聞いて学んだことを実行しましょう

一般に聞くというのは話すより難しいと言われています。

話すは技術、聞くは器という言葉があるそうです。

話すことは訓練次第で上達できますので、技術ということができます。

一方聞くことは、技術というよりその人の器つまり人間性が問われる部分で、話の聞き方1つでその人が判断されてしまうことさえあります。聞く姿勢がその人の器そのものを表しているということです。

人の話を全然聞いてないと言ったり言われたりすることありますね。耳の聞こえには問題がないんです。何か違うことを考えてしまっている。

イエスもこのことを問題視しておられて、聖書の中で「耳のある人は聞きなさい」という言葉が全部で8回も出てきます。どんな意味が込められている言葉だと思われますか?

逆の言葉の意味を少し考えてみるとわかります。聞く耳を持たないという言葉があります。

もちろん聞こえないわけではありません。聞いた言葉の意味が理解できないわけでもありません。でも意見とかアドバイスを聞き入れて参考にしようとする姿勢がないという意味で聞く耳を持たないと言われます。

それの反対で、イエスは自分の考えに影響を与えるような姿勢で、注意深く聞くことが大切だということを教えていたわけです。

ところが今、聖書のメッセージ聞いたことがある方は多いかもしれませんが、それに真剣に注意を払う人は限られていますね。世の中の色々な情報が溢れているために、この聖書のメッセージの価値が分かりにくくなっています。

聞いたのにそこから何の影響も受けないのであれば、それは聞いていないのと同じです。

神の言葉を注意深く聞くということはとても大切です。

さらにその次にあることはもっと大切です。

「信仰は聞いた事柄から生じます。キリストについての言葉を聞いて信仰を持つのです」。(ローマ10:17)

聖書が書かれた当時、読んで学ぶための個人用の本を持っていませんでした。基本的に教えは語られて、みんなはそれを聞くという形で学んでいました。

ですから注意深く聞くことが大切でした。聞いたことからそれに信仰を持つようになるからです。

今は聞くだけではなく、色々読むもの見るものがあります。でも集会では聞いて学ぶのが基本になっていますね。

神様とイエスについて読むにしろ聞くにしろ、そういうことかと理解してそれで終わりではありません。

学んでどうなりたいと思っているのでしょうか?

単に教養を身につけたいわけではありませんね。詳しくなって聖書博士みたいになることを目指しているわけでもありません。

どんな時でも聖書の教えに沿って考える人になりたいのではないでしょうか。それを目指して私たち聖書を学んでいます。

聖書の教えに沿って物を考える人は、その考えに基づき行動することもできます。知識を蓄えるだけで満足するのではなく、学んだことを実行しなければなりません。

「しかし,自由をもたらす完全な律法をじっくり見て守る人は,聞いてすぐに忘れるのではなく,行動します。そのような人は幸せになります」。(ヤコブ1:25)

聞いて行動することが大切だと教えています。行動は何をもたらしますか?「幸せになります」とあります。幸せになりたいですね。

しかし、今の自分を改めなければならないことに気づいた時、行動はこれ簡単なものではありません。

今の自分を変えられたらどんなにかいいだろうけど、長年の染み付いた習慣から簡単に抜け出すことができない人は少なくありません。思い切った行動を取るというのは、とても力のいることです。

でも神様は助けてくださいます。

それを経験して本当に幸せになっている人がたくさんいます。

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世の精神の影響から身を守る

1995年3月20日朝の通勤時間帯の地下鉄の込み合った車内で、少しシンナーのような匂いがしたそうです。
この危険な毒ガスはあっという間に車内全体に広がり、駅構内にも広がっていきました。
化学兵器テロによって14人の方が亡くなり、6000人以上の人々が被害に遭い、30年以上経った今でもその多くの方々は後遺症に悩まされているそうです。
しかし現在、もっと危険なガスが世界中を漂っています。
そのガスの正体について、聖書はこのように明らかにしています。

「私たちは,世の精神ではなく神の聖なる力を持つようになりました。そのおかげで,神が親切に与えてくださった事柄を知ることができます」。(コリント第一2:12)

聖書の中では「世の精神」といったものが存在することがはっきり示されています。
「精神」という言葉は、ギリシャ語のプネウマから来ています。色々な意味をこの言葉を持っていますが、人間の目に見えない何らかの力が働いていることを示すものを指して用いられています。
人の心から生じたり、何らかの言動へと駆り立てる力の表れと説明されています。

目に見えないそういった力は、どの精神として漂っているでしょうか?
私たちの周りでは、自分勝手で自己主張の強い人が増えてきていました。自分ファーストという言葉が当たり前のようになったのではないでしょうか。
暴力的な人々も増えています。聖書が世の精神と呼んでいる見えない強い影響力を受けている見える証拠と言えるでしょう。
この目に見えない世の精神はどこから来ているのでしょうか?
聖書はその点も明らかにしています。

「皆さんは以前,今の世の体制に従って歩んでいました。人々に影響を及ぼしている空気の支配者に従って歩んでいたのです。その空気つまり精神は,不従順な人たちに行き渡っています」。(エフェソス2:2)

人々に影響を及ぼしている空気に「支配者」がいると述べています。
聖書は、この支配者が悪魔サタンであると明らかにしています。
サタン自身が自分勝手で自己主張が強くエホバに指示に従いたくない、誰にも指示されたくないという考えから、エホバに反逆して自分のしたいことをしてきました。
その精神が空気のように人々に影響を確かに与えているので、それが不従順な人々に行き渡っていると述べられていました。
多くの人々が反抗的な精神を示したり、神のことを考えずに行動しているということを考えてみると、確かにサタンの影響というものが色濃く表れていると言えるでしょう。

そうした点を考えてみるといかがですか?
世の精神の影響から身を守るべきだと強く願うのではないでしょうか。
それで今日は2つの点について、聖書からのアドバイスを考えていきたいと思います。
世の精神の影響から身を守る必要があるのはなぜか?
世の精神の影響からどのように身を守ることができるのか?という2つです。
このことを今考えるのはとても大切ではないでしょうか。毒ガス事件と同様に、私たちの命が懸っているからです。

なぜ身を守る必要があるのでしょうか?
この世の精神は、誰にも指図されず自分中心的な生き方を勧めています。
一見それは格好良いまた自分らしい幸せになるといった印象を与えるのではないでしょうか。
しかし人類の歩みを考えてみると、こうしたサタンの世の影響を受けてどういった結果になったでしょうか?

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温かい家庭を築くために

聖書によると「終わりの時代」に人々は「自然な愛情を持たず」とあります。(テモテ第二3:3)「自然な愛情」という言葉の元のギリシャ語アストルゴスは、家族の間にあるはずの愛が欠けていることを示唆します。

今はまさにその言葉の意味通り、多くの家族がバラバラになってしまっています。家族問題を扱うカウンセラーはこう述べています。「父親と母親と子どもたちのつながりはすっかり失われてしまった。その代わり、それぞれがパソコンやスマートフォンやゲームとつながるようになっている。こうした家族は、同じ屋根の下で暮らしてはいても、お互いのことをほとんど知らない」。

もっとひどい状況も見られます。英国の家庭内暴力被害者支援団体で働いてる女性はこう述べています。「ある女性が入ってきたのですが、ひどく殴打されて変わり果てた姿になっていたため、以前に会った人とは思えませんでした。他の女性たちの中には、心に深い傷を負ったために、うつむいたまま顔を上げようとしない人もいます」。

アフリカのある国で行われた調査によると、女性のほぼ3分の1が子どもの頃に性的虐待を受けたことがあって、男性の3分の1が自分の妻なら殴っても構わないと考えているということです。

聖書は、これほどまでに家庭内で無関心とか暴力で傷つけたり「自然の情愛」を持たないこの時代のことを終わりの時代と呼んでいます。

人は誰しも幸せになりたいと思ってるはずです。温かい家庭を築くことは本当に可能なのでしょうか?

「私エホバは,あなたの神である。あなたのためになる生き方を教え,あなたを導いて正しい道を歩ませる」。(イザヤ48:17)

神エホバは家族の幸せを願っておられて、そのためのアドバイスを与えてくださるので大丈夫だということになります。

そもそも多くの家庭でその愛が冷めてしまっている原因は何なのでしょうか?

多くの人は、自分のやりたいようにすれば自分さえよければ幸せになれると考えています。自分のことしか考えていないことが問題の原因です。

家族のそれぞれの成員で家の土台を作ったとします。それぞれが好きな素材、形、大きさでそれを敷き詰めたところに家を建てていったとします。きっと災害に耐えられないでしょう。

実際の家の基礎に使われる砂利の大きさは大体3センチ前後とされています。1番それが強度が出る大きさとされています。大きい石で基礎を作れば頑丈そうに見えますが、実はそうではないのです。

幸せの土台を築くにはバラバラであってはうまく成り立たないということです。

では、その一致の土台となる素材はなんでしょうか?

「これら全てに加えて,愛を身に着けましょう。愛は完全な絆なのです」。(コロサイ3:16)

この「絆」を意味する言葉は、人の体の「靱帯」を指すことがある言葉です。

靱帯はロープのように強くて、2つの重要な機能を果たすと言われています。臓器をある位置べきに保つことと骨と骨をしっかりくっ付ける役割があります。

愛もそれとよく似ています。家族を結び合わせて、あるべき位置に保つ役割があるということです。

その愛というものはどういうものなのかを聖書は説明しています。

「愛は辛抱強く,親切です。愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず, 下品な振る舞いをせず,自分のことばかり考えず,いら立ちません。愛は傷つけられても根に持ちません。愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,全てのことを希望し,全てのことを忍耐します」。(コリント第一13:4-7)

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平和な生活ー今、また永久に!

私たちは平和な生活を今、そして永久に楽しむことができるでしょうか?
確かにそれはできます。そのためにはいくつかの条件があるでしょう。その条件とは何でしょうか?
その点を今日の話の中で学ぶことができるでしょう。

今世界を見ますと、本当に喜びのない生活をしているという人、またそうせざるを得ない人が多くなっていると言えるのではないでしょうか。
耐えがたい状況や不安や恐れのために喜びのない生活をしている人が多くなってるようです。
例えば戦争とか政情不安で荒廃してしまうところに住んでいると、喜びのない生活になってしまうのではないでしょうか。
また発展途上国などでは経済問題がまずあります。失業食糧不足といった心配もあるのではないでしょうか。

逆に豊かな国ですと犯罪とか薬物問題、暴力そして失業の問題もやっぱりあります。ホームレスも増えているようですね。
日本などでも本当に凶悪な犯罪が増えていて、闇バイトなどの問題が社会問題となっているのではないでしょうか。
去年の12月の上旬に北九州で塾帰りの中学生が殺傷されるという事件があり、今年の1月、長野駅で通り魔による殺傷事件がありました。凶悪な問題です。
またテロなんかが起きる場合、また起きるんじゃないかということで緊張した状況になってしまい、喜びのない生活になってしまう原因になります。
理不尽な事件というのもあります。
例えばアメリカのオレゴン州などで、朝日を見ながら気分よく散歩していた2人が
1人の男性に殺害されるという事件がありました。
加害者の言い分では、ただ人を殺してみたかった、そういうことをすると自分がどういう自分になるか知りたかったという理由だそうです。
環境の汚染もあります。それから感染症ですね。
私たちも経験したのではないでしょうか。今も収束していません。
2020年2月に始まった新型コロナウイルス感染症は、5年間で約7億人感染し、
700万人以上の方が亡くなったと言われています。
そういう問題どんどん出てきますので、病名がわかっていない非常に難しい病気で苦しんでいる人も多いのではないでしょうか。

何でこんなに問題が多いのでしょうか?
この地から平和と安全が取り去られている理由はなぜなのでしょうか?

「すると,別の,火のような色の馬が現れた。それに乗っている者は,地上から平和を取り去って,人々に無残な殺し合いをさせることを許された…
見ていると,黒い馬が現れた。それに乗っている者は,はかりを持っていた。
そして私は,4つの生き物の真ん中から出たような声がこう言うのを聞いた。「小麦1リットルは1デナリ,大麦3リットルは1デナリ。オリーブ油とぶどう酒を無駄に使ってはならない」。
…見ていると,青白い馬が現れた。それに乗っている者は「死」という名を持ち,墓がすぐ後に従っていた」。(啓示の書6:4-8)

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教育の益をエホバを賛美するために用いなさい

日本国民の三大義務が何か答えられますか?

これは小学校6年生や中学生の時に学ぶことのようです。

勤労の義務、納税の義務そして教育の義務です。

この教育の義務というのは厳密に言うと、親が子供に教育を受けさせる義務を負っているということです。

つまり私たち全ては教育を受ける権利が保障されているのです。これは素晴らしいことではないでしょうか。

どうして日本では教育が重視されているのでしょうか?

それは教育を通して人は多くのことを学び、成長することができるからです。言語能力を身につけたり、仕事のスキルを身につけたり、人と接する機会を通して学んでいくことができます。

そうして得たものは、その後の人生を豊かにするのに役立っていくのです。

エホバの証人は教育をどう見なしているでしょうか?

私たちはいつも聖書から学びたいと思っています。聖書は教育をどう見なしていると思いますか?

結論から言うと、聖書も教育を重要なものとみなしています。教育によってもたらされる益と聖書が教えていることは多くの点で一致しているからです。

例えば聖書は、人に愛や敬意を示し親切にするようにと教えていますが、これは教育によって身につけることができます。

また勤勉に働き家族を養うようにと教えていますが、そのために必要なスキルも教育を通して得ることができます。

エホバの証人も教育を大切なものと見なしています。

でも教育によって何を目指すかという点では、多くの人と真のクリスチャンは異なる見方をしています。

多くの人は教育の先に、良い仕事や収入、立場や名声を求めます。ではクリスチャンは教育の先に何を目指すでしょうか?

「全てを聞いた今,結論はこうだ。真の神を畏れ,その方のおきてを守りなさい。人の務めはそれに尽きる」。(伝道の書12:13)

「人の務めはそれに尽きる」と書いてあります。これは「それが人生の目的です」という意味です。

何が目的ですか?真の神を畏れ,その方のおきてを守ることです。

エホバを自分の創造者として認めて神の導きに従い、神を賛美することが最良の人生だとこの聖句は教えています。

この言葉を述べたソロモン王は、高い収入立場名声を得ていました。でもそういうものではなく、神との関係を追い求めてくださいと勧めているのです。

それで私たちも教育の益をエホバに従い賛美するために用いていくわけです。

そうするには、聖書が教育について教えていることをよく理解している必要があります。それでこの講演では、教育というテーマで3つの要点を取り上げます。

教育をどこで、いつ始めますか?教育を通して何を身につけるべきでしょうか?私たちが受けることのできる最高の教育とはなんですか?

1つ目と2つ目は親の立場や若い人に向けられた点です。3つ目はクリスチャン全てが学ぶことができます。

教育はどこで、いつ始めるべきでしょうか?

教育のスタート地点はどこだと思いますか?日本では小学校から義務教育が始まるので、そこだと考えますか。幼稚園お受験という言葉もあるのでもう少し早くスタート地点があるでしょうか。

この答えを得るには、まず教育という言葉の意味を理解することが大切です。

ワールドブック百科事典の中では教育が「人々が知識技能習慣価値観心構えなどを習得する過程」と定義されています。

知識や技能に注目すると、その多くは学校生活を通して得ることができるものです。

後半の習慣や価値観や心構えはどうでしょうか?その人を形成する魅力的な要素です。

これは家庭で親から学ぶべきものと言えないでしょうか。

聖書は教育をどこでいつ始めるかに関して、とても模範となる例を載せています。

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神エホバを信頼するという生き方

信頼とはどういう意味でしょうか。

字の如く、信じて頼るということを表しています。

今、世界の人々は一体何に頼っているでしょうか?

多くの人は、自分の力とか知恵に頼っているのではないでしょうか。

政治家などは、エホバ神とエホバが王としているイエス・キリストに逆らった行動をとっていると言えます。

クリスチャンと唱える宗教指導者たちも、神の王国政府ではなく政治家たちを信頼しています。

「自慢する者たち,エルサレムでこの民を治める者たち,エホバの言葉を聞け。あなたたちはこう言う。『われわれは死と契約を結び,墓と協定を交わした。激流が通り過ぎる時も,われわれの所までは来ない。われわれはうそを避難所とし,偽りの中に身を隠したのだ」。(イザヤ28:14,15)

ユダの指導者たちは、政治上の同盟があるので自分たちが負けることはないと自負します。死と契約を結んだので、死も自分たちには手出しはしないと考えています。

しかし、実質の伴わないこの避難所は守ってはくれません。彼らの同盟は嘘であって偽りだからです。

今日ではどうでしょうか?

清算のためのエホバの時が到来する時、キリスト教世界が持つ世の指導者たちとの密室な関係は保護とはならないということです。

実際のところそうした関係は、このキリスト教世界を破局に至らせるものとなるのです。

政治家たちが手を組んでも、エホバが怒りを表すときに太刀打ちすることはできないのです。

人々が自分の力とか知恵に頼っているために、世界中で犯罪が増えています。

日本でも凶悪な犯罪が増えているのではないでしょうか。平和が見られない状態です。

あなたが信頼してるものは一体何ですか?

今の世界では分裂が深まっています。しかしエホバに仕える人たちの間では、次のような状態が見られます。5つの点を今日考えてみたいと思います。

1.同じ思いで本当の神エホバを崇拝している

詩編133編1節では「兄弟たちが一致して共に住むのは,何と素晴らしいことだろう」と述べられています。

世界中のエホバの証人が本当に一致してエホバを崇拝しているのを見ることができています。

王国会館やビデオ会議システムで多くの方が集まって一致してエホバを崇拝しているのは素晴らしいことではないでしょうか。エホバを信頼しているからです。

2.神の王国がこの地球を治める時に平和が実現するという良い知らせを熱心に伝えている

マタイ24章14節は「王国の良い知らせは,全ての国の人々が聞けるように世界中で伝えられます。それから終わりが来ます」と述べています。

神の王国がを治める時に平和な実現するという良い知らせを今日も熱心に伝えた方もいらっしゃると思います。

3.神に倣おうと努力しており喜びを抱いている

神の教えをたくさん学んで、その教えに本当に従っていこうという事をいつも思いに留めてると思います。実際にそうすることによって、喜びも得ることができています。

「その教えは幸福な神の素晴らしい良い知らせと一致しており,私はその良い知らせを託されました」。(テモテ第一1:11)

4.何をしどんな決定をするときも聖書に示されている神の考えに沿うように注意している

「心を尽くしてエホバに頼れ。自分の考えに頼ってはならない。どんな道を行く時にも神のことを考えよ。そうすれば神が真っすぐに進ませてくださる」。(格言の書3:5,6)

心を尽くしていつもエホバに依り頼んで、自分の考えではなくいつも聖書の指針に照らし合わせて、どんな道を行くときもその指針に沿って行動します。

5.偏見を持たずに全ての人に良いことを行っている

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「温かな憐れみ」の模範

聖書ではエホバ神のことが様々な称号や呼び名で表現されています。

これはエホバがどんな方なのか、私たちがイメージしやすいように用いられている表現と言えるでしょう。

例えば、創造者と呼ばれています。全てのものを造った方とすぐにイメージできますね。

至高者という表現もあります。他に並ぶ者がいない、1番地位が高い方だということが分かります。

愛ある牧者とか教師と呼ばれている部分もあります。こういう表現を聞くと人間のことを遠くに見るあまり関心がない神ではなく、教えようとしたりお世話しようとしてくださっているもっと身近な方だとイメージしやすくなります。

今日の講演のテーマの温かな憐れみというのも、神に対して用いられることがある表現の1つです。

温かな憐れみの父と呼ばれています。愛情深い感じのイメージを受けます。

この憐れみというものをよく考えてじっくり調べてみると、エホバに対するイメージがもっとはっきりしたものになってきます。どんな魅力的な特質なのかを感じ取れるものになります。

それでまず、憐れみとは何なのか?憐れみの父と呼ばれるのにエホバがふさわしいと言えるのはどうしてなのか?それが私たちとどう関係があるのか?

こういう観点で一緒に考えていけたらと思います。

一般の辞書で憐れみという文字を調べてみますと、人の苦しみや悲しみに深く同情することと表現されていました。

難しい状況辛い状況にいる人に対して抱く同情心が憐れみだと説明されています。

聖書が言う憐れみは、この同情心だけのことではありません。一緒に聖書の表現から確認してみましょう。

詩編103編の表題と2節を見ると、ダビデは「エホバを賛美」したい思いになって詩を歌ったことがわかります。「神が行ったこと全てを決して忘れない」と言っていますので、神からしてもらったことへの感謝を持っていたので賛美したいという思いになっていることがわかります。

ではどんなことを感謝していたのでしょうか?

「神はあなたの全ての過ちを許し,あなたの全ての病気を癒やす。墓穴からあなたの命を取り戻し,揺るぎない愛と憐れみを示してあなたを尊ぶ」。(詩編103:3,4)

過ちを許してもらったり、病気を癒してもらったり、命が危うくなるような状況から救われるといった経験をダビデはしました。

そのことへの感謝の思いから、賛美したいという思いになっていったわけです。

注目したいのはダビデがエホバからの「揺るぎない愛と憐れみ」だと感じた点です。

このことからどんなことがわかるでしょうか?

憐れみというのは、ただ同情心として内側に感じているものだけではなくて、許しとか癒すといった相手のためになる行動によって表れるものだということです。

何とかしてあげたいという気持ちと助けるための行動が両方合わさった時に憐れみになるというイメージでしょうか。

この憐れみというのがエホバ神にとってどういうものなのか、主題の聖句も一緒に読んでみましょう。

「私たちの主イエス・キリストの父である神が賛美されますように。神は,温かな憐れみの父,あらゆる慰めの神であり」(コリント第二1:3)

ここでも書いたパウロは、神への賛美の思いがこの憐れみからもたらされているということを表明しています。

「温かな憐れみの父」となっています。

今でも、その分野の第一人者とか大きく発展することに寄与した人、それを初めて行った人のことを何々の「父」と呼ぶことがあります。

憐れみというものも、エホバがその第一人者、それを始めた方と言えるでしょう。元々エホバ神が持っている特質の1つだからです。

(さらに…)

若い時をどう生きるか 後悔しない人生を送るために

若いって本当にいいと思われませんか?

いろんなことにトライしようという意欲があります。

エネルギーに満ち溢れています。楽しいことがたくさんあります。 

それで私たちは、若い皆さんが後悔しない人生を送ることができるよう心から願っていますし心から応援したいと思っています。

そして誰よりも若い皆さんのことを応援している方がいらっしゃいます。

お父さんエホバは、若い人がいつまでも幸せに生活してほしいと心から願っておられて聖書で次のように述べています。

「若い人たち,若いうちに喜びなさい。若い間にあなたの心が喜びで満ちていてほしい。心が促す道を進み,目が導く場所に行きなさい。しかし,全てのことに関して,真の神があなたに責任を問うことを覚えておきなさい」。(伝道の書11:9)

お父さんエホバは、若い皆さんが喜びに満ち溢れて幸せな気持ちで生活してほしいと願っておられることがわかります。 

このエホバからの温かいメッセージを、このように言い換えることもできるかもしれません。 

「若い時は私からの贈り物です。若い時を精一杯楽しんでください。数年も経てば今の若さはなくなってしまうので、若い時をどう生きるかよく考えてくださいね。そして将来の土台を築くため、後悔しない人生を送るために、若い時を大切に過ごしてくださいね。私はあなたが大切な時を賢く生きるかあなたの決定をいつも空から見守っています。期待していますよ」。

若い時は人生の中でも特に楽しい時です。

でもエホバは若い人がどう生きるかにとても関心を持っておられます。

そしてもうすでに賢く行動しておられる若い皆さんの力になりたいと思っておられます。

では、賢く行動するために何ができるでしょうか?

「エホバに仕えるのは最高の喜び。神はあなたの心の願いをかなえてくださる」。(詩編37:4)

エホバに仕えることが最高の生き方であるということを教えてくれています。そのようにして賢い生き方を選ぶことができることがわかります。

エホバに仕えることにはエキサイティングな奉仕が沢山あるということです。

大事なのは、エホバが善い神であることを味わい知ることです。

でも努力して1度挑戦してみないと、エホバへの奉仕がどのようなものか本当に知ることができないと思われませんか。挑戦して初めて、エホバに仕えるとはこういうことなんだとわかるということです。 

それでこれから先幸せに暮らせるかどうかは、今どうするかにかかっています。「人は自分がまいているものを必ず刈り取ることになります」。(ガラテア6:7)

若い時をどう生きるかが、後悔しない人生を送る鍵であるということです。

後先考えずに行動してしまって、後で痛い思いをする人もいます。

賢く行動するには人間を作った方、お父さんエホバのアドバイスに従うことが1番良いと言えます。

それで「若いうちにあなたの偉大な創造者を覚え(意識し)なさい」というアドバイスに従うことは本当に大切です。 (伝道の書12:1)

神の言葉聖書の言う通りにすれば、必ず良い結果になるからです。

ではご一緒に①友達付き合い②性関係③何を目指して生きるかという点に絞ってどのようにエホバのアドバイス通りにすることができるか考えていきましょう。

①どんな友達を選ぶか

これが後悔しない人生を送るための鍵であると言えるのはなぜでしょうか?

エホバのアドバイスを見てみましょう。 

「賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う」。(格言の書13:20)

友達から受ける影響がとても大きいことがわかります。 

(さらに…)

世界に公正が行き渡る日が来るか

不公正な扱いを受けたことがありますか。

それは昔でしょうか?今現在もそういったひどい扱いに苦しんでいるでしょうか?

不公正は今この世界に深く浸透している問題の1つです。

けれどもこれは今に始まったことではありません。

ベストセラーである聖書にはこのように述べられています。

「さらに私はこの地上で行われている虐げの行為全てに注意を向けた。私は虐げられている人たちの涙を見た。彼らには慰めてくれる人がいなかった。彼らを虐げる人たちには力があり,彼らには慰めてくれる人がいなかった」。(伝道の書4:1)

この書は、今から3000年以上前にソロモン王によって書かれました。

虐げられて涙を流す人たちの悲しむ声が聞こえ、誰も慰める人がいない。

こんな辛いことがあっていいんでしょうか。

名声も知恵も財産もあって、何もかも思いのままにできるであろうその方でさえ、当時の人々の間に蔓延る悲惨な状況を正すことはできませんでした。

現在でも不公正な社会を、人間がどんなに頑張っても正すことはできていません。

今の世の中を明確に表している聖句と言えるでしょう。

人間が創造されて以来、不公正な扱いや虐待とか偏見とか自由の抑圧が広く見られています。

不公正な扱いに苦しんでいる全ての人は、いち早く救われることを心から願っているに違いありません。

不公正な扱いを受け自由が押さえつけられると人はどうするでしょうか?

何が正しくて何が間違っているかについての鋭い感覚を人間は持っていますから、腹立たしく感じて、不公正な扱いからの解放を求めて行動を起こします。

法に訴えることもあるかもしれません。

政治的な不公正や人種問題などの大きな問題の時はどうでしょうか?

社会体制の不満とか不公正を訴えてちょっとでもそうした状況が改善されることをを願ってデモ行進とか抗議活動を起こします。

しかし抗議活動は時に、激しさを増して暴動へ発展することも少なくありません。

そうした場面をニュースなどで近年よく見るのではないでしょうか。

人間の力では、曲がっているものをまっすぐにするのは到底不可能であることを表していると言えるでしょう。

どこにももう望みはないのでしょうか?

ずっとこのまま不公正な世の中で苦しみ続けなければいけないのでしょうか?

人間がどこに問題解決を求めるべきかについて聖書は次のようにも教えています。

「神は岩のような方で,行うことは完全,神の道は全て公正である。決して不公正ではなく,信頼できる神。正しく,真っすぐな方」。(申命記32:4)

唯一物事を公正に扱うことができる方がおられます。

神エホバこそ正しいことを行われる方です。

物事を公正に扱うエホバに誰も今のこの世の中は習おうとしていません。

その結果、不公正がまかり通るままになっていると言えるでしょう。

過去から今に至るまで人間がどんなに不公正をなくそうと努力しても実現できなかったのは、エホバに導きを求めなかった結果であると言えるでしょう。

公正な神に倣わず導きを求めようともしない人々に囲まれているのに、この先、世界に公正が行き渡ることがあるでしょうか。

良い動機で不公正をなくそうと抗議運動などを行っているにも関わらず何も変わっていないのに、公正な世界が実現することに望みを置いて良いだろうかとお感じになるでしょうか。

この疑問を解決するには、神がこれまでどんな仕方で公正を示してこられたのか、それに関連してどんな約束をしてくださっているのか考えることが大切です。

不公正を正すためにどんな準備をしてくださっているでしょうか?

不公正をエホバはどのように正してくださいますか?

(さらに…)

エホバに頼り 守ってもらう

今まで起きたことがなく2度と起きないような大患難が来ると言われています。
聖書によると、まず間違ったことを教える宗教が解体されてなくなっていきます。
最後はエホバに逆らう人たちが処罰されていなくなります。
本当にあったことがないようなものであると言えます。

でもその中間で、次々と宗教を解体していった諸国家の連合体が今度はエホバのために攻撃を仕掛けてくることも言われています。
ですからエホバの民にとっても、やはり今まで起きたことがなく、2度と起きないような難しい状況が来ることを知ることができます。
難しい状況が来るわけですから助けが必要であるということが言えます。
さらに言うと正しい所、本当に頼れる所に救いを求めなければなりません。
多くの人はその時人間の組織とか団体に守ってもらおうとするかもしれません。
私たちはどこに避難すべきでしょうか?

「神の憤りを前にしていったい誰が立っていられるか。燃える怒りにいったい誰が耐えられるか。神の憤りは火のように吐き出される。岩も神のゆえに砕かれる。エホバは善い方で,苦難の日のとりで。自分のもとに避難してくる人たちを心に留める(世話する)」。(ナホム1:6,7)

エホバに頼り、守ってもらうということです。
6節の表現からわかるように、どんな敵対勢力どんな難しい状況があったとしても、エホバはそれよりも強力な方であるということが言えます。
7節の最後に、エホバが確かに「心に留め」てくださることが示されています。
脚注を見てみますと、エホバが世話してくださるということです。
ですから難しい状況が来ることは避けられないですけれど、その中にあってエホバは、私たちが対処できるような力とか励まし、思いの平和を与えてくださることを希望することができます。

今からエホバに頼る考えとか思考のパターンを作っておく必要があります。
自分の考えがいつも正しいとか、大勢の考え方に倣う考え方ではなく、エホバの言葉に耳を傾けてそれに真剣に向き合うことが求められます。
どんな風にそれを行うことができるでしょうか?
3つ考えてみたいと思います。

1つは、道徳について神が教えていることを守ることによって、
神に頼っていることを示すことができます。

ある辞書では道徳が次のように示されています。
「人が善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り行わなければならない基本の総体」「外面的、物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい方向へと促す内面的原理として働く」と書かれています。
強制的、外面的に縛り付けようとするのではなく、その人の内からそうしたという気持ちから出てくるような規範であるということです。

例えば、私がここでごみを捨てたとします。
ポイ捨て条例というのがあるので、もし裁かれたら懲役とか罰金が待っているのでしません。
でもそれは法律というような考え方と言えます。
でも道徳というのは、そもそもゴミをそこらに捨てたら人間としてどうかねといった考え方であることがあります。
そのセンスみたいなものは人によって全然違っていて、駐車場で自分の食べかすをそのままに置いておいてどっかに行ってしまう人もいれば、
強風によって飛んでしまっても一生懸命に追いかける人もいます。
どちらも法律によってはこう拘束されませんけれども、そのセンスは全然違っています。
道徳というセンスみたいなものについて神が教えている事柄を重要視することによって神に頼ることができます。

(さらに…)

生きることを永遠に楽しむために

最近はスマホがカーナビの代わりになっていて配送業の人も自転車にこれをつけている人たちもいます。

いろんな方向に進みたい車とかバイクとか自転車とか、みんなとぶつからないように右折をしていくためには、かなり手前から車線変更をして、自分で判断し決定していかなければなりません。

交通社会の中においてさえ色んなタイプの車、色んな人たちがいます。

人間社会の中においても色んなタイプの人がいて、自分で判断しそれぞれ色んな生き方をしています。

そんな中にあって、本当に幸せに生きたい生きることをもっと楽しみたいと願うのは、元々人間に備わっている欲求ですから自然なことと言えます。

生きることを一時的にではなくて永遠に楽しむにはこういう生き方をする必要があると聖書は教えています。

「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る門は広くてその道は広々としており,それを通って入っていく人は多いからです。一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,それを見つける人は少ないのです」。(マタイ7:13,14)

皆さんだったらどちらの道に行きたいですか。

6車線もある広くて大きな道でしょうか?それとも車も走れないような狭い道でしょうか?

広くて大きな道は滅びに至るとあります。

見えてる目的地は何でも揃っている魅力的な街に見えるかもしれませんが、実はその手前が深い谷底になっていて命を失う道です。

聖書はこの道のことを今現在の世の中、体制を表していると教えています。

一方狭くて歩きづらそうな道は命に至る道と表現されています。

車では通れない、自分の足で歩んでいく道です。決して楽はできないかもしれませんが、行き着く先はパラダイス、楽園のような土地となっています。

皆さんはどちらがいいですか?あなたはどちらを選びましたか?

聖書の神様エホバは、生きることを永遠に楽しんでほしいと思っています。

神エホバが最初に思い描いていた通り、楽園になった地球でいつまでも幸せに暮らせる時がすぐそこまで来ています。

では、この命にる道を私たちが 歩むためにはどうすれば良いのでしょうか?

どうすれば良いかを神様は聖書の中で教えています。

命に至る道を歩んでいくには、生き方全体でそれを表していく必要があります。

そのためには、まず聖書をよく学んで信仰を育てていく必要があります。

聖書レッスンをして神様が求めていることを知るのは大切です。

でも、なんかハードルが高いなと感じることがあるでしょうか。自分には無理、人と違う生き方は厳しいと思うでしょうか。そう思うこと自体は自然なことと言えます。

周りの人たちと違った生き方をするには、聖書に書かれていることが本当に正しいと自分自身が本当に確信することが大切です。

聖書は神が書かせた本だと思えないならば、他の本にはない聖書の特徴についてじっくりと調べてみましょう。

これまでに何十年何百年と聖書の歴史や記録の正確さに意義を唱えた人がいますが、それについて誤りを実証できた人は1人もいません。

聖書は実在の人物と実際に起きた出来事を記録していることが実証されているからです。

今から30年ほど前の1993年より前には、ダビデが実在の人物だったことを示す記録は聖書以外にありませんでした。

1993年にイスラエル北部で考古学者が西暦前9世紀の石碑を発見し、「ダビデの家及びイスラエルの王」という言葉が記されていました。

このような事実は、聖書の歴史記録の正確さを実証するものとして、 聖書が信頼できる理由の1つと呼ぶことができます。

また実際に起きた出来事は、聖書の正確性や本当にそれが正しいという確証を与えるものとなります。

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神から役目を任されている人に敬意を払う

現在、何らかの権限を持っている人に協力しない態度が広く見られているのではないでしょうか。
例えば会社の上司に不平不満ばかりを言う人は多いですね。
学校の先生に不敬な態度を取る生徒も多くなっています。
自治体とか政府も、ある意味権限を持った人たちということができます。
その組織に対して所得をごまかして払うべき税金を免れたり、与えられている法律を守らない人は非常にたくさんいます。

逆に権限を持っている側にも問題が見られ、与えられている権限を乱用する人がいるせいで協力しにくくしているという側面もあります。
例えば、物価高騰などで国民の生活は苦しくなるのに、政治家が自分の立場や利権を優先しているようなニュースを見ると、政府は何もしていないと感じるかもしれません。
宇宙の最高権威者であるエホバはこの点で何と言っているでしょうか?

「わが子よ,エホバと王を畏れよ」。(格言24:21)

エホバより上位の立場を有するものは存在しません。
この方は存在するものの中で最高の権威を持っている神です。
最高権威者であるエホバを畏れるのは言うまでもありません。

王とは国や政府で最も高い権限を持つものです。
ですからここで言う王とは、私たちが協力すべき何らかの権限を与えられている人の象徴と考えることができます。
エホバは、そのような責任を任されている人に敬意を払うようにと聖句の中で命じています。
その命令に従うならば、エホバの要求にも従っていることになります。

人間の政府やそこから出される法律に対して、協力するのは難しいと感じるものもあるかもしれません。
そこから出される要請とか法律は完全なものではありませんので、何らかの欠陥があります。
それでも権限を与えられている人また組織に敬意を払う人が増えれば増えるほど、世の中は平和になると感じられるのではないでしょうか。
今日は、今すぐに従う精神を表せるいくつかの場面について考えてみたいと思います。

まずは家庭の中で責任を任されている人にどのように従うかということを考えてみたいと思います。
家庭の中には夫・妻・子供がいますが、それぞれにエホバは役目を与えています。
それは家族のみんなが幸せに暮らせるようにという考えに基づくものです。
夫・妻・子供それぞれが敬意を表すにあたってイエスの手本に学ぶことができます。

まず夫について考えてみましょう。
イエス・キリストはどのような性格をお持ちだったでしょうか?
気質が温和で心のへりくだった人と聖書の中に記録されています。(マタイ11:29)
加えて必要な時にはすぐに行動する人でもあり、決して自分の責任を投げ出したりはしませんでした。
イエスには12人の使徒たちがいましたけれども、その弟子たちも人間の弱さのために間違った行動をすることがありました。
それでもイエスは、叱りつけたり恥をかかせたりすることはしませんでした。
弟子たちを褒め励ましました。
愛と同情心を持って接しましたので、弟子たちは健全な自尊心を保つことができました。
イエスは教える立場ではありましたけれども、弟子たちに敬意を払っていました。
夫は自分の立場を行使するとき、特に妻に対して接する時に、イエスと同じような愛や同情心また敬意を払うことができます。

「夫の皆さん,知識に基づいて妻と暮らしてください。女性はより繊細な器ですから,妻を大切にしましょう」。(ペテロ第一3:7)

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神に喜ばれる揺るぎない愛

日本では徳島県に生息しているコウノトリには別名がヘブライ語であります。
ご存知ですか? 「揺るぎない愛」だそうです。
実際この鳥はこの名前にある通りの行動をします。
多くの鳥は毎年パートナーを変えて卵を産んで子育てをします。
でもこの鳥はパートナーを見つけたら、一生そのパートナーに寄り添って亡くなるまで一緒に過ごして子育てをします。
このようにパートナーに揺るぎない愛を示します。
また子どもに対しても揺るぎない愛を示します。
コウノトリはオスとメスが一緒に共同して子育てをします。
一緒に交互に卵を温めます。そして孵化したならば、オスが餌を採りに行っているる間、メスは巣に残って子供を守ります。
オスが帰ってきたらメスが餌を捕りに行きます。
でもある時メスの鳥がピストルで撃たれて死んでしまいました。
オスのコウノトリは、そのメスの分まで一生懸命働きました。
ずっと巣にいて餌が必要な時だけさっと飛び立って戻ってきて子供に与え、またずっと子供のそばにいる。
子供が大きくなるまでこのことを続けました。

では皆さんに質問です。コウノトリはしっかり自分の頭で考えて、この素晴らしい特質を配偶者や子どもたちに表していますか?
全く考えていません。本能的に行っています。
私たちはエホバから何を与えられていますか?知性です。
であるならコウノトリよりもしっかりとよく考えて、この素晴らしい揺るぎない愛を生活で表したいと思うのではないでしょうか。
では揺るぎない愛は、誰が表さないといけないのでしょうか?

「考え方を新しくする努力を続けましょう。そして,新しい人格を身に着けましょう。その人格は神の意志に沿って形作られるものであり,本当の正しさと忠実さ(揺るぎない思い)に基づいています」。(エフェソス4:23,24)

新しい人格を表し続けるためにはどうしないといけないでしょうか?
揺るぎない愛を示し続けなければならないのです。
そして全てのクリスチャンがどれだけベテランになろうと、新しい人格を身につけて磨く努力をしなければなりません。
新しい人格を身につけ続ける努力をするためには、忠実さも表し続けなければならないのです。
若い人も、もう何年も仕えている兄弟姉妹も、毎日の生活に表していかなければなりません。
でも特に今の時代になぜ、揺るぎない愛を示すのは難しいのでしょうか?
それは聖書の中に答えがはっきり記されていました。

「サタンはエホバに答えた。『誰でも自分の身が一番です。人は自分の命を守るために,自分が持つもの全てを差し出します。試しに,あなたの手を出して,彼の体に傷を負わせてください。彼はきっと面と向かってあなたを侮辱します』」。(ヨブ記2:4,5)

サタンはヨブの揺るぎない愛をテーマにエホバと天で話しています。
でもヨブの揺るぎない愛がだけがテーマだったでしょうか?
「誰でも自分の身が1番です」次に「人は」とあります。人は自分の命を守るために、自分が持つもの全てを差し出しますと述べています。
ですから、サタンは全ての人間の揺るぎない愛に挑戦を投げかけたのです。
つまりサタンは「人間は自分の都合であなたに仕えている。試練に遭ったら簡単にあなたから離れ去る。これが私の主張です」とエホバに述べたのです。

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聖書の格言 今も役立つ

友達から高価な絵をもらったとします。
とても古い絵で一部は色褪せ、染みやひび割れもあります。 それでも何億円もの価値がある傑作です。
心から感謝して、その絵を大切にすることでしょう。

エホバは私たちに命という貴重な贈り物を与えました。
お金に変えることは決してできない価値ある命を私たちは大切にしていきたいと思っています。
エホバも私たちの命を大切に思ってくれていて、愛の気持ちから私たちが生きていくのに必要なもの全てを与えてくださっています。
それだけではありません。私たちに充実した生活を送ってほしいと思っています。

「私はこう結論した。生涯の間,喜び,善を行う。人にとってこれ以上の幸せはない。 人は皆,食べ,飲み,一生懸命働いて充実感を得るとよい。それは神からの贈り物なのだ」。(伝道の書3:12,13)

充実した生活も神からの贈り物で、エホバは私たちがアドバイスを受け入れるならば、今の生活を楽しみさらに将来も永遠に生きることができるようにしてくださっています。

このような贈り物はどんな高価なものよりも貴重で、くださった方に感謝を示したいと思うのではないでしょうか。
では、どのようにこの感謝を表すことができるでしょうか?

友達からもらった高価な絵も、しまい込んでおくより部屋に飾って大切にしているならば、もらえて嬉しいということも友達への感謝も表せます。
送った友達も飾ってあるのを見ると嬉しく思うのではないでしょうか。
同じように、エホバのアドバイスを学んで実行しようと努力するなら、このアドバイスや命令という贈り物に感謝を示すことができます。

それで今日は神の言葉聖書から、充実した生活を送る上で記されている格言がどのように役立つのかを考えて、それを実行することによって感謝を示していけるようにしていきたいと思います。

聖書の中の格言の書には、エホバからのアドバイスが凝縮されています。
様々な分野における知恵が記されていますが、今日は特に幸せな生活に役立つ3つの分野に絞って考えたいと思います。
心と身の健康、お金や物に対する見方、対人関係という分野です。

<心身の健康>
今の時期ですと、お酒を飲む機会が少し増えてくるかもしれません。
聖書はお酒を飲むこと自体禁止しているわけではありません。
イエスもブドウ酒を楽しまれました。

「人はぶどう酒によってばかげたことをし,酒によって手に負えなくなる。これで道を踏み外す人は知恵がない」。(格言20:1)

この聖句は、お酒の飲み方に注意を払う必要があるという点に注目しています。
アルコールは知力に影響を及ぼします。
アメリカの国立薬物乱用対策研究所の出版物によりますと、 酒を飲むとアルコールが消化器官を通して血流中に吸収されすぐ脳に達し思考と感情を司る部分の働きが鈍くなるそうです。
アルコールを大量に摂取して馬鹿げた行動を取ったり,周りの人も手に負えない状態になったりするという人は少なくないようです。
また精神が錯乱し意識不明に陥ったりするだけでなく、健康に害を及ぼしたり,アルコール依存症というお酒の奴隷になってしまうかもしれません。
それで私たちはお酒を楽しむ際にも知恵を働かせ、節度を保って飲むようにしていきたいと思います。

「穏やかな心は体に良く,嫉妬は骨を腐らせる」。(格言14:30)

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