人間には神の導きが必要 なぜそう言えるか

最近は国内外問わず大勢の観光客の方が来られます。
そういった方たちは初めての土地に来るので、
様々なガイドを取り寄せるということをいたします。
そういったナビとか導きといったものを必要とするわけです。

事前に導きがあると時間を節約することができますし、
知らなかった楽しい思いをすることができます。
知らなかった危険を避けることもでき、
安心して旅行を楽しむことができるというメリットがあります。

私たちの人生も、知らないところを旅行するようなもの
といえるのではないでしょうか?
正しいアドバイスが与えられるならば、
数多くのメリットがあります。

「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。
天の王国はその人たちのものだからです」。
(マタイ5:3)

イエスはここで、神のアドバイスとか
ガイドが必要であると言っています。
なぜそう言えるのでしょうか?

私たちは何回も生まれ変わって
ここに存在しているわけではありません。
私たちの人生というのは初めて存在します。
そうすると初めて直面することがたくさんあります。
ちょうど知らない土地を旅行しているようなものです。

何で私たちは生きているんでしょうか。
どんな目的があるんでしょうか。
家族は本当に幸せに生活するにはどうしたらいいんでしょうか。
今の命だけが全てのでしょうか。
と様々な疑問が湧いてくるわけです。

そうすると大勢の人たちは、
哲学とか宗教といったものに目を向けることがあります。
でも疑問に対する答えっていうのは、
それぞれ宗教ごとに異なっているのではないでしょうか。
中にはそういった事柄に答えることがない宗教も
たくさんあります。

例えば、神に感謝する様々な祭りというものが
日本で頻繁に行われていることを知っています。
そういった感謝の念というのは、
何かが聞かれたとか備えられたことに対する感謝や願い
を表したものであって、
何か自分の人生を導いてくださっていうことに対する感謝を
祀るようなものはほとんどないのではないでしょうか。
こういった事柄を考えてみますと、
何が私たちの人生を導く正しい導きなのか
そもそもそういう導き自体があるのかということも、
ということを考えさせられるものとなります。

「正しいことを切望している人たちは幸福です。
満たされるからです」。
(マタイ5:6)
神の導き、正しい導きを切望している人たちは満たされる。
正しいアドバイスを見出すことはできるとイエスは保証しておられます。
この正しいアドバイスとはどんなものなのでしょうか?
文脈を見ると神の導きについて触れていますから、
神から見て正しいそういうアドバイスであるに違いありません。

そのようなアドバイスを本当に受け取ることができるのでしょうか?

「私はあなたに洞察力を与え,進むべき道を教える。
あなたに目を留めて助言を与える」。
(詩編32:8)

神ご自身聖書の中でご自分を自己紹介しておられます。
神は人生を始めて歩む経験の少ない人たちに洞察力を与えて
賢く歩むことができるようにしてくださいます。
進むべき道をガイドしたりアドバイスしてくださる方である
ということが述べられています。
あなたたちではなく「あなたに」とあるので、
それぞれのその状況に合わせて必要なアドバイスを
与えてくださる方であることが書かれています。

神はどのように導いてくださるのでしょうか?

「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,
教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。
(テモテ二3:16)

神はご自分の力を用いて、
導きとなる聖書を書かせていうことです。
聖書の中で唯一の神であると明らかにされているエホバは、
聖書を用いて人間を導いてくださるというわけです。

イエスもマタイ5章の言葉を語った時に、
そのことを意識していたに違いありません。
なぜなら、イエスはご自分の人生の中で絶えず
神の名前と神の言葉聖書に注意を向けることをされました。
例えば、 イエスが最初に活動を始めた時に
サタンから誘惑を度々受けられました。
その時にイエスは、聖書の言葉をわざわざ引用して、
そのようにしなければならないということを明らかにされました。
他の人々から多くの質問を受けることもありましたが、
その機会も絶えず聖書を引用し
エホバの名前を含めて取り上げることにより
ご自分がエホバの導きというものをいつも意識していることを明らかにされました。
ですから、私たちは聖書に注目していくことが必要です。

聖書は、本当に特異な宗教書ということが言えます。
全人口の中で約3000以上の言語で翻訳されています。
ですから多くの人々は、
自分が知っている言語で聖書を読むことができます。
これほど翻訳されている宗教書はありません。
つまり、神の導きを誰でも
見ようと思えば近づくことができる書物となっています。
ですから聖書は人生のガイドブック
ともいうことができるでしょう。

人生のガイドブックである聖書から
私たちが益を得るにはどうしたらいいのでしょうか?
スマートフォンとかインターネットで
いろんな情報を集めたとしても、
よく見ていなかったり行動しなければ、
本当に正しいことなのか全く役立たないのか
ということがわかりません。
同様に聖書も、実際開いて読んで理解して、
行動し当てはめていくなら、
本当に価値のあるものなのだということが
分かってくるに違いありません。

「正しいことを切望している(飢え乾いている)
人たちは…満たされる」とありました。
(マタイ5:6))

暑い中奉仕したりすると、
喉が乾いてくるのではないでしょうか。
そういった時に冷たい水がコップで差し出されたとしたら
どうしますか。
ずっと眺めていたら、何も良い益はありません。
しかしそれを飲んだ時に、
私たちは本当にほっとし安らぎを感じて、
体自体がその水によって癒されるという経験をして
価値を知ることができます。
同様に私たちは、渇望を実際に
行動で表すことが必要となってきます。

そうすると、3つほどの益が得られるようになっていきます。

1.私たちの人生が幸福なものとなっていく

「エホバの律法は完全で,力を吹き込む。
…経験の浅い人を賢くする。
…心に喜びが生まれる。
…目が開かれる。
…金よりも,多くの純金よりも好ましい。
蜜よりも,巣から滴り落ちる蜂蜜よりも甘い」。
(詩編19:7-10)

エホバの導きを意識するならば、
その人は生きていく力を得ることができます。
初めて歩む人生でも賢く歩め心に喜びが生まれていきます。
さらに多くのことを発見し、目が開かれます。
本当に良い事柄に気付くこともありますし、
危険を避けるという形で目が開かれることもあります。
本当にそれが人生において価値があるということを実感することができます。

2.神の助けを得られる

エホバ神はご自分のアドバイスを信頼する人を
喜んでくださいます。
例えば、古代にアブラハムという人がいました。
人生においてエホバの導きを絶えず信頼して、
その導きに従って歩んだ人でした。
その人は当時様々な技術とか文化も最先端の町に住んでいた人
自分自身も裕福な人でした。
でもある時、神から自分の導きに従って行動するように
と言われました。

アブラハムはどうしたでしょうか?
その導きに従い神を信頼して導きに沿って行動しました。
一生そうしました。困難な時もそうしました。
どんな結果が待っていたでしょうか?
アブラハムは人間でありながらも神に友と呼ばれるうな
そういう親しい絆を築くことが出来ました。

真の友とはどんなものだと思いますか?
本当に様々な時に助けたり、励ましたり、支えてくれたりします。
エホバ神もアブラハムの人生において、
いつも助け支え励まし導いてくださったのです。
私たちもエホバとの絆をそのようなものにすることができるということです。
私たちの人生は、真の友エホバによって支えられることに
喜び得られるということになるのではないでしょうか。

3.将来の希望を持つことができる

神の導きを自覚する人たちは神の王国の希望を与えられるとイエスは言われました。
(マタイ5:3)
神はこの王国を通して、今の様々な悪い状態
困難な状態を解決しようとしておられます。
例えば、病気、死、戦争、老化、災害といった
様々な問題に直面する私たちを、
人間の政府では何もすることができないので、
ご自分の政府を用いて解決しようと計画しておられます。
私たちはそのような神の約束について聖書を通して
目を向ける時に、真の希望を得ることができます。

ある人たちは、神の王国の当事者として
天からこの地球を導くことができます。
また別の人たちは
様々な問題が解決されて楽園のような状態になったこの地球で、 永遠に生きられるという素晴らしい希望があります。

では、私たちはそういった神の導きをを受けるでしょうか?

残念ながら、
全ての人が神の導きを受け入れるわけではありません。
中には神の導きに気づいていながら、
それを受け入れなかったり、
途中でやめてしまう人たちもいます。
どんな障害があって、
神の導きを受け入れることができないのでしょうか?
イエスはそのことについても私たちも教えてくださっています。

「人が種をまきに出掛けました。
まいていると,幾らかは道端に落ち,
鳥が来て食べてしまいました。
幾らかは土が少ない岩地に落ち,
土が深くないのですぐに芽を出しました。
しかし,太陽が昇ると日に焼けて,
根がないので枯れてしまいました。
幾らかはいばらの間に落ち,
伸びてきたいばらにふさがれてしまいました。
さらに,幾らかは良い土に落ち,実を付け始め,
ある種は100倍,ある種は60倍,
ある種は30倍の実を付けました」。
(マタイ13:3-8)

この例え話は何を言いたかったのでしょうか?
「人が王国に関する言葉を聞いても意味を悟らない場合,
邪悪な者がやって来て,
心にまかれたものをさらっていきます。
これが道端にまかれたものです。
岩地にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞き,
喜んですぐに受け入れる人です。
けれども自分の内に根がなく,一時は続きますが,
その言葉のために苦難や迫害が生じると,
すぐに信仰を捨ててしまいます。
いばらの間にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞く人ですが,
今の体制での心配事や富の誘惑によってその言葉が塞がれ,
実らなくなります。
良い土にまかれたもの,
これは王国に関する言葉を聞いて,意味を悟る人です」
(マタイ13:19-23)

この例え話は人について述べていることがわかります。
「土」は各人の心の状態です。
そして 「種」は聖書に書かれている王国に関する言葉です。

最初の人は道端に落ちた種です。
道端は畑と違って人々に踏み固められている土地です。
つまり心が周囲の人々の影響や価値観に左右されて
固まってしまってるような状態の人のことを指しています。
そのような状態の人の特徴は何でしょうか?
ノアの洪水の時の人々はどんな生活だったでしょうか。
(マタイ24:37-39)
食べたり飲んだり、結婚したりするという日常生活に追われて、
その言葉で頭が一杯いっぱいになってしまった人たちでした。
時間やエネルギーは全てそれにつぎ込まれていたので、
神の導きを受ける機会があったのに
後回しになってしまいました。
そういった人たちは、
サタンによって神の導きを受ける機会を取り去られてしまい、
その結果命を失っていきます。

では何が必要でしょうか?
「王国に関する言葉を聞いても意味を悟らない場合」
と説明されています。
つまり時間を取って神の言葉を学んだり
じっくり考えたりすることによって
意味を悟ることができるわけです。
つまり踏み固められた土のような固定概念を、
神の言葉によって種を受け入れ易くすることができる
ということです。

では、2番目の心の状態は岩地に落ちた種です。
それは最初、土があったので芽を出しました。
ところが陽に当たると枯れてしまったわけです。
これは喜んで受け入れたのに、様々な強い反対に遭った時に
やめてしまった人のことを指しています。

なぜやめてしまったのでしょうか?
不幸があったからではありません。
土が薄くて、下に硬い凝り固まったものがあったわけです。
これはその人の今まで培ってきた感情とか価値観が凝り固まっている状態です。
そういった人々は聖書を学びました。
しかし学ぶにつれて、聖書の基準つまり神の正しい導きは
古い厳しい時代に合わないという感情が芽生えてくるわけです。

例えば、世の中の性に関する基準はだんだん低下していきます。
結婚関係前の性関係とか同性愛という事柄に関して
世では寛容ではになってきて基準を下げてきています。
岩のような固められた古い感情を持っているならば、
周りの人にそれは古くさいとか見方が厳しいとか言われた時に、
すぐに諦めてしまいます。やめてしまうわけです。

このような状態になった時にどうしたら良いでしょうか?

コリント第一6章11節をみると、
1世紀にそのような状況で神の基準から外れた不道徳な生活を送っていた人たちが
変化した経験が載せられています。
鍵となったのは、「神の聖なる力によって」その人たちが
神の導きを受け入れるようになったことが言及されています。
ですから、神の聖なる力を意識して祈り求めて、
神の聖なる力を聖書からじっくり考えて得るようにすることが必要になります。

エホバの助けがあるならば、
今の価値基準が変化しているのはサタンと邪悪な天使たちによるものであり、
そういった事柄に従った結果がどういうものであるのかをよく理解して、
自分の岩のような硬い概念を崩していけるわけです。
ですから神の言葉を受け入れて、じっくり考えていくことが必要です。

3番目はいばらの間にまかれた種です。
それはいばらともに成長して、
最終的に塞がれて実らなくなってしまいます。

いばらとは何でしょうか?
「今の体制での心配事や富の誘惑」とあります。
世の中で生活していますと、
様々な生活必需品や仕事や老後の事柄や病気、
時には災害にあったりしたらどうするんだろうということで、
私たちが過度に心配するならどうでしょうか。
その不安を少しでも払拭したいと思って、
お金や物質的なものを十分蓄えておこうという気持ちになっていきます。
それが必要なことだと思い、
また神の導きを受けるのと並行してそれが行えると思って、
つまり両方育っていったわけです。
ところが「富の誘惑」裕福という魅惑が出てきます。
足りてしまうわけではなくて、〝もっと″という概念です。
そうすると、そのいばらによって最終的に塞がれてしまって、
神の導きを受け入れなくなってしまうのです。

どうしたらいいでしょうか?
いばらを引き抜くのが最善ということになるでしょう。
今の体制の心配事を引き抜くには、
過度の心配を払拭しなければなりません。
どうしたらいいですか?
それは、聖書の導きをじっくりと考えるということです。
エホバはご自分の導きに従う人たちに
どんな助けや約束をされてますか?
その人たちをどのように保護しておられるのでしょうか?
聖書の中でそれがどのように反映されていますか?
先ほどのアブラハムのように従った人に対して
どのように答えてこられたのかということを知るならば、
信仰が増し加わって
恐れの気持ちを持たずに済むようになっていくわけです。

.

この例え話は、意味を悟らないということから始まって、
意味を悟るということで終わっています。
つまり、神の導き神の言葉の意味を悟るために私たちはじっくり考える努力を絶えず払っていかなければならないとイエスをおっしゃったのです。
私たちはチャンスを逃さないようにいたしましょう。

聖書まだ学んでいない方は、無償の聖書レッスンを受けて、
神の言葉を取り入れる機会を逃さないようにしましょう。
t.co/REdyiKUiXa
すでにに学び始めた人たちは、
エホバが与えてくださっている週2回の集会の機会を、
切望したり自覚したりして必要なものだと意識を持って、
時間を優先的に買い取って、定期的に出席するようにいたしましょう。
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=1011229&srcid=share
そうするなら神の導きをじっくりと考えるチャンスが
開かれていくことになります。

私たちは、自分だけではなくて周りの人々もエホバのガイドや
アドバイスを受けるということに対して関心を払うことができるでしょうか?
旅行した時に、本当に良いガイドやアドバイスを受けたなら、
今度は同じ道を歩む人にそれを伝えたくなるというのは人の気持ちです。
神の導きがどんなところにあるのか、
そしてそれはどのように得ることができるのかということを
知らせることによって周りの人を助けて参りましょう。

ガイドやアドバイスというものは
本当に私たちの人生を豊かにしていくものです。
では、エホバのそのようなガイドやアドバイスを
謙遜に受け入れていきましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、
http://inx.lv/5yT5
からご覧になれます。