自己中心的な世の中で愛を表すには

自己中心的な人はどんな人でしょうか。

自分中心でいる人、自分のことだけ自分のことばかりを考える人のことです。 

こういう人たちが増えていると感じるのではないでしょうか。

自己中心的な考え方や態度というのは色んな形で表れます。 

家族や周りの人に対する態度、お金や物に対する見方、

仕事のやり方、運転の仕方などです。 

もし自分のことばかり考えて生きていくなら、

やがて自分と周りの人を傷つけていくことになります。

本物のクリスチャンは、自己中心的な態度を取りたいとは思いません。

なぜなら愛のある人になりたいと思っているからです。愛は利他的です。 

ですから、自己中心というのは愛の対局にあることになります。

愛の対局にいるということは、エホバの対局にいるということになります。

なぜなら「神は愛だからです」。(ヨハネ第一4:8)

エホバは愛そのものです。ですから、自己中心的な人というのは、

エホバからかけ離れた最悪のポジションにいるということになります。

自己中心的な態度をただ避けるだけでは、本物のクリスチャンとは言えません。

イエスは次のようにも教えたからです。 

「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。

 それは,互いに愛し合うことです。

 私があなたたちを愛した通りに,

 あなたたちも互いを愛しなさい。 

 あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,

 あなたたちが私の弟子であることを知ります」。

 (ヨハネ13:34,35)

イエスは弟子たちに愛を表すように,それこそがイエスの弟子である

つまり本物のクリスチャンであることの証拠になると言ったのです。 

それで、自己中心的な人はクリスチャンになることはできません。

クリスチャンになった後に、自己中心的な態度を示すようになったり、

愛を十分表せないようになったりするならば、

その人はクリスチャンとしては色褪せてしまうことになります。

それで、私たちは自己中心的な世の中で愛を表したいと思います。

その生き方こそが本当の幸福につながります。 

エホバとイエスが幸福なのは、愛を表しているからです。

「受けるより与える方が幸福である」とイエスは教えました。(使徒20:35)

自己中心的な態度を示し続けると、自分と周りの人を傷つけることになりますが、

 愛を表し続けるなら、自分と周りの人が幸福になるということです。

では、本物のクリスチャンはどのように愛を表すのでしょうか?

それは当然、聖書が教えている方法で愛を実践することによってです。

聖書は愛について本当に多くのことを教えています。 

コリント第一13章4から7節では、

愛のあるクリスチャンがすることとしないことについて書いてあります。 

「愛は辛抱強く,親切です。

 愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず,下品な振る舞いをせず,

 自分のことばかり考えず,いら立ちません。

 愛は傷つけられても根に持ちません。 

 愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。 

 愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,

 全てのことを希望し,全てのことを忍耐します」。

辛抱強さと親切が1つのセットになっていることに注目できます。

この2つが同時に示されるときに、愛の力が一層強く発揮されるということです。 

仲の良い夫婦でも、時折喧嘩をしたり言い合いになったりすることがあります。

互いにイライラして、嫌悪な雰囲気になってしまうこともあります。

そんな時に辛抱強くなければと自分に言い聞かせて、

まずは言い争いをやめて辛抱強さを示そうとします。

でも辛抱強さを示しますが、相手と口を利かなくなるでしょうか。

辛抱強さを示しますが、きつい口調になったり、

少し乱暴にドアを閉めたりするでしょうか。 

辛抱強さを示しますが、夕食のおかずを一品減らしたりするでしょうか。

これだと親切を示していることにはならないですね。

親切というのは、相手のことを深く考え思いやりを示すということです。

それで、何か親切な行いをプラスしていきましょう。

少しイライラしていても、相手のために美味しいコーヒーを入れてあげたり、

ケーキを買ってきてあげたり、相手が喜んでくれそうな何かをプラスしてみると、

辛抱強さと親切がセットになりますので、愛の力が一層強く相手に伝わって、

より良い雰囲気になっていくことでしょう。 

これは家族の間だけではなくて、

会衆の仲間や友人、職場の同僚などに対しても意識していきたいと思います。 

これができるようになると、

自分も周りの人も幸福になれるのではないでしょうか。

「愛は全てのことに耐え」るということです。 

この表現は直訳すると愛は全てのことを覆っているという意味です。 

誰かの失敗や失言に対して、みんなで一斉にそれを攻撃し、

すぐに大炎上をしてしまう世の中です。

相手の気持ちを考えずに、一方的に攻めて傷つけようとします。

自己中心的な人というのは、他人の失敗に対して非常に攻撃的で批判的です。

でも、愛を表せる人は違います。 

他人の嫌なところ弱点を、責めるのではなく愛で覆うようにします。 

そのためには、自分の愛を広げて大きくしていく必要があります。

愛を引き伸ばすというわけです。

以前の家族生活の本の6章の中では、

愛は筋肉のように働かせると強くなりますと述べられていました。

それで誰かに傷つけられる時には、

愛という筋肉をトレーニングさせる絶好のチャンスだと考えるようにしましょう。

鍛え上げられた筋肉は美しいですね。

愛という筋肉が鍛え上げられたクリスチャンは、エホバの目に美しく映ります。

そういう人は、周りの人からも愛されることでしょう。

「愛は全てのことを信じ」るとあります。

モファット訳では常に最善のことを信じようとすると訳されています。

愛があれば、相手を信じようとするということです。

私たちは時々、誰かから嫌なことをされたり、

傷つけられたりすることがあるかもしれません。

理由がわからないこともあります。

そういう時にこの人はわざとやってるんじゃないだろうかとか、

悪気があってやってるんじゃないかと、相手の動機を疑ってしまいがちです。

でも、愛のある人はそういう時に疑うのではなく信じようとします。

愛情深い気質で知られているサルバドールという長老は、

「誰かが無思慮なことを言った場合、理想的な解決策は、 

その人が自分の言ったことを取り消して最初から言い直すことですが、

そういうことはできません。

ですから私は事前の策を取って、言われたことを無視します。

それはその人の本当の性格が現れたというよりも、 

肉の不完全さが つい出てしまったのだと考えるのです」と述べています。

とても愛のある見方ではないでしょうか。

誰かから傷つけられた時に、それはその人の不完全さがつい出てしまったのだ

と優しく受け止めるということです。

誰かから嫌なことを言われたり傷つけられたりした時に、 

ついに本性を表したなではありませんね。つい不完全さが出てしまった、

これが愛のある人の見方ということになります。 

そういう見方ができると、自分も周りの人も幸せになれるはずです。

「愛は嫉妬しません」と書いてあります。

妬みの気持ちに注意が必要です。社会心理学百科事典によると、

「人には年齢、経験、社会的背景などが自分と同じくらいの人を妬む傾向がある。

例えば、セールスマンが有名な映画スターを妬むことはないとしても、

自分より実績を上げている同僚を妬むことはあるかもしれない」

と述べられていました。

自分が誰かに妬みの気持ちを持っているかどうすればわかるでしょうか。

次のように自問してみることができます。

私は仲間の誰かが何かを上手にした時、

喜ぶだろうか?それとも気が沈むだろうか?

弟か妹、才能のあるクラスメイト、職場の同僚が何かに失敗した時、

残念に思うだろうか?それとも嬉しくなるだろうか?という点です。 

もし気が沈むまた嬉しくなるとしたら、妬みの気持ちがあるのかもしれません。 

この妬みの気持ちというのは、やはり自己中心的と言わなければなりません。

なぜなら、自分を中心にして、相手を自分より下だとか上だとか考えるからです。そのような自分中心の考え方は、マイナスの感情しか生み出しません。

優越感か劣等感です。いずれも自分と周りの人を傷つけることになります。 

どうすれば妬む傾向を抑えることができるでしょうか。

自分よりも能力のある人と自分を比べるのではなく、

謙遜になってその人から学ぼうという姿勢を身につけていくことができます。 

例えば、話の上手な兄弟がいるならば、

どのように準備しているのかを尋ねることができます。

料理の上手な姉妹がいるなら、

美味しく作るコツを尋ねてみることができるでしょう。

このようにするなら、 妬みを避けることができ、

自分のスキルを磨くこともできます。

愛は「自分のことばかり考え」ないとあります。

 改訂標準訳ではこの部分が、自分の方法に固執しないと訳されていました。 

つまり愛のある人は頑固ではないということです。

頑固な子供、頑固な夫、頑固なお年寄りがいると周りは苦労すると思います。

周りはその人のことを親切に助けようとしたり、

アドバイスしようとしたりするかもしれません。

でも、頑固な人はそれを受け入れようとはしません。

自分はこれまでずっとこの方法でやってきた、

これだけは譲れないと考えてしまうからです。 

何かのことで強く言い張って決して譲らないという態度を取ってしまうなら、

その人は愛ではなく、自己中心の方向に向かっていると言わなければなりません。

クリスチャンであれば年を重ねるにつれて、

より愛のある人になりたいと思うのではないでしょうか。

もし何でも自分の思い通りにしようとする傾向があるならば、

慎みを示すようにしましょう。 

慎みとは、自分の限界をわきまえることが関係しています。

慎みがあれば、 自分の経験や考え方には限界があって、

他にもっと良い方法があるということを認めて、

それを受け入れることができます。

家族や周りの人があなたのことを思って親切に助けようとしたり、

こんなふうにしたらいいんじゃない、

こうした方がいいと思いますよと言ってくれる時に、

慎みを示して素直に受け入れるようにしましょう。

そのようなお年寄りは、周りの人から慕われ愛されることでしょう。

「愛は傷つけられても根に持ちません」とあります。

私は全然気にしてませんと何回も言う人は、相当根に持っています。

心が狭くてそうなっているというよりは、傷ついているからでしょう。

体の傷を負ったということを考えてみてください。

大怪我をして深い傷を負いました。

治療すれば痛みはなくなっていきます。でも傷跡は残ります。

その傷跡を見るたびに、当時のことを思い出して

辛い気持ちになるかもしれません。心の傷も同じです。 

深い傷を負った場合、傷跡が残りますので、

時々それを思い出して辛く感じるかもしれません。 

それを完全に忘れたり、なかったものにしたりはできないでしょう。

それでも、根に持たないでいることはできます。

ものみの塔研究版2023年3月号31ページ18節にはこんなことが書いてあります。

自分を傷つけた相手と話し合った方がいいと思うことがありますか。

そういう時にも,まずは次のように考えてみましょう。

「自分は事実を十分に知っているだろうか」。

「悪気はなかったんじゃないだろうか」。

「自分も同じようなことをしてしまったことがあるだろうか」。

「話し合いに行くと,問題がもっと大きくなってしまわないだろうか」。

こうしたことを時間をかけて考えるなら,

愛を示して水に流そうと思うかもしれません。

自分を傷つけた人に対しても、辛抱強さと親切をセットで示すようにしましょう。

そうすると、その人との良い関係を回復させることができて、

その人の良いところが見えてくるかもしれません。 

そうすると、また友情を築いていくことができるかもしれません。

家族や友人との間でも、仲間との間でも、時折トラブルが生じることがあります。 

なかなか解決せずに問題が長引いてしまうということもあります。

もし問題が解決せず長引いているとしたら、

それはまだ愛が十分機能していないのかもしれません。

愛は全てのことに耐え、全てのことを信じ、

傷つけられても根に持たないということを学びました。

愛は 問題に決着をつけることができます。

でも解決していないということは、愛が十分表せていないのかもしれません。 

エホバは愛を表すという最高の解決策をすでに教えてくれています。

あとは、私たちがどれだけこの愛を

実践しようとするかどうかということになります。

この 愛を実践することについて、

聖書は「何よりも勝った道」と表現しています。(コリント一12:31)

このような愛を実践していることこそが、

本物のクリスチャンであることの証拠になります。

この愛を実践すれば、自分も周りの人も幸福になれます。

最後に「愛は決して絶えません」とあります。(コリント一13:8)

愛がなくなることはないということです。

愛の源であるエホバは永遠に存在する方なので、愛がなくなることはありません。 

私たちもエホバから永遠に愛してもらえるという希望があります。

それでぜひ私たちも 愛を大きく強くしていくようにしましょう。

この愛は大きな可能性を秘めています。

「いつも与えなさい。そうすれば,人々は与えてくれます。

 あなたたちの衣服に惜しみなく注ぎ込み,

 押し入れ,揺すって入れ,あふれるほどにしてくれます。

 人に量って与えるのと同じはかりで,人からも量って与えてもらえます」。

 (ルカ6:38)

自分の方から愛を表すようにすると、

相手も愛を表すよう動かされるということです。

もちろん、そうならない場合もあります。

それでも、愛を表すことは自分のためになります。

エホバは次のように約束しているからです。

「皆さんはこれまでずっと聖なる人たちに仕え,今も仕え続けています。

 そのようにして,神の名を愛していることを示してきました。

 神は不公正な方ではないので,そうした働きや愛を忘れたりはされません」。

 (ヘブライ6:10)

エホバは、私たちの愛を忘れたりはされないと約束しています。

忘れないということは、記録してくれているということです。

愛というのは、行動に表には現れないものもあります。

例えば、誰かから傷つけられた時嫌なこと言われた時に、 

言い返したくなるところをぐっと辛抱したり、

傷つけられても水に流して忘れるようにしたり、

こちらの愛の労苦を相手が全く気付いていないことさえあります。

そのように人知れず発揮されていく愛も、

エホバは気づいていて記録してくれて、覚えていてくれるということです。

この愛の記録が増えれば増えるほど、 

エホバのあなたに対する愛は強くなっていくことでしょう。

それで相手が応じてくれないとしても、愛を示し続けていきましょう。

今の世の中に見られる自己中心的な考え方や態度に影響されないようにしましょう。

毎日、愛を表していきましょう。

自己中心的な世の中で愛を表す時、私たちは光輝くことになります。

エホバはそれを立派な行いと見て、私たちのことを誇らしく思い、

喜んでくれるのです。

これからも自己中心的な世の中で愛を表すことによってエホバに倣っていき、

そのようにして本物のクリスチャンであることを示してまいりましょう。