皆さんは普段の生活の中で、あるものが本物かそれとも偽物かということを
どの程度気になされるでしょうか?
特に問題なければ本物じゃなくても構わないっていう方も多いかもしれません。
ただ、食料品ですとか医薬品などがフェイク品だったりしますと、健康とか命に関わってきますので重大な問題となってきます。
フェイクニュースというものもよく耳にするようになりました。 私たちを間違った行動へと唆すものであれば、本当に気を付けなければいけません。
では宗教上の真理についてはどんなことが言えるでしょうか?
真理という言葉には、 真実、本物、本当のことといった意味合いが含まれ、宗教上の真理とはフェイクではないことと考えることができます。
ただ多くの人にとって、宗教上の真理を見出だすことはあまり重要とは考えられていないように思われないでしょうか?
イエス・キリストは、宗教上の真理は大事なものだと考えていました。
イエスが処刑される少し前にユダヤ人たちは、イエスが自分は王だと言ってローマに反逆しているとローマの総督であるピラトに訴えていました。
「ピラトは言った。『それでは,あなたは王なのだな』。
イエスは答えた。『その通りです。真理を明らかにすること,
このために私は生まれ,このために私は世に来ました』」。
(ヨハネ18:37)
イエスにとって宗教上の真理とは、 自分自身が存在していることの意味そのものでした。
しかし続く節などを読んでいきますと、ピラトはそんなことはどうでもいいことだという態度を取っています。
では、この違いはどのようにして生まれたのでしょうか?
イエスは、ピラトが認めていないあることを信じていました。
「真理によって彼らを神聖なものとしてください。
あなたの言葉は真理です」。
(ヨハネ17:17)
イエスは、聖書に収められている神についての真実や神の目的についての説明などは全て真理だと認めていました。一方ピラトの方は、 一般的な意味における真実しか考えていませんでした。
これら2つ異なった真理に対する見方というのは、何か違いを生み出すでしょうか?
「私の教えを常に守るなら,あなた方は本当に私の弟子であり,
真理を知り,真理によって自由になります」。
(ヨハネ8:31,32)
真理を知るか知らないかということは、自由なのか束縛されているのかといった違いを生み出すわけです。
この時囚われていたのはイエスの方ではないでしょうか?
おそらくそういった事実もピラトの態度に影響を与えたに違いありません。この男は何を言ってるんだと考えて、宗教上の真理には興味を持たなかったのかもしれません。
でも、イエスが念頭に置いていたのは別のことでした。
イエスによれば「罪を犯す人は皆,罪の奴隷です」。(ヨハネ8:34)
ここで言う罪とは、人類が生まれながらに置かれている神から引き離されてしまっている状態のことを指しています。その状態は最終的に死をもたらします。
この時のピラトもそのような状態にありました。 ただ本人はそのことを自覚していませんでした。
実のところ私たちも皆全員この同じ状態に置かれていると考えることができます。
では、どのように真理は人を奴隷状態から自由にするのでしょうか?
これまで何世紀にもわたって 大勢の人が奴隷として売られました。住む場所とか、仕事とか、食べ物とか、 結婚なども自由に選ぶことができなくて生涯自由になる機会は与えられませんでした。
今日、奴隷制度自体は過去のものとなりましたけれども、住む場所も選べないような人、安い賃金で過酷な労働を強いられている人、食料の水もなく安全な住まいも得られない、そういった人たちが世界中に大勢いるのではないでしょうか。
世の中住みにくいなと感じることはおありでしょうか?もし感じたとしても、私たちにはその周囲の状況を変える力は何も持ち合わせていないかもしれません。
ところが、世界中でどんな状況に置かれていたとしても、私たちはただ1つのことについては選択の自由が与えられています!
「私は今日,天と地を証人にして,
あなたの前に,命と死,祝福と災いを置きました。
あなたは生きるために,命を選ばなければなりません。
あなたもあなたの子孫もです」。
(申命記30:19)
この箇所は、モーセがイスラエル人に対して約束の地に入る前に語っている場面です。 モーセはイスラエル人にエホバ神に仕えることを自ら選択するようにと勧めています。
同じ原則は現代の私たちにも当てはまります。私たちを取り巻く世界をを変えることはできないですけれども、神にお仕えするかどうかっていうことは、自ら選ぶことができます!
神にお仕えするというのは、聖書の真理を受け入れて、その真理に沿って生活をすることを意味しています。
そうする場合とそうしない場合とでは、どんな違いが生じるでしょうか?
聖書の真理の1つに、近い将来全ての悪が取り除かれて世界中が平和になるというものがあります。
「ほんのもう少しすれば悪人はいなくなる。
彼らがいた場所を見ても,もういない。
しかし,温厚な人は地上に住み続け,
豊かな平和をこの上なく喜ぶ」。
(詩編37:10,11)
悪人はいなくなるとか、 豊かな平和をもたらすというのは、私たちの努力によって行われるのではありません。これは近い将来、神が行おうとしていることです。
もし、この真理を知らなければどうでしょう?
正義感に溢れる人たちは、この世界を自分の力で変えていこうとするのではないでしょうか。 そして、努力しても何も変わらなければ、絶望したり悲観したりするかもしれません。
フィンランドの社会活動家だったユッカ・シュープレンという男性は、様々な抗議活動ですとかデモ行進に参加して、時には過激な手段に訴えたのでよく警察沙汰になり、逮捕されて裁判所に連れて行かれたこともあるようです。
ところがある時聖書の真理を知って、その真理に沿って生きるようにしました。現在こう言っています。
「私は物事をエホバの手に委ねることによって、心の平安を得ています。 創造者であるエホバは、動物や人間が虐待され続けること、この美しい地球が損なわれることをお許しになりません。それどころか、これまでに加えられてきた害全てを、間もなくご自分の王国によって拭い去ってくださるのです」。
別の真理に死者の状態に関する真実というものもあります。
「生きている人は自分が死ぬことを知って(意識して)いる。
しかし,死んだ人は何も知らない。
何かを得ることもない。思い出されず,忘れ去られる。
また,彼らには愛も憎しみも嫉妬もすでになく,
太陽の下で行われることに何の関わりも持たない」。
(伝道の書9:5,6)
死んだ人は何も知らないとありますが、なぜ知らないかというと、生きてる人と違って意識がないからです。
意識がないというのは、深く眠っているような状態です。疲れてぐっすり眠っていると「昨晩地震があったね」と言われても、「えっそうなの。 全然知らなかった」というようなことが生じます。
死んだ人たちはまさにそのような状態で、 どこかで苦しんでいることもありませんし、「恨めしや」と現れて生きている人たちに危害を加えるといったこともありません。
このような真理を知らないとどうなるでしょうか?
死者を恐れて、そこにお金を費やすのではないでしょうか。
葬祭費用が非常に高額になるのも、死者を弔うためのコストが非常に高額だからです。
いわゆる霊感商法というものも、死者への恐れを煽って高額な商品を買わせようとする。怖いですよ、これがあれば安心ですよっていうわけです。
そのために支払う費用のために、人々はどれほど働かなければいけないでしょうか。 これはまさに奴隷のような状態ということはできないでしょうか。
聖書の真理は、他にも沢山の迷信や死者への恐れや間違った宗教の教えから、人々を自由にしているということができます。
今日では多くの人がアルコールやタバコやドラックの奴隷になっています。
そのような人を真理はどうやって自由にしていますか?
マイケル・ケンザルさんは子供の頃から非常に暴力的で乱暴でした。11歳の頃には、お酒ですとかドラックに手を出して、 ますます乱暴になって、路上で喧嘩ばかりしていたそうです。マイケルはアメリカの海兵隊に入隊し、軍事訓練を受け、ますます暴力的になります。軍を辞めた後、すっかり世の中に失望して投げやりになってしまい、アルコールやドラックに溺れ、お金やセックスや暴力にまみれた生活をするようになったと振り返っています。
そんなマイケルもある時、聖書の真理に触れる機会がありました。そして、真理を1番大切なものと見るようになっていきます。彼の生活はどのような影響を受けたでしょうか。マイケルはこう言っています。
「聖書のおかげで、私のせいか性格は変わりました。前は気に入らない人は暴力で黙らせていました。でも今はどんな人とも平和な関係でいるようにしています。変われたのは、私の努力というより神の言葉と聖なる力のおかげです。もう人生に失望してはいません。本当に幸せです。 聖書の教えのおかげで、不道徳や暴力から自由になり、愛でいっぱいの穏やかな毎日を送っています」。
いくつかの例を考えてきましたけれども、確かに真理は、今の生活しにくい世の中にあって、私たちの生活を良い方向へと向かわせる影響力を持っています。
真理に沿って生活すると、私たちの将来はどうなるんでしょうか?
「しかし,今や皆さんは罪から自由にされて神の奴隷になったので,
神聖な生き方という実を生み出しています。
行き着く先は永遠の命です。
罪の代償は死ですが,神が与える贈り物は,
私たちの主であるキリスト・イエスによる永遠の命なのです」。
(ローマ6:22,23)
真理に沿って生活すれば、私たちは将来永遠に生きる見込みを持てるということになります。
日用品くらいでしたら偽物でも本物でも大きな問題は生じないかもしれません。ブランド品ですと法律的にちょっと問題が生じるかもしれん。 しかし、宗教上の真理はフェイクとは全く違った結果をもたらします!
宗教上のフェイクというものは、私たちを奴隷状態に引き留めておきます。そして、それは最終的に死をもたらします。
でも真理を受け入れる人たちの将来はどのようなものですか?
平和で正しいことに満ちたパラダイスで生活することができます。
皆さんは、このような場所に自分もいたいと思いますか?
では、そのために私たちは具体的に今何をする必要があるでしょうか?
まず自分の意思で真理を選ばなければなりません。そして、その真理を心から受け入れて、真理に沿った生き方をする必要があります。
「しかし皆さんは,キリストはそのような方ではないと学びました。
確かにキリストの言葉を聞き,その教えを受けたのではないでしょうか。
イエスが教えた真理を学んだはずです。
皆さんは,古い人格を脱ぎ捨てるようにと教えられました。
その人格は,以前の生き方に基づくもので,
悪い欲望に引きずられて腐敗していきます。
考え方を新しくする努力を続けましょう。
そして,新しい人格を身に着けましょう。
その人格は神の意志に沿って形作られるものであり,
本当の正しさと忠実さに基づいています」。
(エフェソス4:20-23)
まるで衣服を脱いだり着たりするかのように、古い人格を脱ぎ捨てて、真理に沿った新しい人格を身につけてくださいと勧められています。
そのために考え方を新しくする努力を続けましょうと書かれています。
どうして努力を続けなければならないのでしょうか?
私たちがどうしても真理とは反対方向に流されていく傾向を持ってるからです。
神様もそのことをよくご存じで、私たちに無理な要求はされません。完璧を期待さしたりはしないわけです。
とはいえ、私たちは常に聖書の真理から影響を受けるように努力して、真理に沿った人格を身につけて、真理に沿った生活をするように心掛けていかなければいけません。
イエスは真理を第一にして、真理の側に固く自分の立場を定めて、1歩も譲ろうとしなかったので処刑されてしまいました。私たちもその点でイエスに見習うことができます。
真理のために私は世に来ましたと言った後でイエスはこう言いました。
「真理に従う人は皆,私の声を聞きます」(ヨハネ18:17)
私たちは真理に従う者として、注意深くイエスの言葉、つまりイエスが命じた事柄に従っていきたいと思います。
私たちがもしそうしていくならば、エホバ神は私たちを真理の側にいる者と見てくださることでしょう。 そして将来パラダイスとなる地で、私たちは永遠に生きることができることでしょう。
では、これからも 聖書の真理が私たちの生活に影響を及ぼしていくように、努力を続けていくことにいたしましょう。
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