聖書は信頼できる なぜそう言えますか

これまで何千年にもわたって、多くの人に親しまれ頼りにされてきた本があります。

それは聖書です。

皆さんもこの聖書を毎日読んで、書かれている意味を考え、生活に役立てておられるかもしれません。

しかしいつの時代にも、影響力のある様々な人たちが、聖書に対する疑念を抱かせようと躍起になっています。

例えば、批評家や進化論者や哲学者、また聖書を教えるはずの聖職者までが、聖書の信頼性を攻撃したり、聖書の教えに沿って変わる学説を作り出し、神を信じる必要などないと言っているのです。

またクリスチャンと称する多くの人々が、聖書で良いとされていることは行わず、むしろ悪いことを行って神を恥ずかしめてきたことによって、キリスト教の信者であろうとなかろうと、多くの場所で聖書は悪く言われてきました。

そういった人たちの言うように、聖書の内容は信頼できず、学んでも無駄なのでしょうか?

エホバの証人は、むしろ聖書は信頼できるものであって、神の聖なる力を受けて書かれ、確実に信頼の受ける本であるということを大胆に多くの人にこれまで知らせてまいりました。

エホバの証人というこの組織も、そこで教えられていることもしっかり聖書に根差したものです。

聖書は、1600年の間に40人ほどの人が記した比類のない本、私たちの生き方に深く影響を及ぼす、これまでで最上の書物です。

私たちの手本であるイエスは、地上で人間として生活していた際、次のように語ったことがあります。

イエスは答えた。

「『人は,パンだけではなく,エホバの口から出る全ての言葉によって

  生きなければならない』と書いてあります」。(マタイ4:4)

この記述は、空腹だったイエスが神から与えられている奇跡的な力を自分のために用いるようにという悪魔サタンの誘惑を退けた時の出来事です。

エホバから出る全ての言葉によって人は生きると述べ、サタンの言うことではなく、神の言葉を真理としてイエスは支持し、かつ誘惑を退けるためにこの聖書の言葉を引用されました。

私たちもいつでも聖書を用い、事あるごとにそこから学び、導きとすべきです。

聖書はエホバについて学ぶための大きな助け、エホバの喜ばれることを行うための唯一の導きです。

聖書は足元を照らすライト、遠くを見通すための街灯のような存在です。

ただの歴史の本などではなく、私たちの信仰の土台を築くための重要な手助けをする本であることに心から感謝することができます。

聖書が神の聖なる力を受けて書かれた本であるということについて、皆さんはどうお感じですか?

世界中でこれまでそうした本が出版されてきたでしょうか。

では、聖なる力を受けて書かれた本であるということを裏付ける証拠について、いくつか考えてみましょう。

聖書が信頼できる紛れもない証拠が、まずその内容や聖書を実際に記した筆者たちの態度などに表されています。

例えば、青年時代には羊を世話しその後王になったダビデのことを少し考えてみましょう。

王位に着いてから何年か経ったある夜、自宅の屋上からウリヤという兵士の妻であるバテ・シバが体を洗っているのを目にしました。

その女性を気に入り、自分の家に連れてきて、結婚していないにもかかわらず性的な関係を持ってしまいます。

その結果、バテ・シバは妊娠してしまいました。

ダビデは自分がしたことを隠そうとして、戦地の最前線に送り出して、ウリヤを戦死させるよう仕組みました。

そしてウリヤが死んだ後、バテ・シバと正式に結婚して、何事もなかったかのように振る舞ったのです。

そのように性的な不道徳に加え殺人まで犯すという、神から見て非常に悪いことを行いました。

でも、私たちがこうしてダビデの罪に関する詳細な点を知っているというのは、包み隠されずに聖書に記録されたからに他なりません。

ダビデ自身もこの時の罪について神に告白し、許しを求める祈りを聖書に残しています。

このように、聖書筆者が起きたことを詳細に、また自分のことを正直に記したということは、聖書が信頼できる証拠であると言えないでしょうか?

さらに聖書の記述が間違いないものであることは、聖書筆者や初期クリスチャンが迫害にあったり、場合によっては死刑になる可能性を知りつつも、事実を明らかにしていったことにより証明されています。

例えば、初期のクリスチャンたちは国家からの猛烈な迫害を受ける中でも確実に増えていっていました。

命の危険があるとわかっていながらも、クリスチャンとしての立場を必死に守ろうとしたのはなぜだったのでしょうか?

それは聖書にある内容が正確であるかどうかをよく調べ、質問したり当時の文章をよく調べ研究したりすることによって、徹底的に証拠を調べて自分たちが信じているものが本物であるかどうかを判断したということです。

また聖書の翻訳や出版の際にも命をかけて行動した人たちがいます。

西暦2世紀以降、ローマの皇帝やキリスト教の様々な権力者によって、聖書を読むことや発行することが禁止されました。

ゴミのように公衆の面前で聖書が焼かれ、迫害を受け処刑されたりして命を失いました。

それでも聖書翻訳者の命懸けの努力によって聖書の記述の正確さが守られてきて、私たち1人1人が聖書を手に取って読むことができています。

他のどんな本よりも多くの敵に直面してきたわけですが、命に変えてまで聖書とその中身を守ろうとした人たちが大勢いたこと、今現在まで聖書が生き残ってきたということを考えると、聖書の記述が間違いないものであるということがわかるに違いありません。

また聖書の内面の調和も、聖書が神の聖なる力を受けて書かれたものであることの証拠となっています。

約40人の筆者により幾世紀も離れた時代に生きていた人たちが書き記しました。

それらの人たちはいくつもの国に点在して住んでおり、全員がお互いを知っているわけではありません。

他の人が何を書いたかさえ知らない人もいます。

職業も、漁師、羊飼い、王様、医者など様々だったわけです。

この人数でこれほどまでの長い歳月をかけた本が他にあるでしょうか。

仮にそのような本があったとしても、1人1人の考え方が違うということもあって、1つのテーマで1つの本を完成させるのはまず難しいことでしょう。

でも、聖書は違います。

完全に調和が取れています。そしてこの本には1つの大きなテーマが存在し全体が貫かれています。

その聖書のテーマとは、キリストの治める神の王国によってエホバの主権の正しさが立証されて、エホバという名前が神聖なものとされるということです。

この壮大なテーマに沿って、創世記から啓示までが記されています。

では聖書の中に収められている詳しい情報に関してはどうでしょうか?

書かれている原則や道徳の基準は、現代に生きる私たちの生活に大いに役立っています。

例えば、マタイ7章12節に記されている黄金律とも呼ばれるイエスが教えた行動の指針は非常に多くの人に影響を与えてきました。

「ですから,人からしてほしいと思うことは全て, 

 人にもしなければなりません」。

私たちは、人から敬意や親切や愛を示してもらえると嬉しく思います。

同じように自分がしてもらいたいと思うことを相手にもするようにという素晴らしいことを教えています。

この教えを聞いたとしても、当てはめる機会を探して行動しないなら、その効果は発揮されません。

この教えをどんなシーンで適用できるでしょうか?

夫婦や親子の間で、友人や近所の人、会社や学校といったシーンで適用できます。

自分がしてもらいたいと思うことを相手にするよう心がけているならば、自分の身近な人たちに関心を払い気を配ることができるようになります。

そして自分に敵意を示すような人にも愛を示すことができるようになります!

迫害したりとか自由を制限するような人や政府にでさえ良いことを行うことができます。

例えば、以前は暴力的で手がつけられなかった人たちが、聖書を学んでこの原則を一生懸命当てはめて、以前とは別人のように優しい人へと変化しました。

以前だったらかっとなって喧嘩になってしまうようなことを言われたりされたりしても、敵であっても良いことを行うというイエスの教えに倣うことによって、その場で親切に対応するように変化してきています。

このように聖書の原則は人の生き方を変え、生活に大いに役に立っています。

これは聖書が神の聖なる力を受けて書かれたことを示す本当に良い例です。

聖書は科学的にも正確に書き記されています。

科学が進歩した結果分かってきたことを、何千年も前にすでに聖書には書き記されていました。

科学の専門書ではありませんが、その記述は正確なものです。

例えば、聖書は3500年ほど前に地球が宇宙空間に浮いているということについて、次のように述べています。

「神は北の空を何もない所に広げ,地球を空間に浮かせている」。(ヨブ記26:7)

昔の人は、地球は水のような所に浮いていたり、巨大な亀が地球を運んでいるといったことを考えていました。

1687年、今から大体300年ぐらい前、アイザック・ニュートンが重力に関する研究を発表し、目に見えない力が地球の軌道を保たせていると説明しました。

この大発見によって、3000年以上前に記された聖書の言葉の正しさが証明されたのです。

また聖書に記されている預言とその成就は、聖書の信頼性を証明する非常に強力な証拠と言えます。

巻頭から巻末の書に至る多くの部分で、預言とその成就に関する記載があります。

中でもイエスに関する預言とその成就は特に際立ったものです。

イエスが亡くなった時についての預言について少し見てみましょう。

「神はその人の骨を全て守る。1本も折られることはなかった」。(詩編34:20)

これは当時処刑された時、杭につけられた犯罪者が苦しむ時間を短くするために、死を早める情けの一撃として足の骨を折るというローマ人の習慣を表しています。

でも、イエスの足は折られないと書かれています。

実際にどうだったでしょうか?

「それで兵士たちが来て,

 イエスの両脇で杭に掛けられた2人の男の両脚を折った。

しかし,イエスの所に来てみると,すでに死んでいたので,脚を折らなかった」。

(ヨハネ第一9:32,33)

イエスの両脇にいる杭につけられた人たちはまだ生きていたので、習慣通り足を折られてしまいました。

すでに亡くなっていたので、イエスの足は折られませんでした。

周りで起こっていることは何もわかりません。何かをコントロールするというのは不可能なことです。

イエスが何もしないところで預言の成就が起きていたことを知ると皆さんはどう感じますか?

イエスがなぜ死ぬ必要があったのか。こうした点も聖書には預言されています。

「彼は私たちの違反のために刺し通され,私たちの過ちのために打ち砕かれた。

 彼が処罰を受けたので私たちに平和がもたらされ,

 彼の傷のおかげで私たちは癒やされた」。(イザヤ53:5)

彼というのはイエスのことです。私たちというのは罪深い人間のことを指しています。

人間は罪の影響により誰しも老化し病気になり、いずれ死んでしまいます。

その人間たちのために、イエスが苦しみ死ぬことによって平和がもたらされ、癒されるということがここからわかります。

イエスはご自身の死の意味についてどう説明されたでしょうか?

「人の子も,仕えてもらうためではなく仕えるために,

 また多くの人と引き換える贖いとして自分の命を与えるために来ました」。

(マタイ20:28)

この贖いとは何でしょうか?

捕虜になって拘束されている人が奴隷状態から解放される時に支払われる対価のことを指しています。

私たち人間は罪を受け継ぎま苦しんで死ぬ、言わば奴隷状態にあります。

でも、イエスがご自身の命を代価として差し出してくださり、私たちを解放するために、予言の言葉を借りるなら私たちの平和や癒しのために死んでくださったということです。

イエスの時代よりも何世紀も前にこうした予告がされて、その通りに実現したのは、聖書の信頼性を証明するものとならないでしょうか?

私たちにも大きく関係する重要な預言があります。

これまで台頭してきた諸国家や現在の状態について、幾つもの預言が成就しているということを知ると、聖書が神の言葉であるという確信が深まります。

まずバビロンの陥落に関する預言について考えてみましょう。

西暦前8世紀、イザヤはバビロンという大きな帝国が滅ぼされ、人が住まなくなると宣言しました。

「最も輝かしい王国,カルデア人にとって美しく誇らしいバビロンは,

 神が滅ぼしたソドムとゴモラのようになる。

 そこに人が住むことはなくなり,いつの時代までも居住地にはならない。

そこにアラブ人が天幕を張ることはなく,羊飼いが群れを休ませることもない」。

(イザヤ13:19,20)

興味深いことにこの預言をイザヤが語ったのは、バビロンが強大な帝国になる前のことでした。

イザヤの44章や45章では、バビロンを滅ぼす人物の名前まで預言されています。その名前はキュロスという人物です。また、どのようにこのバビロンを攻略していくのかも予告されていました。

この預言からおよそ200年後の西暦前539年、ペルシャの王キュロスが実際に連合軍を率いてバビロンに攻め込んできました。

バビロンの周りにはユーフラテス川が流れていて、この川のおかげで難攻不落と呼ばれていました。その川を違う沼地に流し込んで川床を歩ける高さにまで水位を下げ、その都市を攻略していったのです。

そしてバビロンの都市の門は開いたままになっていました。そこから堂々と侵入してキュロスはバビロンを滅ぼしました。

バビロンには人が住まなくなるという預言についてはどうでしょうか?

現在、イラクのバグダッド付近にあるバビロンの遺跡は、もはや廃虚になっています。ここに誰かが住むことは不可能かもしれません。

バビロンが滅ぼされてから2500年ほど経った今も、このような状態が続いています。

この預言が予告通りに実現したことは、聖書が将来の出来事に関しても信頼できるということを示す大きな証拠です。

では、現代に生きる私たちに向けて、聖書は何と述べているでしょうか?

「このことを知っておきなさい。

 終わりの時代は困難で危機的な時になります」。(テモテ第二3:1)

私たちが生きているこの時代は終わりの時代であると書かれていました。

しかも困難で危機的です。

「国民は国民に,王国は王国に敵対して立ち上がり,

 あちらこちらで食糧不足や地震があります」。(マタイ24:7)

聖書によると、終わりの時代には戦争、食糧不足、地震があるとされています。

皆さんも、そういった問題が多くの人を苦しめているとお感じにならないでしょうか?

ロシアとウクライナの戦争はまだ続いていますし、年始には能登半島で大きな地震がありました。

多くの被害が出て、今でも苦しい生活を余儀なくされている人たちがいます。

聖書の予告通り、苦しい時代に私たちは生活しています。

今取り上げたのは起きる出来事です。人々はどう変化しているでしょうか?

「人々は自分を愛し,お金を愛し,自慢ばかりし,傲慢で,

 神や人を冒瀆し,親に従わず,感謝せず,不忠実になります。

 自然な愛情を持たず,全く人に同意しようとせず,中傷し,

 自制心がなく,乱暴で,善いことを愛しません。

 人を裏切り,強情で,思い上がり,神ではなく快楽を愛し,

 信心深く見えても実際には神を敬っていません」。(テモテ第二3:2-5)

19個の人々の性質、特徴が列挙されています。どれもモラルが欠けた今の世の中を表しているとは思われないでしょうか?

自分ファーストでお金を愛しプライドが高い人たちが沢山います。他の人に要求ばかりして自分は要求に応じない人、親に反抗する子供、神を無視して自分のしたいことに没頭することが一般的になっています。

このような傾向を示す人が本当に増えているとは思われないでしょうか?

このように世界で起きている事柄と、悪くなっていく人々の傾向、これらが預言されていること全てが今、この時代に起きているので、今がまさに終わりの時代である!と言えます。

聖書の内面の調和、その内容が生活に大いに役立ってきたこと、科学や預言とその成就についても少し見てくることができました。

聖書が信頼できる本で、神の聖なる力を受けて書かれたことを実感なさることでしょう。

では信頼できる神の言葉聖書に、私たちはどのように注意を払うことができるでしょうか?

「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,

 教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます。

 それにより,神に仕える人は十分な能力を持つことができ,

 あらゆる良い活動を行う用意が完全に整います」。(テモテ第二3:16,17)

聖なる力の導きによってかか書かれた聖書は、様々な機会とりわけ伝道とか聖書レッスンで相手を教えるのに役立ったり、他の人だけでなく自分を戒める手助けをしたり、間違った道に進みそうな時には、矯正して元の正しい道に戻してくれる、そういう働きがあると示されています。

では聖書を学ぶ際、どんな点に私たちは注目できるでしょうか?

まずできる点として、聖書の著者であるエホバについて学びましょう。

どんな仕方で学ぶのでしょうか。

「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,

 あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。

(ヨハネ17:3)

この言葉には、既に知っている人ともっと親しくなる努力を継続的に続けるという考え方が含まれています。

今以上に神とイエスに関する知識を増やし信頼を強めることによって、神との個人的な関係を深めるということを意味しています。

エホバが何を好まれていて、どういう行いは嫌われるのか、エホバの価値観や基準を学びましょう!

そのような努力を続けるなら、永遠の命が得られるとありました。大きな祝福が伴っていることがわかります。

次にできる点として、聖書のアドバイスをしっかり思いに留めることです。

「エホバの教えは信頼でき,経験の浅い人を賢くする」。(詩編19:7)

聖書にある神のアドバイスを当てはめると、経験が浅くて自分に自信がなかったとしても賢明に行動できます!

今の時代は誘惑するもので満ちていて、自分を破滅させてしまう危険が潜んでいますが、良いものと悪いものをしっかり見分けてバランスの取れた生活を送ることができるということです。

聖書を通して与えられるアドバイスは全く信頼でき、人生の良い導きとして安心して従うことができます。

もしエホバについてまだ聖書から学んでおられないなら、お近くのエホバの証人と聖書研究をぜひ行ってみてください!

t.co/REdyiKUiXa

そこで神の名前やご性格や基準を学んで、この世の考え方を捨て、自分の考え方を新しいものとするつまり、思考パターン、奥底にある考え、気持ちを変化させるようになさってください!

もしできるなら、他の人に伝える活動に積極的に参加なさってください。

他の人に伝えるというのは、自分の信仰をはっきり示すことになります。

世界中の大勢のエホバの証人と共に肩を並べて熱心に伝道活動を行ってまいりましょう。

今日は、聖書が信頼できる証拠について考えてまいりました。

これからも聖書を様々な角度から調べて、聖書が神の聖なる力を受けた貴重な本であり、終わりの時代に自分の歩みを導かせるものであるという確信を強めてください。

間もなくこの世の悪い体制は終わりますが、その後には平和に満ちた新しい時代が到来いたします。

これからも聖書を神の言葉と認め、自分の唯一の導きとして新しい世での祝福を確かな希望としてまいりましょう。

では終わりが迫る今こそ、聖書の助言を思いに留めつつ、自分の信仰を築いてまた強め、それを他の人に語って表明することにより、信頼できる聖書を与えてくださったエホバとその言葉に注意を払い続けてまいりましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、nolog.link/s/8NU9hJ からご覧になれます。