復活 死に対する勝利

誰でも長く生き続けたいと思っています。
不老不死の様々なものを見つけ出そうという努力が過去から行われていましたし、
現代では、老化のメカニズムを研究して、再生医療によってそういったものを元に戻そう、また新たに作り出そうという考えがなされています。

どれもこれも、私たちが直面する死というものが理不尽なものである、それを避けることができたら避けたいという切実な願いがあるからです。
なぜでしょうか?

それは私たちの命、私たちの親しい人や愛する人の命を奪い取るものだからです。
私たちの築いてきた関係を切り離すものということが言えます。
ですから聖書の中で、死は人類の敵と呼ばれています。

では、死という敵に私たちは打ち勝つ術はないのでしょうか?
全く希望がないのでしょうか?
聖書の中を見てみましょう。

「神は死を永久にのみ込む。
主権者である主エホバは全ての顔から涙を拭う」。
(イザヤ25:8)

聖書の神であるエホバは、私たちが直面する死を永久に取り除くと表現しています。

さらに、死から生じる「涙」全てを取り除くと約束しています。
しかし死を取り除くことによって、涙は取り除かれると思いますか。
亡くなった家族のことを思い出して涙を流すことがあるのではないでしょうか?
その事柄に関してさらに希望があることがわかります。

「私は墓から彼らを救い出す。
死から彼らを取り戻す」。
(ホセア13:14)

死がなくなるだけではなくて「取り戻す」、亡くなった人たちを生き返らせるとエホバは述べておられます。
つまり人が死ななくなるだけではなくて、死んだ人たちが復活することによって、死に直面する涙というものが取り除かれて、人類共通の敵である死から完全に私たちは
自由になり勝利するということを聖書は希望として謳っているということになります。

この希望は、本当に神の親切の表れではないでしょうか。
親しい人を亡くした人に気遣いがありますし、すでに亡くなった人に対しても希望を与えるものだからです。

この復活というものは具体的にどのように行われるのでしょうか?
どこで、誰が、そしてどのようにこの復活が成し遂げられていくのでしょうか?

どこに死んだ人たちは復活してくるのでしょうか?

一般的に、人は亡くなると天国に行くと言われています。
確かに聖書の中でも天に王国があることが明らかにされています。
聖書巻末の書である黙示録として知られる啓示の書の中にとりわけ詳しく記されています。

その中の20章というところを見ると、天に復活する人たちが確かにいるという希望について述べられています。
その中では、14万4000人という限られた数の人しか復活しないと述べられています。
今まで人類の歴史上亡くなった大勢の人たちの中から見れば、それは本当に少数の人と言えるのではないでしょうか。
この20章の中を見てみると、それはキリストともに王国を支配するためであるということが繰り返し繰り返し説明されています。
その人たちは目的があったために天に復活するということです。
キリストと共にこの地上を楽園とするために人類を導く、平和な世の中を築くために支配をするという目的のために、その人たちは敢えて天に行きます。

では、他の人たちはどこに行くのでしょうか?
私たち人間はどこで暮らすように造られたのかということを考えてみるといいかもしれません。
神の目的の中で私たちは、この地球上に造られてこの地球上で生き、そしてこの地を楽園にするという目的を持って造られたわけです。
しかし残念ながら、この地上で亡くなるようになりました。
今まで築いてきた人間関係が失われてしまったのです。
その人たちはどうなるのでしょうか?
神の目的に沿って、この地上にまた復活してくるということです。

聖書の中には、幾つもの復活の実際的な実例が出てきます。
どの人たちも天に復活したのではなくてこの地上で身近な家族のもとに復活してきたことが取り上げられています。
このことからも地上に復活することが裏付けられますし、先ほどのホセア13:14の中で「取り戻す」と書かれています。
原状復帰するということですから、この地上に大勢の人たちは復活してくると言えるのです。

では誰が復活してくるのでしょうか?

「また,私はこの方たちと同じ希望を持っております。
神が正しい人も正しくない人も
復活させてくださるという希望です」。
(使徒24:15)

正しい人も正しくない人もこの地上に復活してくるということです。

正しい人、つまり生きてる間に神の様々な指示や道徳基準に従って、神に従ってきた人たちが復活させられます。
当然のことだと思われませんか。
ではなぜ、わざわざ正しくない人を復活させるのでしょうか?
この正しくない人とは、神の基準を無視して従わない人生を送ってきた人たちです。
しかし、その人たちは理由がありました。
その人たちは、神の言葉を学んで神の教えに従う機会がなかった歴史上の大勢の人たちのことを意味しています。
神はそういった人たちが復活してきて、神に従うチャンスを与えたいと思っています。

このことは、神が公平な方であって公正であって、亡くなった人にも 親切な配慮を払う神であるということを表しています。
では、全ての人が復活してくるということになるのでしょうか?

「このことに驚いてはなりません。
記念の墓の中にいる人が皆,
彼の声を聞いて出てくる時が来るのです」。
(ヨハネ5:28)

「墓の中にいる」つまり亡くなった人が復活することがこの聖句の趣旨です。
「記念」と書かれていることに注意を払う必要があります。
私たちも記念日を祝うことがあります。
記念日とは何のためにあるのでしょうか?
それは思い起こすためにあります。
それには記憶ということが関係してくるのです。
この聖句でも、記憶に関連している言葉が使われています。
ですから「記念の墓の中にいる」ということは、神の記憶の中にとどめられている人たちが復活してくるということです。

一方、記憶の中にとどめられてない人もいます。神の記憶の中から消し去られた人とはどういう人でしょうか。
それはエホバに従う機会があったのに故意に退けたり、学んでいたのにそれを退けた人たち、楽園で生きるのにふさわしくない行いを地上で生きてる間に数多く行った人たちをエホバはご自分の記憶の中から消し去られるのです。

運命を定めて、最初から神は記憶にとどめていないというわけではありません。
全ての人の生まれた人の記憶を、エホバは最初からしっかりと残しておられます。
どんな人生を歩んでいくでしょうか?
後に復活に値する人になるのでしょうか?
そういう期待を持ってエホバは全ての人の人生を記憶に撮っておられるのです。
エホバは1人1人に深い関心を持ってくださっているということです。
私たちは1人で生活しているわけではありません。
いつもエホバが寄り添って、いつも私たちのことを見守って、どういう人生を歩んで、どういう人なのかということに関心を持ってくださっている温かい神であるということも、このことからよく分かるのではないでしょうか。

ではどのようにその人たちは復活してくるのでしょうか?

この地上が楽園になった時に死んだ人たちが復活していきます。
その人たちは、以前と同じ温かい愛情のある関係を築いていくことがます。
何か見えないところにいて、風のように私たちの周りにいるとか、離れて天国にいるという考えではありません。
実際見て触れて、コミュニケーションを取ることができる関係を復活と言います。

この人たちは神に従う人生を歩むならば、2度と引き裂かれることはないのです。
つまり聖書の復活は、再会という素晴らしい希望であるということが言えます。

しかし、俄かに信じがたいと思うのではないでしょうか?
多くの人は死後天国に行く、極楽に行くという考え方を持っています。
しかしその考え方は、論理的なものでしょうか?
それとも感情的なものでしょうか?
誰かが言ったことを信じていますか?
どんな証拠がありますか?
どんな方が天国にその人たちを導くのでしょうか?
果たしてそういった事柄を考えたことがあるでしょうか。

聖書の中を紐解いてみると、復活が論理的なものであるということが明らかになってきます。
例えばある人が、災害に遭って本当に悲しんでいる人、被害に遭っている人を元通りに助けてくださると言います。
夢のある話だと思います。
ではどうやったら論理的に信用することができるでしょうか。
その人はどんな人ですか?どんな動機を持っていますか?
実際それを行う力や技術、助けた実績があるでしょうか?
そういったことを踏まえてみるならば、論理的な証拠の積み上げで信じることができます。

復活に関してはどうでしょうか?
このある人が、救援のために自分の持っている1番大切な全財産を犠牲にしたとしたらどのようにお感じになりますか?
それはその人のやる気、本気度が分かってきます。
実際動いてくれるのではないかという証拠の1つになるのではないでしょうか。
復活の希望を備えてくださったエホバ神はそのような方です。

「神は,自分の独り子を与えるほどに人類を愛したのです。
そのようにして,独り子に信仰を抱く人が皆,
滅ぼされないで永遠の命を受けられるようにしました」。
(ヨハネ3:16)

神は全ての人が死なないようにするために、イエスを犠牲にしました。
「独り子」ですからこれ以上ない最愛の子供です。
このイエスを人類のために犠牲にしたということは、私たちを本当に愛しているということを表しています。
またヨブ14章14節,15節を見ると、エホバは亡くなった人に「再び会いたいと願」って、つまり切望しているということが言及されています!
つまりエホバはそのような動機で行動を起こしておられるということが、聖書を紐解いてみると明らかになってくるのです。

では動機はあったとしても、本当にそういう力があるのでしょうか?

詩編36編9節を見ると、神だけ持っている力について言及しています。
それは「命の源」だということです。
神は命そのものを人に与えることができました。
人間を創造して、体や仕組みを作られた方です。
ですから命を再度与えることができる方であると言えます!
エホバ以外にこのことを成し遂げることができる方はいません。

また復活するには、個人に関する記憶というものが必要になってきます。
それは膨大なものです。
その人が生まれてどんな人生歩んできたでしょうか。
どんな遺伝情報を代々引き継いできたのでしょうか。
そういう情報が完全に戻されない限り、全く同じ人が復活してくることはあり得ません。

イザヤ40章26節の中を見てみると神の記憶容量というのは、「全ての星を名で呼ぶ」という膨大なものです。
私たちの住んでいる天の川銀河は、約4000億個の星があるとされています。
最近様々な技術が進歩して、現在でもすでに見える範囲で銀河は数千億や数兆ほどの銀河があるのではないかと言われています。
そういったものに関心を持って名前を付けて、そしてその名前を呼ばれる記憶力があるということです。
ですから、私たちの記憶も保存しておくことができます。

パソコンを私たちが新たに更新する時に、データをそっくり保存しておいて、別のパソコンに移し替えると、元通りの記憶したものが再現されます。
同じことをエホバは亡くなった全ての人に行うことができるということです。

実際どんな証拠があるでしょうか?
エホバがそういった記憶を持っておられて、それを再現できたでしょうか?

「私の父が望むのは,
子を認めて信仰を抱く人が皆,
永遠の命を受けることなのです。
私はその人を終わりの日に復活させます」。
(ヨハネ6:40)

エホバ神は人が死ななくなるため、また復活させるために、子であるイエス・キリストを用いるということです。
ではイエス・キリストは、神の力を持って実際に人を生き返らせたことがあるでしょうか?

ルカ7章11節から15節によると、ナインという街の寡婦の息子をイエスは復活させました。
大勢の人たちが葬儀の参列をしていたところを偶然通りかかり、高齢のやもめが本当に嘆き悲しんでいるのをイエスは見ました。
希望の息子が亡くなってしまったので、この先どういった人生を送っていくのかという深い同情心を抱かれてイエスはその息子を復活させたのです。
「大勢の人」が見ていたと何回も言及されています。
ユダ全域にこの噂は広まったということも触れられています。
(ルカ7:17)

ですから大勢の目撃証言があったということ、またイエスが同情心豊かであるということも、この記述は明らかにしています。

ヨハネ11章38節から44節のイエスの友であるラザロという人を復活させた時のことも見てみましょう。
ラザロが亡くなった時、イエスは離れた所にいました。
来た時には亡くなってからもう4日も経っていました。
多くの人は、墓に葬られたラザロがもう腐敗しているので近づく必要はないとイエスに語りかけます。
しかしイエスは「神の輝かしい力を見る」でしょうと述べて、瞬時にこのラザロを復活させて、兄妹の元に戻すことができました。
大勢の人たちは、腐敗していたラザロが蘇ってきたのでとても驚いてしまいました。

大勢の人たちがそれを見たのです!
宗教指導者たちは、自分たちに都合の悪いことが起きたので、イエスと復活したラザロを取り除こうとまでしました。
ヨハネ11:44-53)
なぜでしょうか?
それは実際に起きたからです。

こういった事柄を見ると、確かにイエスそして神の力は人を復活させることができるという多くの目撃証人の下に行われたということを知ることができます。

さらにその背後には同情心が示されて、神は亡くなった人たち、そして亡くなった人の家族に同情心を示される方だということがわかります。

こうした論理的な考え方をしていくと、復活に対する確信が深まっていきます。

では、ここで論理的な見方で復活を確信することができた人の話を聞いてみましょう。

「私は宗教に全く関心がありませんでした。
大学ではバイオテクノロジーを専攻し、
進化論に傾倒するようになりました。
聖書は西洋の文学書で、
科学的には正確じゃないと思っていました。

 その後、目ざめよ!誌を読むようになりました。
生物学や他の科学に関する記事が
論理的に書かれていることにとても驚きました。
それで、高度で複雑な生物学的な仕組みが
偶然に生じることなどあるのだろうか
と疑問に思うようになりました。
車は何百ものパーツが正しく組み合わされて正常に動きます。
少しでも変わってしまうと、
きちんと機能しなくなることがあります。
DNAやRNAやタンパク質といった
生物学的な仕組みはもっと複雑で
偶然に生じたと考えるのは筋が通っていない
と感じるようになりました。

 それで、見方を変えて、聖書を学び始めました。
3500年ほど前にはすでに聖書には
地球は空間に浮いていると書かれていました。
でも、科学者がそれを発見したのは300年ほど前のことです。
そうした聖書の真理を知れば知るほど、
聖書は人間の考えが書いてある本ではなく、
科学的にも正確だということを確信するようになりました。

 聖書に確信が持てるようになると、
復活という神の約束も信じられるようになりました。
聖書によるとエホバは
ご自分の手で造った人に再び会いたいと願っています。
確かにエホバは、
ご自分の記憶の中にいる人たちを復活させたいという願いと、
そうする力を持っています。
復活を強く確信しているので、
大きな希望や慰めとなっています」。

「私は小さい頃から教会に通っていました。
良いことをする人は天国に行き、
悪いことをする人は地獄に行くとずっと信じていました。
死んだ人の魂は愛する家族や友達を見守って
助けてくれているとも信じていました。

 2018年に夫が亡くなり、とても辛い思いをしていました。
ある日、エホバの証人の女性が訪ねてきました。
死んだ人が地上に復活してくる
という話を聞いて慰められました。

 でも、死んだ人は助けてくれると信じていたので、
何で助けてくれないんだろうと思いました。
そうすると伝道の書9章5節と10節を開いて、
死んだ人の魂が生き続けることはないし、
死んだ人は何も感じないと話してくれました。
そして、神は人間が地球で永遠に生きることを考えて
人間を造ったと教えてくれました。
この聖書の真理のおかげで、
教会で聞いてきた間違った教えから自由になりました。
それでバプテスマを受けたいと思いました。

 エホバは憐み深く知恵があり愛に溢れた神です。
使徒24章15節には、エホバは
正しくない人も復活させてくださると書いてあります。
愛する家族や友達にまた会えるんです。
エホバのことを知らない復活してきた人たちを教えて、
エホバに仕えるよう助けることを楽しみにしています」。

2人の論理的な考え方ができた人が取り上げられていました。
聖書を紐解いてみると、様々な仕方で復活の希望に対する論理的な考え方ができるということがわかりました。

では復活の希望を信じることは、私たちにどんな影響を及ぼすのかということについて考えてみましょう。

「兄弟たち,死んで眠っている人たちについて
知らないでいてほしくありません。
希望を持っていない人のように悲しんだりしないためです」。
(テサロニケ第一4:13)

復活の希望のない人はどのような悲しみを抱くでしょうか?
しっかり論理的に裏付けられていないので、感情的になってしまいます。
本当に天に死んだ人たちがいるのかそこで再会できるかという確信がありません。
そうすると死は、永遠の別れに感じるのです。
なかなか立ち直ることができません。

しかし復活の希望を論理的な仕方で聖書から捉えることができるならば、死んで眠ってる人たちが神の記憶の中で保護されているという見方をすることができます。
一時的に離ればなれになりますが、また地上で同じ時間を過ごすことができることに気付くようになります。
復活してきたらどんなことをしようか?
どんなものを作ってあげようか?
どんなことがを話してあげようか?
様々な事柄を考えることができます。
気持ちが前向きになります。
希望は人の生きる力になっていくのです。

さらに復活の希望を通して、私たちはエホバ神に引き寄せられるようになります。
エホバが親切な方である、公平で公正な方である、1人1人に関心を払ってくださる方である、人を愛してご自分の独り子を犠牲にしてくださった方である、同情心を持っているということを触れてまいりました。
亡くなっている人たちに対しても大切にしてくださる親切な神なのです。

生きている私たちの気持ちも汲んで希望を与えてくださっているのです。
私たちはさらにどんな方なのかを知りたいと思うのではないでしょうか?

既に学んだクリスチャンであるならば、様々な迫害や命の危険に直面したとしても、ご親切なエホバ神の様々な命令や真理に従って、忠実に人生を歩んでいきたいという気持ちになっていくのではないでしょうか?
そうすると神を意識した歩み方になっていき、人生観とか死生観というものは、エホバ神を中心としたものになっていくのです。

復活の希望がどういった影響を及ぼすかということにもう一度向き直ってみるのはどうでしょうか。
引き続き、次のイエスの勧めの言葉に関心を払ってください。

「イエスは言った。
『私は復活であり,命です。
私に信仰を抱く人は死んでも生き返ります。
そして,生きていて私に信仰を抱く人は皆,決して死ぬことがありません。
このことを信じますか』」。
(ヨハネ11:25,26)

イエスはご自分が、復活そして人が永遠に生きる上で
重要な役目を持っているということを明らかにされました。
そのイエスに対して私たちが信仰を持つようにと述べています。
鍵はイエスです。

私たちはイエスに対してもっと知識を増し加えていく必要があります。
例えば、イエスはなぜ人類のために死ななければならなかったのでしょうか?
エスが死ぬことによって、なぜ私たちは復活したり永遠にに生きることが可能になるのでしょうか?
そういった事柄を関心を持って調べてみるようにいたしましょう。

3月24日の日曜日に開かれるイエスの死の記念式では答えが明らかにされます。
https://t.co/Y1xukA2MIS
それで是非この記念式にも参加して、イエスについての知識を増し加えていくようにしましょう。
そうすることによって、復活という希望を確かなものとしてまいりましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
nolog.link/s/8NU9hJ からご覧になれます。