エホバが何かを導く能力には実に驚くべきものがあります。
人間が2月22日に小さな宇宙船オデュッセウスを月に送り込んで 大喜びしていたのに対し、天体そのものをエホバは導いておられます。しかも正確にそれを運航させておられます。
米国は1月に別の宇宙船を月に送り込みましたが、それは失敗してしまいました。しかし、エホバのガイドの方は全く狂うことなく、何十億年、何百億年と正確に天体を動かしています。
エホバはこの導きを物理法則によって可能にしています。
もう1つの例を見てみましょう。
人間はドローンをプログラミングして、数キロ離れたところに荷物を自動で飛んでいかせようとたくさんの実験を繰り返しています。
しかし、キョクアジサシという小鳥は毎年北極から南極まで行って帰ってきます。体重はわずか100グラムほどしかありませんが迷うことなくそれを行い、移動距離は往復で9万6000kmにもなる個体もあるそうです。
エホバはこの小鳥を事前に組み込まれた本能によって導いておられます。
エホバは私たち人間のことも導いてくださるのでしょうか?
「この神は永遠に私たちの神。ずっといつまでも私たちを導いてくださる」。
(詩編48:14)
「ずっといつまでも」という部分は、私たちが死ぬまでとも訳すことができるようです。エホバは私たちのことを生涯にわたってずっと導いてくださることを読み取ることができます。
何によって導いてくださるのでしょうか?
聖書によって導いてくださいます。
ただ、鳥とか星が自動でプログラムされてガイドされているのに対して、私たちは自由に考えて行動するものとして作られているところが違います。
導きは聖書の中にありますが私たちが自動的にガイドをされることはありません。私たちがこのガイドを意識して自分自身を導くものとして使っていかなければならないのです。
それを積極的に使っていくならば、私たちはエホバの望まれる方向へと確実にガイドされて行くに違いありません。
エホバが私たちに望んでいることとはどんなことでしょうか?
それは私たちが幸せに暮らし、いつまでも死ぬことがなく、パラダイスのような地上で生活することです。
皆さんは、自分自身のこともガイドしてもらいたいと思われるでしょうか?
聖書を毎日少しずつでも読んで、それをじっくり考えるようにするならば、私たちは生活は良い方向へと導かれていくに違いありません。
私たちの出版物や公式サイトなどを見ると、聖書を毎日読むことを容易にするためのアイデアや提案などがたくさん載せられていますので、活用していきたいと思います。
聖書がどんな4つの面で私たちを導くのかという点について少し考えていきたいと思います。
1.聖書は人間の行動に対する特別な導きである
人生は時々航海に例えられることがあります。広い大海原で何の導きもなく航海をするとどんな危険があると思われますか?
方角がわからなくなって彷徨ってしまったり、暗礁に乗り上げて座礁してしまうかもしれません。
私たちの生き方の中で聖書は、危ない場所が書かれた海図や、 方角を示してくれるコンパスのようなものに例えることができます。
「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,
教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。
(テモテ第二3:16)
教え,戒め,矯正しという言葉は、間違った方向に私たちが進まないようガイドしてくれることを示しています。
人工衛星を使ったGPSのようではないでしょうか。
また聖書は神の聖なる力の導きによって書かれたとも言っています。エホバは衛星のように高い点から私たちのことを見ていて、聖なる力によって導きます。
聖書はまるでその聖なる力を受ける受信機のようなものです。聖書があれば、目では見えない様々な危険について前もって知ることができます。
では危険について事前に知ることができないとしたらどうなるでしょうか?
安易なルートや自分の行きたい方向に舵を切ることがあるかもしれません。私たちにはそうする自由もあります。
でも聖書は、水面下の危険についても前もって警告を与えてくれています。
どんな危険があるでしょうか?
現代の人たちは、性道徳についてとやかく言われることをあまり好ましいものとは思いません。それは個人の選択の自由で、人はなんでも好きに選択できると考えているからです。
結婚前の性関係、配偶者以外の別の異性と関係を持つこと、複数の異性と性関係を持つこと、同性と関係を持つこと、同性と結婚することなども、今では多くの国で認められて一般的なものとなってきています。
私たちの前には実に無数の選択肢があって、選択の自由も私たちには確かにあります。
ただ聖書が示している安全なルートはたった1つしかありません。
人はただ1人の配偶者を持って、性関係は配偶者とのみ楽しむことができることを聖書は示しています。
これはどんな意味で安全で、私たちのためになるということができるでしょうか?
性道徳を聖書の基準に合わせる人は、結婚を大切なものと考え神の取り決めを大事にしています。
また、未来の配偶者を敬い互いの権利を尊重していることにもなり、結婚を単なる体だけの結びつきではなく、2人の人間の結びつきとみなして、愛情を示し合い敬意を示し合い、結婚生活をいつまでも幸せに送ることができます。
そういった生き方を神様が喜んでくれているという晴々とした気持ちにもなることができます。
性について自由気ままな選択をする人たちは、本当に危険なルートをたどっているのでしょうか?
自由を楽しんでいるように見える人たちが何の悲しみも苦しみも味わっていないと本当に思われますか?
良心の痛みや自分はダメな人間だという気持ちを感じることはないでしょうか。
望まない妊娠をしたとしたらいかがでしょうか。その人の人生や親や兄弟たちの生活は影響を受けないでしょうか。
他にも多くの望ましくない事柄、例えば障害の残る性病、妊娠中絶、 嫉妬に燃えた争いや殺人などが性の不道徳に関係しているのはなぜでしょうか。
性の自由を大幅に認めている国々で離婚率が非常に高いのはどうしてでしょう。
離婚は成功を意味しますか?それとも失敗でしょうか。離婚によって本当に幸せになれるのでしょうか?それとも不幸と不満の印でしょうか。
こういったことを考えると性の不道徳はとても安全で快適なルートとは言うことができないかもしれません。
たとえ少し迂回することになったとしても、聖書の示すルートというのが1番安全で私たちのためになると考えることができます。
2.本当の幸せを味わうために聖書が役立つ導きを与える
「神の導きが必要であることを自覚している人たちは幸福です。
天の王国はその人たちのものだからです」。
「神の導きが必要であることを自覚している人たち」という言葉は「聖なる力を乞い求める人たち」と訳すことができます。(マタイ5:3と脚注)
何かを選択したり行動したりする前に、聖書のどの原則がそこに当てはまるか注意深く探ろうとする人は幸福ですと述べているのです。
実際に聖書は、安定した家庭を築いたり、健全で幸福な人間関係を築くにはどうしたら良いか教えてくれています。
そうしたガイドがないとするとどうなるでしょうか?
東京湾のような沢山の船が運航している場所で、それぞれの船が自由気まま好きな方向に動いたとしたら、どうなるでしょうか?
あちこちで衝突事故が起きて大変危険なことになるかもしれません。
海上には航海法という道路交通法のようなものがあって、正面から船が来た時にはお互いどっちに舵を切ったら良いか、側面から船が来て衝突しそうな時はどっちに回避したら良いかということが明確に決められています。
それらの決まりを熟知して、運行ルートにガイドされるならば、安全な船の旅を楽しむことができるでしょう。
結婚生活も航海に例えることができるかもしれません。穏やかな日々もあれば嵐に遭うこともあります。
配偶者と意見が逆向きで正面衝突の危険が生じることがあるかもしれません。
聖書のガイドに従って衝突を避けることができるでしょうか?
危険回避のアドバイスにはこういったものがあります。
「夫の皆さん,妻を愛し続けてください。ひどく怒ってはなりません」。
(コロサイ3:19)
「親切な人になり,温かい思いやりを示し合い,
神がキリストによって寛大に許してくださったように,
寛大に許し合いましょう」。
(エフェソス4:32)
こういった聖書の原則に従っていけば、正面衝突の危険は回避することができるに違いありません。
私たちも聖書の役立つ導きに従っていくことにいたしましょう。
3.聖書は真の成功へ確実に私たちを導いてくれます。
人生を成功させたいと思う人は多いかもしれません。特に若い方たちはそのように考えるかもしれません。
では、成功した人生とは具体的にどのようなものでしょうか?
今日、人生における成功は大抵お金で測られます。稼いだお金が多いほど人生は成功とみなされるのではないでしょうか。
ところが聖書は、物質的なものをあまり重要視しないようにと教えています。
「しかし,裕福になろうとする人たちは,誘惑とわなに陥り,
多くの無分別で有害な欲望を抱き,破滅と滅びに至ります。
お金を愛することは,あらゆる悪い事柄の根なのです。
ある人たちはこの愛にとらわれて信仰を失い,多くの苦痛を身に招きました」。
(テモテ第一6:9,10)
裕福な人がいけないと言っているのではないことに注目できるかもしれません。
むしろ裕福になろうとすることやお金を愛することが誘惑になると述べているのです。
この警告がどれほど正しいか、ある臨床心理学者の言葉が、以前のものみの塔誌に載せられていました。
「ナンバーワンになり、物質的に豊かになっても、
それによって充足感や満足感が得られるわけではなく、
真実に人々から尊敬され愛されていると感じるわけでもない」。https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=1990244…
つまり富を追い求めることに自分の全エネルギーを費やすと、富は残ってもそれ以外の本当に得たいものは得ることができない場合が多いということです。
では人生を真の成功へと導く点でも、私たちは聖書を導きとし従っていくことにしたいと思います。
4.聖書は永遠の命へのたった1つの導き
どんな航海にも最終的な目的地があるはずです。
正しい目的地が設定できますと、あとはその目標に向かって航海を進めていくだけです。
私たちの導きとするものが、将来の希望とか目標を正しく示していないなら、その導きには従わない方が良いかもしれません。
聖書は私たちをどんな目的地へとガイドしてくださるでしょうか?
「罪の代償は死ですが,神が与える贈り物は,
私たちの主であるキリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
(ローマ6:23)
神が贈り物として永遠の命を与えてくださると聖書は述べています。
永遠の命を贈り物として与えることができるのは本物の神様だけではないでしょうか。その永遠の命へと私たちを導くことができるものとして、聖書は他のどんなものよりも優れているということができます。
私たちの目的地に正しい目標をセットしますと、その目標に向けて今どのように生きたら良いかが見えてきます。
神様は無条件に全ての人に永遠の命を与えますと言っているわけではありません。
そうであれば、神様が望む人になるにはどうしたら良いかと考えるのではないでしょうか。神様が望む人になるために、私たちには今何ができますか?
「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,
あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。
この「知る」という部分は、エホバとイエス「についての知識を取り入れる」と訳すこともでき、ここのギリシャ語動詞は継続的な行為を表しています。(ヨハネ17:3と脚注)
つまり継続的に毎日、エホバとイエスについて知るように頑張っていきましょうとこの聖句は勧めているわけです。
神様のことがよく分かってくると、私たちに深い愛情を持っていること、幸せになってほしいと思っていることなどが理解できるようになってきます。
その幸せな生活を送るための聖書のアドバイスに自分を合わせていくと、今考えられる中で最高の充実した人生を送ることができます。
そして喜ぶ人たちにエホバは、パラダイスになった新しい世界でいつまでも生きることができるようにしてくださると述べています。
パラダイスのような場所でいつまでも幸せに生きることができる将来が約束されているのですから今、自分の生き方を調整して、聖書を導きとして歩んでいきたいと思うのではないでしょうか。
聖書は、本棚に飾っておくためだけのものではありません。
手にとって読んで、じっくり調べて考えて、私たちの導きとすることのできる本です。
聖書を信じられるのはどうしてなのかについても、それぞれ自分で調べて確信しているのは良いことではないでしょうか。
どうぞ、聖書の内容をじっくりと調べてみてください。
その記述が全く正確なこと、確かに裏付けがあることについて、時間をかけてじっくり思い巡らしていくことにいたしましょう。
そのような機会はきっと皆さんの確信を強めていくものとなるに違いありません。
エホバが聖書で伝えているメッセージがどんな影響を今及ぼしているかについても考えてみましょう。
「忍耐と慰めを与える神が,
キリスト・イエスと同じ考え方を皆さんに持たせてくださいますように。
皆さんが一つになり,声をそろえて,
私たちの主イエス・キリストの父である神をたたえるためです」。
(ローマ15:5,6)
イエスと同じ考えを持ち1つになって神をたたえると書かれています。
聖書のメッセージに惹かれる人たちは、1つになることができます。国や言葉や人種や国籍、立場が違ったとしても、平和な1つの家族のようになることができます。
これも本当の神様にしかできないことではないでしょうか?
渡りをするカナダガンの群れのように、私たちも1つにまとまって、同じ考え、同じ行いをしていきたいと思います。
鳥は本能によって導かれています。星は物理法則によって導かれています。私たちは聖書によって導かれます。
そしてエホバが示す目的地に向かって、皆で共に飛んでいくようにしたいと思います。
聖書が私たちを導く先には何がありますか?
パラダイスになる地上での終わりのない命があります。
ではこれからも聖書を共に学び、聖書の導きに従っていくことにいたしましょう。
裏付けとなる聖書の言葉は、
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