の欠けた人がいるなら,
その人は神に求め続けてください。
神はとがめたりせず,
全ての人に惜しみなく与えてくださるからです。
求め続ければ与えられます」。
(ヤコブ1:5)

私たちがエホバに助けを求めれば、
1番良い方法で問題に対処できるよう、
聖書を通して知恵を与えてくださるのです。

「何も心配せず,いつでも祈り,祈願を捧げ,
感謝しつつ,願いを神に知っていただくようにしましょう。
そうすれば,神からの平和が,
キリスト・イエスを通して皆さんの心と考えを守ります。
その平和は人間の理解をはるかに超えています」。
(フィリピ4:6,7)

何も心配せず、
願いをエホバに知っていただくようにと述べています。
私たちがエホバに信頼を置き、そしてエホバに頼るならば、
難しい状況の中でも爽やかさを与えてくださる。
不安や心配事が押し寄せる時でも、
私たちがエホバに頼っていくならば、
心を落ち着かせることができるように
助けてくださるということです。

いつでもエホバに祈りを通して近づき、
思いを打ち明けることは本当に大切なことです。
そのようにすれば、
エホバは大変な問題を乗り越えることができるように、
力や勇気を必ず与えてくださるからです。

それで2つ目は、
エホバは今でも助けの手を差し伸べておられるという点でした。

3つ目のエホバからの助けはどのようなものでしょうか。

神は世界中にいる信仰で結ばれた大勢の兄弟姉妹を通して、
神に頼る人々をサポートしてしてくださるという助けです。
エホバの証人は、仲間を通していつでも
互いに励ましたり励まされたりしてエホバの特質である愛を
実際に行動によって表し示しているのです。

世界中では今、様々な紛争、自然災害によって困難な生活を
余儀なくされている大勢の仲間もいるということを
私たちは知っています。
身近なところでは、
病気と戦っている大勢の仲間もいることも知っています。
状況は違えど、
助けを必要としていることになんら変わりはありません。
サポートが必要です。

困難な状況の中でも仲間の助けを受け、
そして前向きになった前向きな気持ちになった経験です。

「アレシャンドレの病状はまだ良かったのですが、
その後だんだんとできないことが増えてきました。
リハビリ治療を受けていますが、
トイレやボタンを止めるのにも今は助けが必要な状態です。
私1人で頑張ってる気がしました。
でも一人きりではありませんでした。
兄弟姉妹が助けてくれています。
家に来て、家の修理や車椅子の手入れなど
色々なことを手伝ってくれます。
本当に助かりました。

それ以上に助けになっているのは、
エホバが約束してくれている将来の希望です。
その希望のおかげで、この大変な状況に
押しつぶされないでいることができています。
将来の新しい世界にいる自分たちをよく思い浮かべます。
アルシャンドレが車椅子を降りて歩いている様子です。
パウロが言っているように、
今経験している大変なことはつかの間で軽いものですが、
エホバが与えてくださる良いものは永遠に続きます。
それに目を向けていたいです」。

「ウクライナのマリウポリで育ちました。
緑が多くて大好きな街でした。
でも突然生活が大きく変わってしまいました。
それぞれの政府が、相手側がこんなことをしているとか、
あんなことをしているなどと言っていました。
街が破壊され、ひどい状態になっているのを見て、
一体どうしたらいいんだろうと思ってしまいました。
そういう時、祈るとどうしたらいいかがわかります。
逃げなければと思いましたが、
どこへ行ったらいいのかわかりませんでした。

兄弟たちが色々な点で助けてくれました。
食べ物や水、電気など全部準備してくれました。
本当に感謝でした。兄弟たちの愛に感動しました。

祈ると、耐える力が得られます。穏やかな気持ちになれます。
聖なる力が必要な勇気を与えてくれますし、
将来の希望も強めてくれます。
エホバに頼っていれば、
絶対に見捨てられることはありません。
エホバがそばにいてくださるので、
将来を心配する必要はないんです。
不安はありません」。

どちらの状況も、
自分1人の考えではどうしようもないものですが、
エホバは仲間を通して
それぞれ必要なものを備えてくださいました。
不安な時、仲間が近くにいるだけで安心感が得られる。
そのような経験、皆さんもあるのではないでしょうか。
安心感が得られると、心に余裕が生まれます。
そうすると先程の姉妹たちのように、
将来に目を向けることができます。
思いをそちらに向けることができます。
私たちも同じように、
今の状況ではなく将来に目を向けていきたいと思います。

それで3つ目は、世界中にいる兄弟姉妹を通して、
エホバはサポートしてくださるっていうものでした。

このような備えを得るためには、私たちはエホバに頼って、
エホバを避難所とすることがどうしても必要です。
では、エホバを自分の避難所とするために、
今何ができるでしょうか?
3つの点を考えていきたいと思います。

「あなたを救う方,イスラエルの聖なる方,エホバはこう言う。
『私エホバは,あなたの神である。
あなたのためになる生き方を教え,
あなたを導いて正しい道を歩ませる。
あなたが私のおきてに注意を払いさえすれば!
そうすれば,
あなたの平和は川の流れのように豊かになり,
あなたの正しい行いは海の波のように多くなる」。
(イザヤ48:17,18)

エホバは聖書を通して生き方、歩み方を教えるとありますので、
まず私たちに今できることは、聖書を学んで、
エホバのことを十分知る必要があるということです。
聖書を学び、エホバを知る必要があります。

では、具体的にどうすれば良いのでしょうか?
それは、エホバの証人との聖書レッスンができます。
聖書の記述から、
エホバに頼った過去の人たち、現在の私たちも含め、
エホバがどのように助けてきたのかを十分知ることができます。
そうしたことを知るならば、
神への信頼はさらに深まっていくに違いありません。
一層エホバを身近に感じることができます。
それでレッスンを希望される方は、
お近くのエホバの証人にお尋ねください。
喜んでサポートいたします。
https://t.co/REdyiKUiXa

「神の力強い手の下で謙遜になってください。
そうすれば,神はやがて皆さんを重んじてくださいます。
そして,心配事を全て神に委ねましょう。
神は優しく気遣ってくださるからです」。
(ペテロ第一5:6,7)

心配事をエホバに委ねる。つまり
自分の心配してる事柄を全てエホバに引き渡すことによって、
私たちはエホバを自分の避難所とすることができます。

エホバは、私たちが今必要としている事柄を全てご存知です。
私たちが謙遜になり、エホバに頼り、祈り求めるならば、
それを必ず与え、助けてくださるに違いありません。
今すぐ全ての問題をなくしてくださるわけではありませんが、
問題を乗り越えるための力と知恵を
エホバは与えてくださるのです。
エホバは「耐えられないほど誘惑を受けるままにはしません。
出口を設けて,誘惑に耐え切れるようにしてくださ」る
と保証しているからです。
(コリント第一10:13)

「また,互いのことをよく考えて,
愛を表し立派な行いをするよう勧め合いましょう。
仲間と集まることを怠ってはなりません。
よく欠席する人たちに倣わないようにし,
いつも励まし合いましょう。
定められた日が近づいているのですから,
ますますこうしたことを行っていきましょう」。
(ヘブライ10:24,25)

あなたも聖書を学んでエホバの証人の1人になり、
世界中にいる仲間の兄弟姉妹との絆を強めていくならば、
エホバを自分の避難所とすることができます。
ここでは集まり合うようにと述べられています。

集会ではどんなことを学ぶでしょうか?
今起きている出来事や、なぜそれが起きているのか、
また将来エホバに頼る人々が得ることができる
素晴らしい希望について、学ぶことができます。
そして集会には多くの仲間、兄弟姉妹がいます。
一緒に定期的に集会に出席するならば、
エホバの素晴らしい特質を反映した仲間からの
愛を感じ取ることもできます。
そうするならば、さらにエホバへの信頼が強まることでしょう。
苦難の時に愛を示し合う沢山の友がいること、
これは本当に素晴らしいことです。
私たちはそこから安心感を得ることができます。
今の難しい状況の中でも喜びを得ることができるからです。
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=1011229&srcid=share

今の世の中は本当に悪化をたどっています。
悪い状況が続いています。
多くの人が将来に不安を感じたり、
絶望を抱いている状況が見られます。

でも、私たちはどうでしょうか?
私たちは今でも多くの喜びを得ることができます。
たくさんのエホバからの備えがあるからです。
仲間を通して得られる安心感は本当に素晴らしいものです。

たくさんの備えを活用しないならばどうなるでしょうか?
防災バックは持っていても、
緊急時にそれを全く活用しない人のようです。
命を失うかもしれません。
同様に今は終わりの最終部分であり、
間もなくエホバはこの地を楽園へと変えるため、
一度この世をリセットします。
私たちがそのエホバの約束にあずかるためには、
そのエホバからの備えを今
十分に活用していかなければなりません。

「希望を抱いてエホバを待て。
勇気を出し,心を強くせよ。
そうだ,希望を抱いてエホバを待て」。
(詩編27:14)

希望を抱いてエホバの約束を待つように。
エホバの約束を信じそして頼るならば、
今ある難しい状況の中でも
たくさんの喜びを得ることができます。
そして将来には、想像もつかないエホバの素晴らしい約束に
あずかることもできるでしょう。
エホバは約束を果たす方です。有言実行されます。
私たちがエホバに希望を託す時、
それが失望へと変わることは決してありません。
間違いなく多くの喜びを与えてくださるに違いありません。

それを間違いなく得るためにも、今私たちはたくさんの
エホバからの備えを十分に用いていく必要があります。
まだ聖書について学んでいないならば、
これを機に学んでみるのはいかがでしょうか?
私たちは喜んでお手伝いいたしいたします。
エホバもそのことを願っているからです。

現在聖書を学び続けている人は、
引き続き共に学んでいきましょう。
さらに、もっとエホバに頼ることができるに違いありません。
では、引き続き私たちはエホバからの備えを十分に活用し、
最後まで共に歩んでまいりましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
nolog.link/s/8NU9hJ
からご覧になれます。

復活 死に対する勝利

誰でも長く生き続けたいと思っています。
不老不死の様々なものを見つけ出そうという努力が過去から行われていましたし、
現代では、老化のメカニズムを研究して、再生医療によってそういったものを元に戻そう、また新たに作り出そうという考えがなされています。

どれもこれも、私たちが直面する死というものが理不尽なものである、それを避けることができたら避けたいという切実な願いがあるからです。
なぜでしょうか?

それは私たちの命、私たちの親しい人や愛する人の命を奪い取るものだからです。
私たちの築いてきた関係を切り離すものということが言えます。
ですから聖書の中で、死は人類の敵と呼ばれています。

では、死という敵に私たちは打ち勝つ術はないのでしょうか?
全く希望がないのでしょうか?
聖書の中を見てみましょう。

「神は死を永久にのみ込む。
主権者である主エホバは全ての顔から涙を拭う」。
(イザヤ25:8)

聖書の神であるエホバは、私たちが直面する死を永久に取り除くと表現しています。

さらに、死から生じる「涙」全てを取り除くと約束しています。
しかし死を取り除くことによって、涙は取り除かれると思いますか。
亡くなった家族のことを思い出して涙を流すことがあるのではないでしょうか?
その事柄に関してさらに希望があることがわかります。

「私は墓から彼らを救い出す。
死から彼らを取り戻す」。
(ホセア13:14)

死がなくなるだけではなくて「取り戻す」、亡くなった人たちを生き返らせるとエホバは述べておられます。
つまり人が死ななくなるだけではなくて、死んだ人たちが復活することによって、死に直面する涙というものが取り除かれて、人類共通の敵である死から完全に私たちは
自由になり勝利するということを聖書は希望として謳っているということになります。

この希望は、本当に神の親切の表れではないでしょうか。
親しい人を亡くした人に気遣いがありますし、すでに亡くなった人に対しても希望を与えるものだからです。

この復活というものは具体的にどのように行われるのでしょうか?
どこで、誰が、そしてどのようにこの復活が成し遂げられていくのでしょうか?

どこに死んだ人たちは復活してくるのでしょうか?

一般的に、人は亡くなると天国に行くと言われています。
確かに聖書の中でも天に王国があることが明らかにされています。
聖書巻末の書である黙示録として知られる啓示の書の中にとりわけ詳しく記されています。

その中の20章というところを見ると、天に復活する人たちが確かにいるという希望について述べられています。
その中では、14万4000人という限られた数の人しか復活しないと述べられています。
今まで人類の歴史上亡くなった大勢の人たちの中から見れば、それは本当に少数の人と言えるのではないでしょうか。
この20章の中を見てみると、それはキリストともに王国を支配するためであるということが繰り返し繰り返し説明されています。
その人たちは目的があったために天に復活するということです。
キリストと共にこの地上を楽園とするために人類を導く、平和な世の中を築くために支配をするという目的のために、その人たちは敢えて天に行きます。

(さらに…)

聖書を導きとするのはなぜ

エホバが何かを導く能力には実に驚くべきものがあります。

人間が2月22日に小さな宇宙船オデュッセウスを月に送り込んで 大喜びしていたのに対し、天体そのものをエホバは導いておられます。しかも正確にそれを運航させておられます。

米国は1月に別の宇宙船を月に送り込みましたが、それは失敗してしまいました。しかし、エホバのガイドの方は全く狂うことなく、何十億年、何百億年と正確に天体を動かしています。

エホバはこの導きを物理法則によって可能にしています。

もう1つの例を見てみましょう。

人間はドローンをプログラミングして、数キロ離れたところに荷物を自動で飛んでいかせようとたくさんの実験を繰り返しています。

しかし、キョクアジサシという小鳥は毎年北極から南極まで行って帰ってきます。体重はわずか100グラムほどしかありませんが迷うことなくそれを行い、移動距離は往復で9万6000kmにもなる個体もあるそうです。

エホバはこの小鳥を事前に組み込まれた本能によって導いておられます。

エホバは私たち人間のことも導いてくださるのでしょうか?

「この神は永遠に私たちの神。ずっといつまでも私たちを導いてくださる」。

(詩編48:14)

「ずっといつまでも」という部分は、私たちが死ぬまでとも訳すことができるようです。エホバは私たちのことを生涯にわたってずっと導いてくださることを読み取ることができます。

何によって導いてくださるのでしょうか?

聖書によって導いてくださいます。

ただ、鳥とか星が自動でプログラムされてガイドされているのに対して、私たちは自由に考えて行動するものとして作られているところが違います。

導きは聖書の中にありますが私たちが自動的にガイドをされることはありません。私たちがこのガイドを意識して自分自身を導くものとして使っていかなければならないのです。

それを積極的に使っていくならば、私たちはエホバの望まれる方向へと確実にガイドされて行くに違いありません。

エホバが私たちに望んでいることとはどんなことでしょうか?

それは私たちが幸せに暮らし、いつまでも死ぬことがなく、パラダイスのような地上で生活することです。

皆さんは、自分自身のこともガイドしてもらいたいと思われるでしょうか?

聖書を毎日少しずつでも読んで、それをじっくり考えるようにするならば、私たちは生活は良い方向へと導かれていくに違いありません。

私たちの出版物や公式サイトなどを見ると、聖書を毎日読むことを容易にするためのアイデアや提案などがたくさん載せられていますので、活用していきたいと思います。

聖書がどんな4つの面で私たちを導くのかという点について少し考えていきたいと思います。

1.聖書は人間の行動に対する特別な導きである

人生は時々航海に例えられることがあります。広い大海原で何の導きもなく航海をするとどんな危険があると思われますか?

方角がわからなくなって彷徨ってしまったり、暗礁に乗り上げて座礁してしまうかもしれません。

私たちの生き方の中で聖書は、危ない場所が書かれた海図や、 方角を示してくれるコンパスのようなものに例えることができます。

「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,

 教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。

(テモテ第二3:16)

教え,戒め,矯正しという言葉は、間違った方向に私たちが進まないようガイドしてくれることを示しています。

人工衛星を使ったGPSのようではないでしょうか。

(さらに…)

「目を覚まして」いる なぜ?どのように?

現在全ての人は、目覚めていることの大切さを意識しなければならない時代だと言えるでしょう。

私たちが生活しているこの時代は、聖書で終わりの時代と言われているからです。今の悪い世界がもうすぐ終わりを迎えるのです。

しかし一般の人々は、イエスがマタイ24章の中でノアの日の例を挙げて述べたように無関心な状況です。

また自分がそのような危険な状況にあるということを理解していません。 

それで聖書筆者の1人であるパウロは、私たちに対してこのようなアドバイスをしています。

「ですから私たちは,ほかの人のように眠っていてはなりません。

 目を覚ましていて,頭がさえた状態を保ちましょう」。(テサロニケ第一5:6)

この頭が冴えた状態というのは研ぎ澄まされた「鋭敏な感覚」で、今どんな時代かをいつも意識して目覚めた状態であって、エホバの考えやエホバの望まれることを第一にした生活を一生懸命行うということを奨めています。 

今の世がもうすぐ終わることを考えると、私たちの命がかかっているので本当にそれは重要なことと言えるでしょう。

しかし、皆さんもよく睡魔に襲われることがあるのではないでしょうか。

意識の中では眠ってはいけないと思っていてもだんだんと意識が遠のいて寝てしまう、意識がない無活動の状況に陥る恐れがあることを考えてみると、いつも目覚めていることは、本当に簡単なことではないと言えるでしょう。 

では、目を覚ましているのは簡単ではないのはなぜでしょうか?

聖書のヨハネ第一5章19節の中で、この全世界が「邪悪な者の支配下にあ」ると述べているからです。 

神に反逆した天使であるサタンは世にあるものを使って、エホバについて考えないように誘導してくるからです。(ヨハネ第一2:15-17)

そうやって、いわば人々を霊的な睡眠に誘う行動をとっているからです。

サタンはこの方法に何千年にもわたって様々な改良を加えてきました。そして念入りにどういった睡眠を人々は受け入れやすいのかということを考えてきました。 

ですからサタンの巧妙な策略に、私たちは本当に注意して身を守る必要があると言えるでしょう。

この点でイエスも、身を守る必要があるどんなライフスタイルがあるのかを警告していました。

「とはいえ,食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で

 心が圧迫されないよう注意していなさい。

 そうでないと,その日が全く突然に訪れます。

 わなのようにです。その日は地上の全ての人に訪れます」。(ルカ21:34,35)

皆さんもどうでしょうか。この食べすぎや飲みすぎや生活上の心配事というものが、 本当に私たちの一般の生活の中に見られる事柄であるということを理解できるのではないでしょうか。 

例えば暮らしのために必要なもの、家庭の心配もあります。子供をどのように育てていくのかそういった心配もあります。自分の仕事がどうなるのかもわかりません。さらには健康上の心配というものもあります。 

日常生活の心配、これは本当に誰にでも心配になる事柄ではないでしょうか。 

また私たちの周りを見てみると、物質主義的な欲求を膨らませるような社会、それを欠かせないものと見せる環境もあります。 

例えば、経済的に成功を目指す手段として高等教育を一般の社会の中では推奨している状況を見るのではないでしょうか。

確かに、ある程度の教育というものは就職には役立ちます。しかし実際には高等教育を受けようとすると、多くの時間や費用を費やします。そうなると、そのことだけに目を向けることになってしまって、霊的な事柄に目を向ける時間は本当に少なくなってくるのではないでしょうか。

(さらに…)

聖書は信頼できる なぜそう言えますか

これまで何千年にもわたって、多くの人に親しまれ頼りにされてきた本があります。

それは聖書です。

皆さんもこの聖書を毎日読んで、書かれている意味を考え、生活に役立てておられるかもしれません。

しかしいつの時代にも、影響力のある様々な人たちが、聖書に対する疑念を抱かせようと躍起になっています。

例えば、批評家や進化論者や哲学者、また聖書を教えるはずの聖職者までが、聖書の信頼性を攻撃したり、聖書の教えに沿って変わる学説を作り出し、神を信じる必要などないと言っているのです。

またクリスチャンと称する多くの人々が、聖書で良いとされていることは行わず、むしろ悪いことを行って神を恥ずかしめてきたことによって、キリスト教の信者であろうとなかろうと、多くの場所で聖書は悪く言われてきました。

そういった人たちの言うように、聖書の内容は信頼できず、学んでも無駄なのでしょうか?

エホバの証人は、むしろ聖書は信頼できるものであって、神の聖なる力を受けて書かれ、確実に信頼の受ける本であるということを大胆に多くの人にこれまで知らせてまいりました。

エホバの証人というこの組織も、そこで教えられていることもしっかり聖書に根差したものです。

聖書は、1600年の間に40人ほどの人が記した比類のない本、私たちの生き方に深く影響を及ぼす、これまでで最上の書物です。

私たちの手本であるイエスは、地上で人間として生活していた際、次のように語ったことがあります。

イエスは答えた。

「『人は,パンだけではなく,エホバの口から出る全ての言葉によって

  生きなければならない』と書いてあります」。(マタイ4:4)

この記述は、空腹だったイエスが神から与えられている奇跡的な力を自分のために用いるようにという悪魔サタンの誘惑を退けた時の出来事です。

エホバから出る全ての言葉によって人は生きると述べ、サタンの言うことではなく、神の言葉を真理としてイエスは支持し、かつ誘惑を退けるためにこの聖書の言葉を引用されました。

私たちもいつでも聖書を用い、事あるごとにそこから学び、導きとすべきです。

聖書はエホバについて学ぶための大きな助け、エホバの喜ばれることを行うための唯一の導きです。

聖書は足元を照らすライト、遠くを見通すための街灯のような存在です。

ただの歴史の本などではなく、私たちの信仰の土台を築くための重要な手助けをする本であることに心から感謝することができます。

聖書が神の聖なる力を受けて書かれた本であるということについて、皆さんはどうお感じですか?

世界中でこれまでそうした本が出版されてきたでしょうか。

では、聖なる力を受けて書かれた本であるということを裏付ける証拠について、いくつか考えてみましょう。

聖書が信頼できる紛れもない証拠が、まずその内容や聖書を実際に記した筆者たちの態度などに表されています。

例えば、青年時代には羊を世話しその後王になったダビデのことを少し考えてみましょう。

王位に着いてから何年か経ったある夜、自宅の屋上からウリヤという兵士の妻であるバテ・シバが体を洗っているのを目にしました。

その女性を気に入り、自分の家に連れてきて、結婚していないにもかかわらず性的な関係を持ってしまいます。

その結果、バテ・シバは妊娠してしまいました。

ダビデは自分がしたことを隠そうとして、戦地の最前線に送り出して、ウリヤを戦死させるよう仕組みました。

そしてウリヤが死んだ後、バテ・シバと正式に結婚して、何事もなかったかのように振る舞ったのです。

そのように性的な不道徳に加え殺人まで犯すという、神から見て非常に悪いことを行いました。

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あなたは神のみ前でどのような立場を得ていますか

私たちは皆、神に対して言い開きを求められています。

親は子供の育て方に関して、神に言い開きが求められています。 

「若い人たち,若いうちに喜びなさい。…しかし,全てのことに関して,真の神があなたに責任を問うことを覚えておきなさい」と聖書にはあり、若い人たちも、自分の行動について言い開きが求められています。(伝道の書11:9)

ですから私たちは皆、時間、エネルギー、持つもの全ての用い方について、神のみ前で責任があるということです。 

神のみ前で良い立場を得てそれを保つために、どのようなことが必要なのでしょうか?

「心を尽くしてエホバに頼れ。

 自分の考えに頼ってはならない。

 どんな道を行く時にも神のことを考えよ。

 そうすれば神が真っすぐに進ませてくださる」。

 (格言の書3:5,6)

各人は神の是認を得てそれを失わないように努力する必要があります。エホバに依り頼むことを学ばなくてはなりません。

エホバの是認を得ることは永続的な益になります。 

私たちは、一般社会の基準とか習慣にも無頓着ではありません。しかし、それが神の意思とか基準に反するならばどうしますか?

真のクリスチャンは、人への恐れに屈することなく、エホバ神を喜ばせ、真の神として尊ぶことを最優先にすることでしょう。

エホバとの絆を強くして幸せに生きていくためのレシピが聖書にはいっぱい詰まっています。

神の前で是認された立場を得た人々に注目してみたいと思います。

まず1人目は、アベルという人物です。

「しばらく後のこと,カインは土地から得た産物の幾らかを,

 エホバに捧げるために持ってきた。 

 一方,アベルは羊の初子の何匹かを脂肪部分を含めて持ってきた。

 エホバはアベルとその捧げ物を好意的に見た」。

 (創世記4:3,4)

このアベルの両親はアダムとエヴァでした。 

この2人は神に反逆したにもかかわらずアベルは、受け入れられる仕方でエホバ神を崇拝して神の是認を得ようと務めました。

アベルは、崇拝の対象としてふさわしいのはエホバだけだと理解していました。ですから、エホバに捧げ物をしました。

羊の初子の何匹かを選び、最上の質のものを捧げています。 

アベルは兄のカインとは違って、エホバとエホバの物事の行い方は常に正しいということを心から信じ、それが信仰の動機となっていたっていうことです。 

このアベルの模範から学べるのは、純粋な動機がなければ清い崇拝は行えないということです。エホバに心からの信仰を持ってエホバの正しい基準に心から従わなくてはなりません。

さらに学べる点として、神への専心を示す行為を一度するだけでは清い崇拝を行っているとは言えず、 私たちの生活や行動全体が関係しているということを覚えておきたいと思います。

今日でも、信者でない家族に囲まれながら真の崇拝において堅く立っている人は多くいます。 

フィジーの1人の若者は、通りかかった人に声をかけました。楽園の地に関する聖書の約束についてすでに聞いていて、そのエホバの証人との話し合いで再び関心が呼び覚まされました。

そして母親の住む島へ行って聖書研究を始めることにしました。島に帰ると、若者の家族は反対するようになりました。さらに、栽培し始めた作物を皆台無しにし、村の者たちからも、自分たちの宗教以外を許さない村から出ていくようにと言われました。 

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無価値なものから目を背けなさい

私たちは、得ている情報の80パーセントを目から得ていると言われています。

見たものは私たちの感情に影響を与えます。そしてそれは 私たちの行動を誘っていくものとなります。

最終的にその人は見たものによって形作られていくことがあります。

実際そのような影響を受けた人のことを少し考えてみましょう。

ダビデという人は、自分が見たことによって、ある感情を抱いたことが取り上げられています。

「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。

死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。

人の子が何者なので気に掛けてくださるのか」。

(詩編8:3,4)

自然から見たことによって、神がどんな方で、どんな特質を持っておられて、そのような方がなぜ自分に関心を持ってくださっているのかという絆を感じ取ることができたということです。

そうするならば、私たちも神を尊敬したり、神との絆を大切にしたい、また崇拝したいという気持ちが湧き起こってくるということです。

素晴らしい創造物を見る時、私たちはエホバの関係を意識することができます。

これはエホバが備えてくださる目の素晴らしい働きと言えるのではないでしょうか。

一方、良いものであっても使い方を間違えてしまうと重大な問題を抱えるという例を考えてみましょう。

例えば、包丁はとても良いもので、それで料理して美味しいものを作るならば、人を幸せにします。

しかし、それを間違って使うならば、人の命を奪って人を不幸のどん底に陥れる作用があります。

私たちの目もそうです。

聖書の創世記3章に、誤った使い方をした1人の人の例が出てきます。

エヴァは、エデンの園の真ん中にある善悪の知識の木の実を食べるとどうなるか聞いていました。

エホバからただ聞いていただけではなくて、目があって確かに園の真ん中にその木があるということを認識していました。

それから食べたならば命を失うことになるので注意しなければいけないという警報を目が発するものとなっていたに違いありません。

しかしある時、邪悪の天使に唆されてしまいました。

その時にどんな変化が起こったでしょうか?

今まで見ていた視点とちょっと変わってそれを見続けていくようになります。

そうすると、なんと魅力的なものに見えてくきました。今までは注意しなければいけないと思っていたものが、おいしそうに見えて、食べたくなってきました。大きな変化が生じたのではないでしょうか?

そして感情の影響を受けて、欲望がどんどん高まりました。

その結果、エヴァはその実をなんと取って食べてしまったのです。(創世記3:6)

エヴァはこの実を見続けて、それに欲望を感じてしまったのです。

その結果、エヴァは死んでしまい、子孫を不幸なものに陥れることになりました。

エヴァはどうしたらよかったのでしょうか?

「私の目をそらさせてください。無価値なものを見続けないために。

あなたの道で私を生き続けさせてください」。(詩編119:37)

無価値なもの、良いものとそうでないものとをしっかりと分別して、必要ないものは目をそらすようにコントロールする、つまり犠牲するようにとここでは述べられています。

続く部分を見ると、エホバに従ってエホバの道を私たちが歩むために、この事柄は とても大切なことであるとこの聖句は述べています。

では、私たちの目はどうでしょうか?

ダビデのように神を認識するものでしょうか。それともエヴァのように、私たちの目は問題に誘うような影響を与えるでしょうか。

私たちはどうしたら無価値なものから目をそらすことができるのでしょうか?そのために何が必要となってくるのでしょうか。

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人間が永遠に生きる それは可能か

皆さんはおいくつになられましたか?

たとえ何歳であったとしても、永遠という観点からするとごくごく短い年月と言えるかもしれません。

亀は100年以上生きるものもあると言われています。樹齢何千年にもなる植物もあると言われています。

それに比べて人間は90年生きれば良いことだと言われます。

寿命を伸ばそうと懸命に努力するんですけれども、それ以上生きることは難しいというのが今の現状です。

人間は80年か90年だという既成事実のような認識がありますので、誰でもそのことを意識して人生設計を立てようとします。

そして80年が過ぎようとしたり90年が近づいてくると、今の世の中では就活とか、最後に住む家のことを終の棲家という表現も使うことがあります。

そういう言葉を使わなければいけない現状は悲しいことではないでしょうか?

ずっと生きていたいと思うににもかかわらず、自分の意図に反して健康を害してしまったり死を経験しなければならない現実を目の前にするとき、どうしてそういう風になってしまうんだろうと私たちは考えるものです。

人生が短いとか儚いなと感じることがあるのは何でなのでしょうか?

「神は全てを適切な時に美しくした。神は人に,永遠を思う心さえ与えた。

それでも人は,真の神の行いを決して知り尽くすことがない」。

(伝道の書3:11)

動物は時系列で物事を考えることはできません。

人間だけが、過去現在そして未来にわたって思考を働かせて将来のことを考え、しかも永遠という観点で物事を考えることが可能です。

エホバは元々「永遠を思う心」を与えてださっているからです。

私たちの身体面の造りに注目して見ても、ずっと生きられるように造られていることがわかります。

脳は平均グレープフルーツほどの大きさと言われていて、1300グラムの神秘とも言われます。潜在的能力がすごいからです。

およそ2000万冊の本の情報量、世界最大の図書館に収められているのと同じ数の本の知識を吸収することができる能力があると言われています。

ある百科事典によると、これほど素晴らしい造りなので、人間の脳の長期的な記憶能力は事実上無限であると言われています。

無限であるにもかかわらず、わずか80年とか90年で死んでしまうとしたら脳の機能を十分活用する前に私たちは死んでしまうことになります。

科学者たちは、脳がこんなに素晴らしいのに人間はなんで老化して病気になって死んでしまうのだろうかと研究を続けていますが説明できないというのが現状です。

でも、聖書は説明しています。

人間が死ぬようになった原因は、人類史の最初の時点に遡らなければなりません。

最初の人間アダムとエバは神に従う限り永遠に生きることができました。

「エホバ神は人にこう命じた。

『庭園の全ての木の実を満足するまで食べてよい。

しかし,善悪の知識の木の実は,食べてはならない。

それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである』」。

(創世記2:16,17)

それは神の主権を支持することを意味していました。

悪魔サタンが蛇を用いて最初の人間夫婦に接触を図ることになります。エヴァが禁じられている実を食べたとしても決して死ぬようなことはない、しかもその実を食べることによって神のようになれると唆されました。

「そこで女がその木を見ると,

おいしそうな実が付いていて,魅力的な美しい木に見えた。

それで女はその木の実を取って食べ始めた。

その後,一緒にいた時に夫にも渡した。夫もそれを食べ始めた」。

(創世記3:6)

エヴァは見つめれば見つめるほど、その実が魅力的に思えたかもしれません。そして実際に手に取って食べました。

(さらに…)