復活 死に対する勝利

誰でも長く生き続けたいと思っています。
不老不死の様々なものを見つけ出そうという努力が過去から行われていましたし、
現代では、老化のメカニズムを研究して、再生医療によってそういったものを元に戻そう、また新たに作り出そうという考えがなされています。

どれもこれも、私たちが直面する死というものが理不尽なものである、それを避けることができたら避けたいという切実な願いがあるからです。
なぜでしょうか?

それは私たちの命、私たちの親しい人や愛する人の命を奪い取るものだからです。
私たちの築いてきた関係を切り離すものということが言えます。
ですから聖書の中で、死は人類の敵と呼ばれています。

では、死という敵に私たちは打ち勝つ術はないのでしょうか?
全く希望がないのでしょうか?
聖書の中を見てみましょう。

「神は死を永久にのみ込む。
主権者である主エホバは全ての顔から涙を拭う」。
(イザヤ25:8)

聖書の神であるエホバは、私たちが直面する死を永久に取り除くと表現しています。

さらに、死から生じる「涙」全てを取り除くと約束しています。
しかし死を取り除くことによって、涙は取り除かれると思いますか。
亡くなった家族のことを思い出して涙を流すことがあるのではないでしょうか?
その事柄に関してさらに希望があることがわかります。

「私は墓から彼らを救い出す。
死から彼らを取り戻す」。
(ホセア13:14)

死がなくなるだけではなくて「取り戻す」、亡くなった人たちを生き返らせるとエホバは述べておられます。
つまり人が死ななくなるだけではなくて、死んだ人たちが復活することによって、死に直面する涙というものが取り除かれて、人類共通の敵である死から完全に私たちは
自由になり勝利するということを聖書は希望として謳っているということになります。

この希望は、本当に神の親切の表れではないでしょうか。
親しい人を亡くした人に気遣いがありますし、すでに亡くなった人に対しても希望を与えるものだからです。

この復活というものは具体的にどのように行われるのでしょうか?
どこで、誰が、そしてどのようにこの復活が成し遂げられていくのでしょうか?

どこに死んだ人たちは復活してくるのでしょうか?

一般的に、人は亡くなると天国に行くと言われています。
確かに聖書の中でも天に王国があることが明らかにされています。
聖書巻末の書である黙示録として知られる啓示の書の中にとりわけ詳しく記されています。

その中の20章というところを見ると、天に復活する人たちが確かにいるという希望について述べられています。
その中では、14万4000人という限られた数の人しか復活しないと述べられています。
今まで人類の歴史上亡くなった大勢の人たちの中から見れば、それは本当に少数の人と言えるのではないでしょうか。
この20章の中を見てみると、それはキリストともに王国を支配するためであるということが繰り返し繰り返し説明されています。
その人たちは目的があったために天に復活するということです。
キリストと共にこの地上を楽園とするために人類を導く、平和な世の中を築くために支配をするという目的のために、その人たちは敢えて天に行きます。

(さらに…)

聖書を導きとするのはなぜ

エホバが何かを導く能力には実に驚くべきものがあります。

人間が2月22日に小さな宇宙船オデュッセウスを月に送り込んで 大喜びしていたのに対し、天体そのものをエホバは導いておられます。しかも正確にそれを運航させておられます。

米国は1月に別の宇宙船を月に送り込みましたが、それは失敗してしまいました。しかし、エホバのガイドの方は全く狂うことなく、何十億年、何百億年と正確に天体を動かしています。

エホバはこの導きを物理法則によって可能にしています。

もう1つの例を見てみましょう。

人間はドローンをプログラミングして、数キロ離れたところに荷物を自動で飛んでいかせようとたくさんの実験を繰り返しています。

しかし、キョクアジサシという小鳥は毎年北極から南極まで行って帰ってきます。体重はわずか100グラムほどしかありませんが迷うことなくそれを行い、移動距離は往復で9万6000kmにもなる個体もあるそうです。

エホバはこの小鳥を事前に組み込まれた本能によって導いておられます。

エホバは私たち人間のことも導いてくださるのでしょうか?

「この神は永遠に私たちの神。ずっといつまでも私たちを導いてくださる」。

(詩編48:14)

「ずっといつまでも」という部分は、私たちが死ぬまでとも訳すことができるようです。エホバは私たちのことを生涯にわたってずっと導いてくださることを読み取ることができます。

何によって導いてくださるのでしょうか?

聖書によって導いてくださいます。

ただ、鳥とか星が自動でプログラムされてガイドされているのに対して、私たちは自由に考えて行動するものとして作られているところが違います。

導きは聖書の中にありますが私たちが自動的にガイドをされることはありません。私たちがこのガイドを意識して自分自身を導くものとして使っていかなければならないのです。

それを積極的に使っていくならば、私たちはエホバの望まれる方向へと確実にガイドされて行くに違いありません。

エホバが私たちに望んでいることとはどんなことでしょうか?

それは私たちが幸せに暮らし、いつまでも死ぬことがなく、パラダイスのような地上で生活することです。

皆さんは、自分自身のこともガイドしてもらいたいと思われるでしょうか?

聖書を毎日少しずつでも読んで、それをじっくり考えるようにするならば、私たちは生活は良い方向へと導かれていくに違いありません。

私たちの出版物や公式サイトなどを見ると、聖書を毎日読むことを容易にするためのアイデアや提案などがたくさん載せられていますので、活用していきたいと思います。

聖書がどんな4つの面で私たちを導くのかという点について少し考えていきたいと思います。

1.聖書は人間の行動に対する特別な導きである

人生は時々航海に例えられることがあります。広い大海原で何の導きもなく航海をするとどんな危険があると思われますか?

方角がわからなくなって彷徨ってしまったり、暗礁に乗り上げて座礁してしまうかもしれません。

私たちの生き方の中で聖書は、危ない場所が書かれた海図や、 方角を示してくれるコンパスのようなものに例えることができます。

「聖書全体は神の聖なる力の導きによって書かれたもので,

 教え,戒め,矯正し,正しいことに基づいて指導するのに役立ちます」。

(テモテ第二3:16)

教え,戒め,矯正しという言葉は、間違った方向に私たちが進まないようガイドしてくれることを示しています。

人工衛星を使ったGPSのようではないでしょうか。

(さらに…)

「目を覚まして」いる なぜ?どのように?

現在全ての人は、目覚めていることの大切さを意識しなければならない時代だと言えるでしょう。

私たちが生活しているこの時代は、聖書で終わりの時代と言われているからです。今の悪い世界がもうすぐ終わりを迎えるのです。

しかし一般の人々は、イエスがマタイ24章の中でノアの日の例を挙げて述べたように無関心な状況です。

また自分がそのような危険な状況にあるということを理解していません。 

それで聖書筆者の1人であるパウロは、私たちに対してこのようなアドバイスをしています。

「ですから私たちは,ほかの人のように眠っていてはなりません。

 目を覚ましていて,頭がさえた状態を保ちましょう」。(テサロニケ第一5:6)

この頭が冴えた状態というのは研ぎ澄まされた「鋭敏な感覚」で、今どんな時代かをいつも意識して目覚めた状態であって、エホバの考えやエホバの望まれることを第一にした生活を一生懸命行うということを奨めています。 

今の世がもうすぐ終わることを考えると、私たちの命がかかっているので本当にそれは重要なことと言えるでしょう。

しかし、皆さんもよく睡魔に襲われることがあるのではないでしょうか。

意識の中では眠ってはいけないと思っていてもだんだんと意識が遠のいて寝てしまう、意識がない無活動の状況に陥る恐れがあることを考えてみると、いつも目覚めていることは、本当に簡単なことではないと言えるでしょう。 

では、目を覚ましているのは簡単ではないのはなぜでしょうか?

聖書のヨハネ第一5章19節の中で、この全世界が「邪悪な者の支配下にあ」ると述べているからです。 

神に反逆した天使であるサタンは世にあるものを使って、エホバについて考えないように誘導してくるからです。(ヨハネ第一2:15-17)

そうやって、いわば人々を霊的な睡眠に誘う行動をとっているからです。

サタンはこの方法に何千年にもわたって様々な改良を加えてきました。そして念入りにどういった睡眠を人々は受け入れやすいのかということを考えてきました。 

ですからサタンの巧妙な策略に、私たちは本当に注意して身を守る必要があると言えるでしょう。

この点でイエスも、身を守る必要があるどんなライフスタイルがあるのかを警告していました。

「とはいえ,食べ過ぎや飲み過ぎや生活上の心配事で

 心が圧迫されないよう注意していなさい。

 そうでないと,その日が全く突然に訪れます。

 わなのようにです。その日は地上の全ての人に訪れます」。(ルカ21:34,35)

皆さんもどうでしょうか。この食べすぎや飲みすぎや生活上の心配事というものが、 本当に私たちの一般の生活の中に見られる事柄であるということを理解できるのではないでしょうか。 

例えば暮らしのために必要なもの、家庭の心配もあります。子供をどのように育てていくのかそういった心配もあります。自分の仕事がどうなるのかもわかりません。さらには健康上の心配というものもあります。 

日常生活の心配、これは本当に誰にでも心配になる事柄ではないでしょうか。 

また私たちの周りを見てみると、物質主義的な欲求を膨らませるような社会、それを欠かせないものと見せる環境もあります。 

例えば、経済的に成功を目指す手段として高等教育を一般の社会の中では推奨している状況を見るのではないでしょうか。

確かに、ある程度の教育というものは就職には役立ちます。しかし実際には高等教育を受けようとすると、多くの時間や費用を費やします。そうなると、そのことだけに目を向けることになってしまって、霊的な事柄に目を向ける時間は本当に少なくなってくるのではないでしょうか。

(さらに…)

聖書は信頼できる なぜそう言えますか

これまで何千年にもわたって、多くの人に親しまれ頼りにされてきた本があります。

それは聖書です。

皆さんもこの聖書を毎日読んで、書かれている意味を考え、生活に役立てておられるかもしれません。

しかしいつの時代にも、影響力のある様々な人たちが、聖書に対する疑念を抱かせようと躍起になっています。

例えば、批評家や進化論者や哲学者、また聖書を教えるはずの聖職者までが、聖書の信頼性を攻撃したり、聖書の教えに沿って変わる学説を作り出し、神を信じる必要などないと言っているのです。

またクリスチャンと称する多くの人々が、聖書で良いとされていることは行わず、むしろ悪いことを行って神を恥ずかしめてきたことによって、キリスト教の信者であろうとなかろうと、多くの場所で聖書は悪く言われてきました。

そういった人たちの言うように、聖書の内容は信頼できず、学んでも無駄なのでしょうか?

エホバの証人は、むしろ聖書は信頼できるものであって、神の聖なる力を受けて書かれ、確実に信頼の受ける本であるということを大胆に多くの人にこれまで知らせてまいりました。

エホバの証人というこの組織も、そこで教えられていることもしっかり聖書に根差したものです。

聖書は、1600年の間に40人ほどの人が記した比類のない本、私たちの生き方に深く影響を及ぼす、これまでで最上の書物です。

私たちの手本であるイエスは、地上で人間として生活していた際、次のように語ったことがあります。

イエスは答えた。

「『人は,パンだけではなく,エホバの口から出る全ての言葉によって

  生きなければならない』と書いてあります」。(マタイ4:4)

この記述は、空腹だったイエスが神から与えられている奇跡的な力を自分のために用いるようにという悪魔サタンの誘惑を退けた時の出来事です。

エホバから出る全ての言葉によって人は生きると述べ、サタンの言うことではなく、神の言葉を真理としてイエスは支持し、かつ誘惑を退けるためにこの聖書の言葉を引用されました。

私たちもいつでも聖書を用い、事あるごとにそこから学び、導きとすべきです。

聖書はエホバについて学ぶための大きな助け、エホバの喜ばれることを行うための唯一の導きです。

聖書は足元を照らすライト、遠くを見通すための街灯のような存在です。

ただの歴史の本などではなく、私たちの信仰の土台を築くための重要な手助けをする本であることに心から感謝することができます。

聖書が神の聖なる力を受けて書かれた本であるということについて、皆さんはどうお感じですか?

世界中でこれまでそうした本が出版されてきたでしょうか。

では、聖なる力を受けて書かれた本であるということを裏付ける証拠について、いくつか考えてみましょう。

聖書が信頼できる紛れもない証拠が、まずその内容や聖書を実際に記した筆者たちの態度などに表されています。

例えば、青年時代には羊を世話しその後王になったダビデのことを少し考えてみましょう。

王位に着いてから何年か経ったある夜、自宅の屋上からウリヤという兵士の妻であるバテ・シバが体を洗っているのを目にしました。

その女性を気に入り、自分の家に連れてきて、結婚していないにもかかわらず性的な関係を持ってしまいます。

その結果、バテ・シバは妊娠してしまいました。

ダビデは自分がしたことを隠そうとして、戦地の最前線に送り出して、ウリヤを戦死させるよう仕組みました。

そしてウリヤが死んだ後、バテ・シバと正式に結婚して、何事もなかったかのように振る舞ったのです。

そのように性的な不道徳に加え殺人まで犯すという、神から見て非常に悪いことを行いました。

(さらに…)

あなたは神のみ前でどのような立場を得ていますか

私たちは皆、神に対して言い開きを求められています。

親は子供の育て方に関して、神に言い開きが求められています。 

「若い人たち,若いうちに喜びなさい。…しかし,全てのことに関して,真の神があなたに責任を問うことを覚えておきなさい」と聖書にはあり、若い人たちも、自分の行動について言い開きが求められています。(伝道の書11:9)

ですから私たちは皆、時間、エネルギー、持つもの全ての用い方について、神のみ前で責任があるということです。 

神のみ前で良い立場を得てそれを保つために、どのようなことが必要なのでしょうか?

「心を尽くしてエホバに頼れ。

 自分の考えに頼ってはならない。

 どんな道を行く時にも神のことを考えよ。

 そうすれば神が真っすぐに進ませてくださる」。

 (格言の書3:5,6)

各人は神の是認を得てそれを失わないように努力する必要があります。エホバに依り頼むことを学ばなくてはなりません。

エホバの是認を得ることは永続的な益になります。 

私たちは、一般社会の基準とか習慣にも無頓着ではありません。しかし、それが神の意思とか基準に反するならばどうしますか?

真のクリスチャンは、人への恐れに屈することなく、エホバ神を喜ばせ、真の神として尊ぶことを最優先にすることでしょう。

エホバとの絆を強くして幸せに生きていくためのレシピが聖書にはいっぱい詰まっています。

神の前で是認された立場を得た人々に注目してみたいと思います。

まず1人目は、アベルという人物です。

「しばらく後のこと,カインは土地から得た産物の幾らかを,

 エホバに捧げるために持ってきた。 

 一方,アベルは羊の初子の何匹かを脂肪部分を含めて持ってきた。

 エホバはアベルとその捧げ物を好意的に見た」。

 (創世記4:3,4)

このアベルの両親はアダムとエヴァでした。 

この2人は神に反逆したにもかかわらずアベルは、受け入れられる仕方でエホバ神を崇拝して神の是認を得ようと務めました。

アベルは、崇拝の対象としてふさわしいのはエホバだけだと理解していました。ですから、エホバに捧げ物をしました。

羊の初子の何匹かを選び、最上の質のものを捧げています。 

アベルは兄のカインとは違って、エホバとエホバの物事の行い方は常に正しいということを心から信じ、それが信仰の動機となっていたっていうことです。 

このアベルの模範から学べるのは、純粋な動機がなければ清い崇拝は行えないということです。エホバに心からの信仰を持ってエホバの正しい基準に心から従わなくてはなりません。

さらに学べる点として、神への専心を示す行為を一度するだけでは清い崇拝を行っているとは言えず、 私たちの生活や行動全体が関係しているということを覚えておきたいと思います。

今日でも、信者でない家族に囲まれながら真の崇拝において堅く立っている人は多くいます。 

フィジーの1人の若者は、通りかかった人に声をかけました。楽園の地に関する聖書の約束についてすでに聞いていて、そのエホバの証人との話し合いで再び関心が呼び覚まされました。

そして母親の住む島へ行って聖書研究を始めることにしました。島に帰ると、若者の家族は反対するようになりました。さらに、栽培し始めた作物を皆台無しにし、村の者たちからも、自分たちの宗教以外を許さない村から出ていくようにと言われました。 

(さらに…)

無価値なものから目を背けなさい

私たちは、得ている情報の80パーセントを目から得ていると言われています。

見たものは私たちの感情に影響を与えます。そしてそれは 私たちの行動を誘っていくものとなります。

最終的にその人は見たものによって形作られていくことがあります。

実際そのような影響を受けた人のことを少し考えてみましょう。

ダビデという人は、自分が見たことによって、ある感情を抱いたことが取り上げられています。

「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。

死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。

人の子が何者なので気に掛けてくださるのか」。

(詩編8:3,4)

自然から見たことによって、神がどんな方で、どんな特質を持っておられて、そのような方がなぜ自分に関心を持ってくださっているのかという絆を感じ取ることができたということです。

そうするならば、私たちも神を尊敬したり、神との絆を大切にしたい、また崇拝したいという気持ちが湧き起こってくるということです。

素晴らしい創造物を見る時、私たちはエホバの関係を意識することができます。

これはエホバが備えてくださる目の素晴らしい働きと言えるのではないでしょうか。

一方、良いものであっても使い方を間違えてしまうと重大な問題を抱えるという例を考えてみましょう。

例えば、包丁はとても良いもので、それで料理して美味しいものを作るならば、人を幸せにします。

しかし、それを間違って使うならば、人の命を奪って人を不幸のどん底に陥れる作用があります。

私たちの目もそうです。

聖書の創世記3章に、誤った使い方をした1人の人の例が出てきます。

エヴァは、エデンの園の真ん中にある善悪の知識の木の実を食べるとどうなるか聞いていました。

エホバからただ聞いていただけではなくて、目があって確かに園の真ん中にその木があるということを認識していました。

それから食べたならば命を失うことになるので注意しなければいけないという警報を目が発するものとなっていたに違いありません。

しかしある時、邪悪の天使に唆されてしまいました。

その時にどんな変化が起こったでしょうか?

今まで見ていた視点とちょっと変わってそれを見続けていくようになります。

そうすると、なんと魅力的なものに見えてくきました。今までは注意しなければいけないと思っていたものが、おいしそうに見えて、食べたくなってきました。大きな変化が生じたのではないでしょうか?

そして感情の影響を受けて、欲望がどんどん高まりました。

その結果、エヴァはその実をなんと取って食べてしまったのです。(創世記3:6)

エヴァはこの実を見続けて、それに欲望を感じてしまったのです。

その結果、エヴァは死んでしまい、子孫を不幸なものに陥れることになりました。

エヴァはどうしたらよかったのでしょうか?

「私の目をそらさせてください。無価値なものを見続けないために。

あなたの道で私を生き続けさせてください」。(詩編119:37)

無価値なもの、良いものとそうでないものとをしっかりと分別して、必要ないものは目をそらすようにコントロールする、つまり犠牲するようにとここでは述べられています。

続く部分を見ると、エホバに従ってエホバの道を私たちが歩むために、この事柄は とても大切なことであるとこの聖句は述べています。

では、私たちの目はどうでしょうか?

ダビデのように神を認識するものでしょうか。それともエヴァのように、私たちの目は問題に誘うような影響を与えるでしょうか。

私たちはどうしたら無価値なものから目をそらすことができるのでしょうか?そのために何が必要となってくるのでしょうか。

(さらに…)

人間が永遠に生きる それは可能か

皆さんはおいくつになられましたか?

たとえ何歳であったとしても、永遠という観点からするとごくごく短い年月と言えるかもしれません。

亀は100年以上生きるものもあると言われています。樹齢何千年にもなる植物もあると言われています。

それに比べて人間は90年生きれば良いことだと言われます。

寿命を伸ばそうと懸命に努力するんですけれども、それ以上生きることは難しいというのが今の現状です。

人間は80年か90年だという既成事実のような認識がありますので、誰でもそのことを意識して人生設計を立てようとします。

そして80年が過ぎようとしたり90年が近づいてくると、今の世の中では就活とか、最後に住む家のことを終の棲家という表現も使うことがあります。

そういう言葉を使わなければいけない現状は悲しいことではないでしょうか?

ずっと生きていたいと思うににもかかわらず、自分の意図に反して健康を害してしまったり死を経験しなければならない現実を目の前にするとき、どうしてそういう風になってしまうんだろうと私たちは考えるものです。

人生が短いとか儚いなと感じることがあるのは何でなのでしょうか?

「神は全てを適切な時に美しくした。神は人に,永遠を思う心さえ与えた。

それでも人は,真の神の行いを決して知り尽くすことがない」。

(伝道の書3:11)

動物は時系列で物事を考えることはできません。

人間だけが、過去現在そして未来にわたって思考を働かせて将来のことを考え、しかも永遠という観点で物事を考えることが可能です。

エホバは元々「永遠を思う心」を与えてださっているからです。

私たちの身体面の造りに注目して見ても、ずっと生きられるように造られていることがわかります。

脳は平均グレープフルーツほどの大きさと言われていて、1300グラムの神秘とも言われます。潜在的能力がすごいからです。

およそ2000万冊の本の情報量、世界最大の図書館に収められているのと同じ数の本の知識を吸収することができる能力があると言われています。

ある百科事典によると、これほど素晴らしい造りなので、人間の脳の長期的な記憶能力は事実上無限であると言われています。

無限であるにもかかわらず、わずか80年とか90年で死んでしまうとしたら脳の機能を十分活用する前に私たちは死んでしまうことになります。

科学者たちは、脳がこんなに素晴らしいのに人間はなんで老化して病気になって死んでしまうのだろうかと研究を続けていますが説明できないというのが現状です。

でも、聖書は説明しています。

人間が死ぬようになった原因は、人類史の最初の時点に遡らなければなりません。

最初の人間アダムとエバは神に従う限り永遠に生きることができました。

「エホバ神は人にこう命じた。

『庭園の全ての木の実を満足するまで食べてよい。

しかし,善悪の知識の木の実は,食べてはならない。

それを食べた日にあなたは必ず死ぬからである』」。

(創世記2:16,17)

それは神の主権を支持することを意味していました。

悪魔サタンが蛇を用いて最初の人間夫婦に接触を図ることになります。エヴァが禁じられている実を食べたとしても決して死ぬようなことはない、しかもその実を食べることによって神のようになれると唆されました。

「そこで女がその木を見ると,

おいしそうな実が付いていて,魅力的な美しい木に見えた。

それで女はその木の実を取って食べ始めた。

その後,一緒にいた時に夫にも渡した。夫もそれを食べ始めた」。

(創世記3:6)

エヴァは見つめれば見つめるほど、その実が魅力的に思えたかもしれません。そして実際に手に取って食べました。

(さらに…)

神の王国の国民として幸せに暮らすために

外国へ旅行するには更新されたパスポートが必要です。
パスポートを所持しているなら、
どの国民であるかを証明できます。
神の王国に入るには何が必要でしょうか?
神の王国は何か架空の国なのでしょうか?
その国はどこにありますか?
聖書にはなんと書いてあるでしょうか。

「この王たちの時代に,
天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。
その王国はほかのどんな民にも渡されません。
これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,
その王国だけが永遠に存続します」。
(ダニエル2:44)

天の神が滅びることのない王国を立てるとあります。
その国はどこにあるのでしょうか?
天にあります。
神様が人間の政府に代わって
天から地球を治めるために作った王国、
これが神の王国です。
その神の王国というのは架空のものではなく、
人間が治めている政府と同じように
現実の政府と言うことができます。
神の王国政府の支配によって、
天も地球も神様が望んでいる通りの状態になります。

多くの人たちは本当に信頼できる政府に
国を治めてほしいと願っているはずです。
今年こそは良い年になってほしい、値上げも増税もなく
安心して暮らせる国にしてほしい
と願うのも自然なことと言えます。
神の王国政府は、こうした願いを実現させる政府です。
人間の政府よりも遥かに優れている政府だからです。
どうしてそう言えるのでしょうか?
神の王国政府が人間の政府よりもはるかに優れている特色を
いくつか挙げてみるとそのことがわかります。

これまで人間の政府は、何十年何百年と世界平和を謳って
様々な政策を打ち出し、公約というものを掲げてきました。
でも2024年になった今、世界は平和ですか?
安全でしょうか?安心して暮らせますか?

物価はどんどん上がり、世界のあちらこちらで戦争が起き、
日本でも大きな地震もありましたし、
ミサイルが飛んできたりして、
平和安全安心という言葉とは
かけ離れていると言えるのではないでしょうか。
でも神は、平和で安全で安心して暮らせる国を
作ると約束してくださっています。

その神の王国の政策公約は聖書に書かれています。
例えば、食物が地上に満ち溢れるほどになる。(詩編72:16)
私は病気だという住民がいなくなる。(イザヤ33:24)
皆が健康に暮らせるようになる。 (イザヤ35:6)
他にも住宅とか雇用とか教育に関するマニフェストは
この聖書にたくさん掲げられています。

神の王国の政府と人間の政府とは
決定的に大きな違いがあります。
それは神の王国は国民の幸せのために
聖書教育を行っているという点です。
聖書の教育によって教えられているその国民は、
生活の中で危機が生じても素早く対応します。

2012年にある国で自動車事故が起き、
13人のエホバの証人が亡くなりました。
全員が同じ小さな会衆に交わっていて、
他にも54人が重傷を負ってしまいました。
救援委員会は、24時間体制での看護を組織しました。
同じ病院に入院していたある女性は、
負傷した兄弟姉妹が献身的な援助を受けているのを目にして、
自分の教会の牧師に電話をかけこう言いました。
「うちの教会の人が誰も来てくれないんですね。
病院に来てエホバの証人の愛がどんなものか見てください」。

神の王国の民が聖書で教えられていることを
実践していることからも、
神の王国政府と人間の政府とでは大きな違いがある
と言えるのではないでしょうか。

(さらに…)

神の教え通りに生きると良い結果になる

新しい年が始まりました。

日本ではたくさんの人が初詣などに出かけ

1年の中では1番神様について考える時かもしれません。 

では、多くの人は神様に対してどういったイメージを持っているでしょうか?

いるかもしれないけれども、遠い存在だろうと思う人もいます。

知りたいと思っても多くを知ってはいけない

秘密のベールに包まれているイメージかもしれません。

聖書の神エホバはそのような方でしょうか?

「希望を抱いてエホバを待ち,神の道にとどまれ。

 神はあなたを重んじて地上に住み続けさせてくださる」。

 (詩編37:34)

エホバは私たち人間を価値のあるものとして見ておられるということです。

地上に住み続けてくださるとあるように、

私たちが生き続けることができるよう意識的に行動してくださいます。

エホバは人間に愛や関心を抱いておられるとても身近な方と言えるでしょう。

エホバは何事も愛をベースとして行われますので、

人間をどんな教えるよりも優れていて、

その道に留まる人は充実感や安心感を得ることができます。

しかし今の世の中は、自分中心の考え方、

お金や物を重視する傾向、人種差別や性的不道徳、 

憎しみや怒り、偏見から生じる暴力が蔓延していて、

愛をベースにしたエホバの教えとは真逆のものが蔓延っています。 

そのような傾向に逆らってエホバの教え通りに生きるのは、

確かに簡単なことではないでしょう。 

それでもそうするだけの価値があるのでしょうか?

今日は、エホバの教えに従うと

なぜ良い結果になるのかという点を考えてみたいと思います。

まず、聖書の中では神は全てのものを創造されたとあります。 

エホバが造ったものを見ると、どんな方かがわかります。

「神について知り得る事柄は,彼らにもはっきり示されているからです。

 それを示したのは神です。 

 神の見えない性質は,世界の創造以来明らかです。

 造られた物を見れば,神が永遠に力を持っていて,

 確かに神であるということが分かります」。

 (ローマ1:19,20)

言うまでもなく、神が創造されたものは無限と言えるほどの数に残ります。

その中で今日は2つの点について考えてみましょう。

まずは人間の体の仕組みです。

人間を含む様々な生き物が、食物を体内で

酸素の助けを得てエネルギーに変えて生き続けることができています。 

食べたものは、消化液などによって吸収されやすい形の養分に変えられます。

塩分はブドウ糖に、タンパク質はアミノ酸に、

脂肪は脂肪酸とグリセリンに変化します。 

ブドウ糖やアミノ酸、脂肪酸は小腸の壁を通して吸収されて

肝臓に運ばれていきます。 

肝臓はこれらの一部を作り変えて血液中に流したり、

また多い時には蓄えておきます。

激しく運動してエネルギーが不足すると、

エネルギーのもとになるブドウ糖を血液中に溶かし出して

血液の中の養分の濃さを調整します。

そして余った養分は脂肪に変えて体に蓄えられます。

肺で取り入れた酸素とか、養分を溶かした血液は、 

心臓というポンプから全身に送り出されます。

太い血管から網目のように広がった毛細血管まで隈なく供給されていきます。

人間の全ての血管を繋げるとどのぐらいの長さになるでしょうか?

10万km、つまり地球2周半の血管が1人1人の体の中に収められているのです。

この驚くべきサイクルは何の音を立てることなく、

静かにでも確実に私たちの体の中で毎日繰り返されています。

私たちが意識しなくても、それは繰り返されて私たちの生命を維持しています。

そう考えてみると、とても驚くべきことと言えるのではないでしょうか。 

神の力の表れと考えるのはごく当然のこと、道理にかなったことと言えます。

(さらに…)

真のクリスチャンはどのように神の教えを飾るか

皆さんは、自分を飾ることはお好きでしょうか?

あるいは、自分の部屋に綺麗なアクセサリーを置たり,

車の好きな方であれば、

かっこいいホイールを履いて魅力的に見せたり、

女性の方であれば、化粧をして綺麗にされるかもしれません。

どんな人であっても、 綺麗にしたり美しさを引き立てたりすると

とても気持ちいい気分になります。

そうした気分になるのはなぜでしょうか?

それは人間を造られたエホバ神がそのような方だからです。

 

2000年ほど前にイエスの弟子であったヨハネという人は、

このエホバが座っている王座を見る特権にあずかりました。

では、どんな状況を見たのでしょうか?

「それから,すぐに聖なる力が私に働いた。

見ると,天に王座があり,その王座に座っている方がいた。

座っている方は,碧玉,また赤めのうのようで,

王座の周りにはエメラルドのような虹があった」。

(啓示4:3)

イメージできますか?

エメラルドのような虹があるところをヨハネは見ました。

ですからエホバご自身は、

非常にご自分を美しく装っておられる方です。

 

ではエホバの子供たち、

天にいる大勢の天使たちはどうでしょうか?

天にエホバの組織があります。

昔エゼキエルという人は、

天の組織を見る特権にあずかりました。

エゼキエル書1章の表現を借りれば、

光輝いていたと描写しています。

ですからエホバご自身も、エホバの家族天使たちも、

非常に光輝いて美しく装っておられるのです。

 

では地上の創造物はどうでしょうか?

エホバは地上も本当に綺麗に作られました。

詩編作者の1人は、美しい夜の星空を見て

「天は神の栄光を表している」と述べました。

日本もそうですけど、本当に綺麗な場所が多くあります。

ある方はスキーに行って美しい山の

雪化粧を見るのが好きだといいますし、

この綺麗な紅葉の時期に富士山を見るために

旅行に出かける方もいらっしゃるかもしれません。

世界中には、本当に色とりどりで色彩豊かな

綺麗な場所で満ちています。

ですからエホバご自身も、天の組織も地上の創造物も本当に

美しく飾ってそのことを喜びとされていることがわかります。

 

地球を綺麗なものに造り、その後に人間を造りました。

完全な人間夫婦です。

その人間夫婦をエデンの園という楽園に置きました。

その楽園を徐々に地球全体に広げていくのが仕事でした。

でも残念ながら、最初の人間夫婦は罪を犯してしまい、

エホバの目的であった美しい地球を綺麗に保つ

ということができなくなってしまいました。

ノアの洪水の時期には地が損なわれていたとあります。

その状況は、私たちが住んでいる現代にまで

自然が破壊されていることからわかります。

 

不完全な人間になってしまい、

美しい地球は傷つけられているんですけれども、

人間は相変わらずそのものを美しくする能力は持っている

ということに同意なさるのではないでしょうか。

鏡を見て髭の剃り残しがあるなと思ったら手入れしてきますし、

髪がちょっと跳ねているなと思ったら直してきますね。

でも、動物はそうではありません。

猫が鏡を見て、ちょっと髭が伸びているなと思って

憂鬱な顔を浮かべないですね。

なぜなら、猫とか動物にはそういう能力がないからです。

人間だけに美しいものを飾るという能力があります。

 

もし皆さんが本当に価値のある

綺麗なダイヤモンドを持ってるとしたらどうされますか?

きっと美しい箱に入れて飾って置かれるのではないでしょうか。

でも私たち全てがそのような高価なダイヤモンドを

持っているわけではありません。

でも真のクリスチャン全ては、ダイヤモンドよりも

はるかに高価なものを持っていると言えます。

それはなんでしょうか?

 

(さらに…)

リーダーとして信頼できるのは誰ですか

現在世界は国と国との戦争などがあって、
ますます混迷を深めている状況ではないでしょうか。
そういう状況なのに問題があり解決しないわけです。
そういう状況を見て多くの人は、政治とか宗教、ビジネス界の
リーダーたちにがっかりしているという状況かもしれません。

そういう状況は何も今に始まったわけではありません。
昔からずっとそういうリーダーたちは失敗してきたわけです。
問題解決なかなかできない理由を聖書から見てみましょう。

「エホバ,私はよく知っています。
人は自分の道を定めることができません。
自分で自分の歩みを導くことができないのです」。
(エレミヤ10:23)

人は自分自身で治め支配することができないように
造られており、そういう権限もないということです。
人は自力では空を飛ぶことができないように、
自身も治めることができないのです。

しかし聖書を見ると、
信頼できるリーダーがいることが述べられています。

「この夜,私が見ていた幻の中で,
今度は天の雲と共に人の子のような者がやって来た。
その者は年月を経た方に近づくことを許され,
その方のすぐ前に連れてこられた。
その者に統治権と栄誉と王国が与えられ,
あらゆる民族や国や言語の人々が彼に仕えるようにされた。
その統治は終わることなく永遠に続き,
その王国は滅ぼされることがない」。
(ダニエル7:13,14))

この「人の子」は、イエスのことを表しています。
ですからエホバは、統治者である指導者メシアを選ばれ、
このメシアというのはイエスのことを示しているわけです。

イエスは理想的なリーダーであるということが
3つの理由から言えます。

1.まず神によって選ばれたという理由があります。
2.それから、私たち全ての人の
模範となるような良い特質を持っておられます。
3.そしてイエスは、
ご自分に従う人たちに気遣いを示すことができる方です。

その気遣いの最たるものが、
ご自分の命を与えて人々の罪を贖う備えを完成させたことです。
イエスが人間の指導者と違うところは、
何かなさる時に愛の動機としてなさるところです。
人間の場合は、そうはなかなかいかないですね。

それから、もう既に理想的なリーダーであるという証拠を示された方です。
地上にいる時に、理想的なリーダーであるどんな証拠を示されたでしょうか?

「イエスは全員に,
青草の上にグループになって座るよう指示した。
人々は100人また50人のグループになって座った。
イエスは5つのパンと2匹の魚を取り,
天を見上げて祈ってから,
パンを割って弟子たちに渡し始めた。
人々に配らせるためである。
また,2匹の魚を皆のために分けた。
こうして皆が食べて満足した。
かけらを拾うと,パンだけで12個の籠がいっぱいになった。
パンを食べた男性は5000人だった」。
(マルコ6:39-44)

大勢の方々に5つのパンと2匹の魚で、
食事をさせたっていうことです。
男性5000人とありますが、
他の資料では女性や子供たちもいたので
大体2倍の1万人ぐらいいたのではないかとも述べられています。

「また,重い皮膚病の男性がイエスの所に来て,
ひざまずいて嘆願し,
『あなたは,お望みになるだけで,
私を癒やすことができます』と言った。
イエスはかわいそうに思い,手を伸ばして男性に触り,
『そう望みます。良くなりなさい』と言った。
すぐに病気は消え,男性は良くなった」。
(マルコ1:40-42)

重い皮膚病を治すことができ、地上におられた時に
理想的なリーダーと言える証拠を示したわけです。

「しかし,聖なる力があなたたちに働く時,
あなたたちは力を受け,
エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,
また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。
(使徒1:8)

約3年半という短い期間でイエスは
世界的な伝道活動の基礎を築いたという実績もあります。

「それで,行って,全ての国の人々を弟子としなさい。
父と子と聖なる力の名によってバプテスマを施し,
私が命令した事柄全てを守るように教えなさい。
私は体制の終結まで
いつの日もあなたたちと共にいるのです」。
(マタイ28:19,20)

事物の体制の終結の時まで、
あなたたちと共にいるのですと述べられています。
ですから天に昇られた後も、
ご自分に従う人たちをよく教えて、
導いておられることが言えます。
イエスは、忠実で思慮深い奴隷たちを任命して、
ご自分の会衆の人たちを世話しています。
神の聖なる力や天使たちによって、
イエスに従う人たちを助け教えて色んな活動をしています。

イエスは今、どんな立場におられるのでしょうか?

「第7の天使がラッパを吹いた。
すると,天でたくさんの大きな声がした。
『世の王国は,私たちの主と,
その方のキリストの王国となりました。
主はいつまでも永遠に王として治めます』」。
(啓示11:15)

王国の王として支配してもらえる立場となっておられます。
まもなくこの王が、人間を支配することになるわけです。

次にイエスをリーダーとして認めることの大切さ
について考えてみたいと思います。

「イエスはその男性を見つめ,愛を抱いて言った。
『あなたには1つのことが欠けています。
行って,持っている物を全て売り,
貧しい人たちに与えなさい。
そうすれば,天に宝を持つようになります。
それから来て,私の弟子になりなさい』。
(マルコ10:21)

「私の弟子になりなさい」という呼びかけがなされています。
この呼びかけは今日でもなされています。
エホバの証人はどうすればイエスの弟子になれるか、
そういったことを聖書から伝えたいと思っています。
今では「いつまでも幸せに暮らせます」というテキストを用いて、
都合の良い時に、ご自宅とか都合の良い場所で、
聖書レッスンを受けることができます。
t.co/REdyiKUiXa

このイエスを自分のリーダーとしている人たちは、
どんな努力をしているのでしょうか?

「皆さんはこうした道に招かれました。
キリストでさえ皆さんのために苦しみ,
その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう
手本を示しました」。
(ペテロ第一2:21)

イエスは手本を示したと述べられています。
ですから、その手本に従うように
日々努力されているのではないでしょうか。

「ですから,王国と神から見て正しいこととを
いつも第一にしなさい。
そうすれば,こうしたほかのもの全ても,
あなたたちに与えられます」。
(マタイ6:33)

ですから、
神の王国を第一として歩む努力をされるのではないでしょうか。
エホバが望むことを生活で優先させている
ということになるでしょう。

「それからイエスは弟子たちに言った。
『誰でも私に付いてきたいと思うなら,
自分を捨て,苦しみの杭を持ち上げ,
絶えず私の後に従いなさい』」。
(マタイ16:24)

自分は神に仕えるという決心をして、
それを公に表すために水のバプテスマを受けます。
そのようにして、イエスがリーダーであることを示すことができます。

ある男性は妻が聖書の勉強を始めた時、
ちっとも嬉しくありませんでしたし、興味も湧きませんでした。
仲間と酒を飲んで、騒ぐのが大好きで、
それが1番だと思っていました。

妻が変わりました。以前よりずっと優しく愛らしくなりました。
自分も聖書を勉強してみようと思いました。
勉強を始めてこれはまずいと思いました。
バプテスマを受けたら、これまでしていた楽しいことができなくなるんです。
仲間と飲むのが大好きで、辞めるのは嫌で
やめるようプレッシャーをかけられるのも嫌でした。

飲み仲間はいい人とは言えませんでした。
でもエホバの証人はとてもいい人たちで、なんと言っても正直です。
これがきっかけになり、思い直して勉強を再開しました。
そして、バプテスマを受けたんです。
バプテスマの時、私はサタンとの戦いに勝ったと思いました。

今、本当に幸せです。もう昔の自分ではありません。
エホバの証人でいられることが本当に嬉しいです。
妻と長年一緒に奉仕できたこともいい思い出です。
妻は亡くなりましたが、
復活してくる妻にまた会えることを楽しみにしています。

(さらに…)

神が世界を終わらせる時は来る?

もし現在世界で起きている深刻な問題には何がありますか
と聞かれたならばどんな問題を思い浮かべるでしょうか?

人々の命を奪ってしまう戦争を引き起こす
各国の外交問題でしょうか。
世界各地で甚大な被害をもたらす自然災害や
異常気象の原因となっている環境問題でしょうか。
科学技術が進む現代にあっても、食糧が十分に得られずに
苦しんでいる人がいるという格差問題というものがあります。
日々の生活費という経済的な問題や、就職・就学に関する問題、
高齢化や病気の家族の世話など
もっと多くの問題が浮かぶかもしれません。

このように、
私たちは本当に多くの問題に囲まれて生活しています。
誰もがこれらの問題をなくしてほしいと
強く願っているに違いありません。

世界中の多くの人が求めているにもかかわらず、
多くの国の政府がその必要に応えることができていないのは
なぜでしょうか?
聖書の中には、
その根本的な理由の1つが次のように述べられています。

「エホバ,私はよく知っています。
人は自分の道(生き方)を定めることができません。
自分で自分の歩みを導くことができないのです」。
(エレミヤ10:23)

この聖句は、人間には自分たちを正しく治める能力が
ないことを示しています。
人間を造られた神エホバは、
人間を正しく治める能力を人には与えていないのです。
例えて言うならば、
人が水の中や宇宙で生きるように造られていないように、
人を支配するようには造られていないということです。

できないことをしようとしてきたので、
世の中には理不尽に思えることが多く、
人々は色々な問題に苦しんできました。
「これまでずっと,人は人を支配し,
人に害を及ぼしてきた」とある通りです。
(伝道の書8:9)

今ある問題は引き続き解決されることなく、
永遠に人々を苦しませるのでしょうか?
人は誰に支配してもらえるように造られていたのでしょうか?

聖書の中には、
このような疑問に対する答えが載せられています。
まず、人間の政府による支配がどのようになっていくのか
という点についてこう預言されています。

「この王たちの時代に,
天の神は決して滅ぼされることのない王国を建てます。
その王国はほかのどんな民にも渡されません。
これらの王国を全て打ち砕いて終わらせ,
その王国だけが永遠に存続します」。
(ダニエル書2:44)

ここに書かれている夢、
この言葉はどんなことを意味しているのでしょうか?

まず「この王たちの時代に」とあるので、
地球上でそれぞれの国が
治めている時に神の王国を建てるということが分かります。
この王国が他の国に統治権を奪われることはありません。
そして、この神の王国と世界の国々との間に戦いがあって、
神の王国は全ての国々に勝利して終わらせます。

このようなことが実際に起こり得るのでしょうか?
この神の王国はどんな段階を踏んで
世界全体を治めるようになるのでしょうか?
ダニエル書にある記述の中から紐解いていくことができます。

誰が人間を治めるのかを決めるということについて、
エホバはバビロンのネブカドネザル王に
統治権に関する夢を見せました。
そのことがダニエル4章の中に記されています。
どのような夢だったでしょうか?

「大地の真ん中に、非常に大きい木が立って」います。(4:10)
「頂が天に達して,地の果てからも見える」とあるので、
本当に大きな木であることがわかります。(4:11)
美しく実が豊かになっていて、全ての生き物が
その木から必要なものを得ることができます。(4:12)

しかし聖なる者が天から下ってきて「この木をり倒し」
生き物たちを追い払うように言います。(4:13,14)
そして「切り株と根は」
「鉄と銅のたが」をかけられ地面に残されます。(4:15)
心は変えられ「獣の心が与えられて,
7つの時が過ぎる」と述べられています。(4:16)
「至高者が人間の王国の統治者であり,
ご自分の望む者にそれを与え,
最も立場の低い人をさえその上に立てるということを,
人々に知らせるため」であるとと告げられます。(4:17)

この夢を見たネブカドネザルは
一体どんなことを意味しているのか分からず、
この夢の解き明かしをダニエルに求めます。
そして、神はダニエルにこの夢の意味を説明させました。

「それは王ご自身です。
あなたは強大な方となり,威光が天にまで達し,
支配が地の果てにまで及んだからです」。(4:22)

この大きな木はネブカドネザル王のことを指していました。
ですので、この後の謎の解き明かしをすることは、
ダニエルにとってとても勇気が必要だったかもしれません。

「あなたは人々の中から追いやられ,
野獣とすみかを共にし,
雄牛のように草を食べることになります。
天からの露にぬれるままになり,こうして7つの時が過ぎます。
そしてあなたは,至高者が人間の王国の統治者であり,
ご自分の望む者にそれを与えるということを知るのです。
…切り株と根は残しておくようにとのことでしたから,
天が治めているということをあなたが知った後に,
王国は再びあなたのものになります」。
(4:25,26)

このようにダニエルは夢を明かしていきました。
そして解き明かし通りに事が起きていくことになります。

天から声が聞こえて
「王国はあなたから取り去られました」と告げられ、
ネブカドネザルは野獣のように生活するようになります。(4:31,32)
そして「7つの時」が過ぎると「正気に戻り」、「王国の栄光」や
「輝かしい威光も元に戻った」と言います。(4:36)

ネブカドネザルが見た夢と
この夢の実現から何がわかるでしょうか?
それは誰が人間を治めるかはエホバ神が決めるということです!
エホバの考えに沿って物事が運ばれていったのです。

この夢は、私たちにも影響を及ぼします。
この夢の中で預言されていた出来事というのは、
後の時代に大規模に起きることになっていて、
それには神の王国の設立が関係しているからです。

この夢が単にネブカドネザルの身に起きたことを予告しただけ
ではなかったと言える理由について5つの要素を取り上げます。

1つ目はタイミングです。
神がこの夢を見せたタイミングはイスラエルという
当時の神の王国が滅びて間がない頃でした。

歴代第一29章23節に「ソロモンは父ダビデの代わりに王として
エホバの王座についた」と書かれています。
このエホバの王座についたというのは、
平和の統治がエルサレムにいたイスラエルの王たちによって
行われていたということを表しています。
エホバの統治を表していたイスラエル王国が滅びて
間もない頃にこの夢を見せたということは注目に値します。

2つ目は人物です。
神が夢を見させたネブカドネザルという人物は、
エホバの統治を表していたイスラエル王国を
終わらせた人ということで、
神の王国に関してとても重要なことを行った人物でした。

3つ目はメッセージです。
夢そのものの中で述べられていた点を
思い起こすことができます。
ダニエル4章17節の中ほどには
「至高者が人間の王国の統治者」であると述べられていました。
夢のメッセージは、人間の国全てを統治する権利を
神が持っているということでした。
「至高者」つまり神が人間の王国の統治者であることに言及されていることから、 単にネブカドネザルだけではなく、
神の統治権つまり神の王国にも関連があることが分かります。

4つ目はダニエル書のテーマです。
ダニエル書に繰り返し出てくるテーマの1つが
神の王国の統治です。
例えば2章には巨大な像の夢で、
世界強国を砕く神の王国について扱われています。
またダニエル7章13、14節では、
王国の王について書かれています。

ダニエル書の預言は終わりの時が関係しています。
ダニエルが見聞きした事柄は「終わりの時まで秘密にされ」
終わりの時になって初めて
全貌が明らかにされることになっていました。
(ダニエル12:4,8,9))

タイミング、人物、 メッセージ、テーマ、終わりの時
という点から、この夢に出てきた木は、
ネブカドネザルの統治のことだけではなく、
神の統治を表しているということが言えるのです。

ではネブカドネザルの見た夢が、
今度は神の王国にどのように実現するのでしょうか?

エホバの統治はエルサレムにいた
イスラエルの王たちによって行われていました。
エホバはダビデの子孫の1人が
王になって永遠に統治すると約束していました。
(サムエル二7:16)
一方でエホバの預言者エゼキエルは、
次のように予告していました。

「主権者である主エホバはこう言う。
『ターバンを外し,冠を脱ぎなさい。
それらがそのままになることはない。
立場が低い者を高くし,高い者を低くしなさい。
私は,破滅,破滅,破滅をもたらす。
法的権利を持つ者が来るまで,冠は誰のものにもならない。
私はその者に冠を与える』」。
(エゼキエル書21:26)

ここではまずターバンを外し、冠を脱ぎなさいと願っています。
これはエホバの王座における王が除かれること、
つまりイスラエルの王たちによる神の統治を
終わらせること意味しています。
そして、エルサレムを中心とする「高い」ユダ国は低くされ、
異国の人々の勢力が「高く」されていく
ということを述べています。
さらに、法的権利を持つものが来る
つまり新しい王が任命されるということを予告していました。

この予告にある王家が取り除かれるということは、
ネブカドネザルが紀元前607年に
エルサレムを滅ぼした時に実現しました。
これによって神の統治が中断しました。

(さらに…)

自己中心的な世の中で愛を表すには

自己中心的な人はどんな人でしょうか。

自分中心でいる人、自分のことだけ自分のことばかりを考える人のことです。 

こういう人たちが増えていると感じるのではないでしょうか。

自己中心的な考え方や態度というのは色んな形で表れます。 

家族や周りの人に対する態度、お金や物に対する見方、

仕事のやり方、運転の仕方などです。 

もし自分のことばかり考えて生きていくなら、

やがて自分と周りの人を傷つけていくことになります。

本物のクリスチャンは、自己中心的な態度を取りたいとは思いません。

なぜなら愛のある人になりたいと思っているからです。愛は利他的です。 

ですから、自己中心というのは愛の対局にあることになります。

愛の対局にいるということは、エホバの対局にいるということになります。

なぜなら「神は愛だからです」。(ヨハネ第一4:8)

エホバは愛そのものです。ですから、自己中心的な人というのは、

エホバからかけ離れた最悪のポジションにいるということになります。

自己中心的な態度をただ避けるだけでは、本物のクリスチャンとは言えません。

イエスは次のようにも教えたからです。 

「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。

 それは,互いに愛し合うことです。

 私があなたたちを愛した通りに,

 あなたたちも互いを愛しなさい。 

 あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,

 あなたたちが私の弟子であることを知ります」。

 (ヨハネ13:34,35)

イエスは弟子たちに愛を表すように,それこそがイエスの弟子である

つまり本物のクリスチャンであることの証拠になると言ったのです。 

それで、自己中心的な人はクリスチャンになることはできません。

クリスチャンになった後に、自己中心的な態度を示すようになったり、

愛を十分表せないようになったりするならば、

その人はクリスチャンとしては色褪せてしまうことになります。

それで、私たちは自己中心的な世の中で愛を表したいと思います。

その生き方こそが本当の幸福につながります。 

エホバとイエスが幸福なのは、愛を表しているからです。

「受けるより与える方が幸福である」とイエスは教えました。(使徒20:35)

自己中心的な態度を示し続けると、自分と周りの人を傷つけることになりますが、

 愛を表し続けるなら、自分と周りの人が幸福になるということです。

では、本物のクリスチャンはどのように愛を表すのでしょうか?

それは当然、聖書が教えている方法で愛を実践することによってです。

聖書は愛について本当に多くのことを教えています。 

コリント第一13章4から7節では、

愛のあるクリスチャンがすることとしないことについて書いてあります。 

「愛は辛抱強く,親切です。

 愛は嫉妬しません。愛は自慢せず,思い上がらず,下品な振る舞いをせず,

 自分のことばかり考えず,いら立ちません。

 愛は傷つけられても根に持ちません。 

 愛は不正を喜ばないで,真実を喜びます。 

 愛は全てのことに耐え,全てのことを信じ,

 全てのことを希望し,全てのことを忍耐します」。

辛抱強さと親切が1つのセットになっていることに注目できます。

この2つが同時に示されるときに、愛の力が一層強く発揮されるということです。 

仲の良い夫婦でも、時折喧嘩をしたり言い合いになったりすることがあります。

互いにイライラして、嫌悪な雰囲気になってしまうこともあります。

そんな時に辛抱強くなければと自分に言い聞かせて、

まずは言い争いをやめて辛抱強さを示そうとします。

でも辛抱強さを示しますが、相手と口を利かなくなるでしょうか。

辛抱強さを示しますが、きつい口調になったり、

(さらに…)

信仰で結ばれた人たちは守られる

「兄弟たちが一致して共に住むのは,

何と素晴らしいことだろう。何と心地よいことだろう」。

(詩編133:1)

これは、ダビデという人物が歌った歌の中の1つです。

当時、イスラエルの民族はばらばらに生活していました。

でも、年に3度だけエルサレムに向かう機会がありました。

その光景を目にしたダビデは、心からこの言葉を歌ったに違いありません。

 

この歌は、現代の私たちにとっても大切なメッセージを伝えていると思われませんか?

本当の意味での真の一致というものが、血縁だけで成り立っているとしたら、ダビデは敢えてこの歌を歌う必要はなかったかもしれません。

残念なことに、血の繋がりがあったイスラエル人同士の間でさえも争いが起こっていました。

近年私たちが見ることがある戦争や戦闘というものも、民族的に近しいもしくは地理的に近しい人たち同士で起こっています。今ウクライナもしくはパレスチナで起こっている出来事も、それを証拠づけているのではないでしょうか。

では、真の平和は実現するでしょうか?

それを見出すことはできると思われますか?

今、インターネット上に世界で最も多くの人口が集まっていると言われています。そのインターネットやSNSの中で、真の平和や一致は実現していると思われますか?

私たちエホバの証人がこの一致を味わっています。私たちも年に3回の大会を味わうことができています。その場に行くことができた方たちは、みんなが一堂に集まる様子を見て、ダビデと同じような気持ちを感じられたかもしれません。

ではなぜ、このような血の繋がりも政治的な繋がりも全くないエホバの証人は、真の一致というものを実現できていると思われますか?

「あらゆる人を敬い,信仰で結ばれた兄弟たち全員を愛し,

神を畏れ,王を敬ってください」。

(ペテロ第一2:17)

何で結ばれているとありますか?

血の繋がりでも政治的なものでもなく、信仰で結ばれているとあります。

信仰で結ばれているゆえに、エホバを愛し敬って崇拝している。

それが繋がりを生んでいるということになります。

その結びつきはどれほど広く大切なものでしょうか?

一体何がそれを実現させているでしょうか?

そこでペテロは話し始めた。「神が不公平ではないことがよく分かりました。

神を畏れて正しいことを行う人はどの国の人でも神に受け入れられるのです」。

(使徒10:34,35)

エホバは不公平な方ではない。そして全ての国の人がエホバから受け入れられている。これが真の平和と一致を享受できている理由になっています。

その結果、現代では850万人そして240を超える国や地域で、エホバの証人がエホバを崇拝するために集まっています。私たちはwebサイトの中で国際大会の様子を、動画や写真で見ることができます。多くのいろんな背景から来た仲間たちが、共に楽しんでいる様子を見ることができます。

私たちが今味わっているこの信仰で結ばれた兄弟関係こそが、真の平和であると言えます。

ですがエホバの証人は、 自分たちがこの中に招き入れられて、その中で真の平和と一致を楽しむことで満足しているわけでは ありません。新たに多くの人をこの中に招き入れるための努力を日々払っています。

「しかし,聖なる力があなたたちに働く時,あなたたちは力を受け,

エルサレムで,ユダヤとサマリアの全土で,

また地上の最も遠い所にまで,私の証人となります」。

(使徒1:8)

(さらに…)