神のアドバイスはためになる

人生は選択肢の連続であると皆さん思われるのではないでしょうか。 

私たち人間は毎日大小様々な決定を、少なくとも1000以上していると言われています。

 私たちの前には何か選択する道が必ずあります。先に進むにはどちらかを決めなければいけません。

何回も通ってる道であれば選択は簡単かもしれませんが、 初めて通り道であればこの先どうなっているのだろうかという不安な気持ちに襲われるかもしれません。 

その時皆さんはどうされますか?

今までの自分の経験で選択できるかもしれませんが、きっとこの道に詳しい人にアドバイスを求めるかもしれません。 

何か重要な決定となる場合には尚更そうするのではないでしょうか。

皆さんは誰にアドバイスを求めますか?

経験豊富な親でしょうか。それともなんでも話せる友人でしょうか。

今はインターネットで知りたい情報をすぐに知ることができます。 キーワードを入れれば、アドバイスを多く得ることができます。

でもそこに出てくるアドバイスが正しいとは言い切れません。 なぜなら、1つのワードに対して複数の答えがあるからです。

もしかすると、正しい答え正しいアドバイス自体はないのかもしれません。

私たち人間は皆不完全だからです。 

地球には様々な国があり、国民を守るために上に立つ人たちがいます。その人たちは国民を導くためにたくさんの指示を与えます。

時にはその指示が無理な要求かもしれません。 でも私たちはそれに従わなければなりません。

従ったからといって、全ての人が平等に幸せになることは決してありません。

ごく一部の人たちのみが幸せを得ることができます。なぜでしょうか?

私たち人間は皆不完全だからです。 伝道の書8:9で「人が人を支配し、人に害を及ぼしてきた」と述べられています。

では私たちのためになる的確なアドバイスは誰がしてくださるのでしょうか?私たちは誰にアドバイスを求めればよいのでしょうか? 

それは全てのものを愛を持って創造されたエホバ神です。

最初の人間アダムとエバが罪を犯した結果、私たちは不完全さを引き継ぎました。そんな私たちに対してもエホバは愛を持って接してくださっています。

人間の支配者のようにエホバは無理な要求は決してしません。 私たちを心から愛し守りたいと思っているからです。

イザヤ48章17,18節でエホバは、私たち「のためになる生き方を教え」エホバ「のおきてに注意を払」うならば「平和は川の流れのように豊かになり、「正しい行いは海の流れのように多くなる」と保証の言葉を述べておられます。

それでエホバのアドバイスを得るためには、聖書をよく調べ得た事柄を適用し、 実際に行動へ移すことが必要となってきます。 

エホバはどのようなアドバイスを与えているのでしょうか?

「神はあなたに,何が善いことかを伝えた。エホバがあなたに求めていることは何か。ただ公正を守り,揺るぎない愛を抱き,慎みを持って神と共に歩むことである」。(ミカ書6:8)

このアドバイスを1つずつ次の点を念頭におきながら考えていきたいと思います。

①ミカの時代の状況②現代との共通点③エホバのアドバイスを実践するメリットについて考えていきたいと思います。

ではまず「公正を守る」ことについて考えていきましょう。

公正とはなんでしょうか?

それは偏りがなく正当なことと言えます。

私たちは人と接するとき、神から見ていつも正しい行動を取ることが求められています。

また、相手に対して不当な差別をしないことも含まれています。

ではミカの時代の時代はどのような状況だったのでしょうか? 

(さらに…)

本物のクリスチャンがこの世界の人々と違っているのはなぜか

今日の講演の主題の中に本物のクリスチャンという言葉が入っています。

それで自分が1人のクリスチャンであると自負している方は、聖書が求めている本物のクリスチャンとはどんな人か考えてみましょう。 

自分はクリスチャンではない方は、聖書が求めている本物のクリスチャンとはどんな人たちか、そしてご自分の周りにもそういう人がいるのかという点を考えて楽しまれてください。

自分は自分らしく生きていきたい。誰にも縛られたり誰かの言うことを聞く必要はない。自分の思うように生きていくんだという人たちがいます。 

そういう人たちであっても、育った環境で形成された考え方や文化のもとで生活しています。

どんなに自由を求めても、箸でご飯を食べて、靴を脱いで寝ますよね。

それは日本で生活しているので、日本の文化常識というものが体に染みついていて、それに従って当たり前のように行動しています。

自分が学んできた影響下、自分が常識と思っているものの中で生活することになっています。 

そして広く見られる最も強い考え方というものがこの世界にあります。 それは何でしょうか?

「私たちは神から出ていますが,全世界は邪悪な者の支配下にあります」。(ヨハネ第一5:19)

この世界は悪魔サタンが支配していると述べています。 

どうしてそれがわかりますか?

それはこの世の中に多く見られる精神・考え方・態度が悪魔サタンとそっくりだからです。

自分中心な考え方、高すぎるプライド、反抗的で独立的な考え方、神を考慮せず、自分のしたいこと快楽優先の生き方。 

これを押し出しているのは悪魔サタンだからです。

自分のことをもし本物のクリスチャンだと思うのであれば、この悪魔サタンの影響力は絶対に退けたい、コントロールされたくないと願うはずです。 

なぜ本物のクリスチャンと呼ばれる人たちが、 この世界一般の人々と違うのでしょうか?

1つ目の理由は、聖なる方エホバを崇拝しているという点です。

「皆さんを招いた聖なる方のように,何をするにしても聖なる人であってください。 『あなたたちは聖なる人でなければならない。私は聖なる者だからである』と書かれているからです」。(ペテロ第一1:15,16)

本物のクリスチャンは聖なる方エホバというお名前の神様を崇拝しています。それで聖なる人になろうと努力します。 

これが本物のクリスチャンが一般の人たちとは違う点です。

一般に生活している人に「あなたは誰に仕えていますか」と質問したら、どんな答えが返ってくるでしょうか?考えたことないですね。 

非常に強力な軍事国家であれば「国に仕えています」とか「王に仕えています」という人もいるかもしれません。

本物のクリスチャンにこの質問をすると「全宇宙を創造した神様に仕えています」と答えます。

これが一般の人と本物のクリスチャンの違うところです。

聖なる人である努力をしましょうと書いてありますので、本物のクリスチャンは聖なる人である努力を毎日続けます。

聖なる人とはどういう人でしょうか?

聖なる人とは、道徳的宗教的に清く正しい人という意味になります。

ですから、何を崇拝するかどう生きるかが正しい人のことを聖なる人といます。 

2つ目は、永遠の命のために生きているということです。

一般の人たちに人生の最終目標はなんですか?と聞いたら、家族みんなが幸せで安定して健康で一生を終えることですという人が多いと思います。 

もちろん私たちも安定した健康な生活は送りたいと思います。

でも人生の最終目標は永遠の命を得ることなので、この世界の一般の人々とは少し違ってきます。

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神に倣って清い生活をする

エホバ神と聞いてどんな方を思い浮かべるでしょうか?
一番長く仕えて、そばでずっと見続けてきたイエス・キリストは、エホバのことを聖なる父と呼びました。
次にエホバと一緒に長く居た天使たちも、エホバ神のことを聖なる方と呼んで、清い方であるということを明らかにしました。

創造物を見ると、エホバがどんな方かということがさらにわかってきます。
例えば、地球上の水であったり動物であったり微生物を私たちが観察する時、そういったものが地球上の様々な不要なものや汚れたものや動物の死体をきれいに分解していく、また洗い流す作用があるとわかります。

こういったことを考えると、エホバはやはり清い清潔な方であるということが言えます。
そのような方ですから、創造物の1つとして造られた私たちに対しても、清さということに注意を向けておられます。

「皆さんを招いた聖なる方のように,
 何をするにしても聖なる人であってください。
 『あなたたちは聖なる人でなければならない。私は聖なる者だからである』と書かれているからです」。
 (ペテロ第一1:15,16)

「皆さん」と呼ばれているグループと「私」という登場人物が出てきます。
16節は、エホバ神が述べられたコメントになっています。
「皆さん」というのは私たち人間、特に神に仕える人たちを表していますが、その両者の関係はどういうものとなっているでしょうか?
文脈をたどって前の14節を見ると「従順な子供である皆さんは」と書かれていて、エホバ神と私たちは親子のような関係であることが分かってきます。
親であるエホバ神は、私たちが親であるエホバに似て聖なる清い者であるよう望んでいるということがはっきりと述べられています。

親が子供の服装を直している様子を思い浮かべてください。
親は子供の様々な身辺を清潔なまた整えられたものとすることに関心を払うのではないでしょうか。
なぜそのようにするのでしょうか?
1つには、子供の身体的な健康また精神的な影響というものが、清潔さと関係しているということを知っているからです。
不潔にするなら親は非難され、時には虐待していると通報されることがあります。
親であるエホバ神は、私たちのことを本当によく考えてくれて、私たちの健康的な部分とか身体的精神的な影響に益が及ぶように清潔で聖なる者であることを望んでいるのです。
エホバのその指示に従わないならば、私たちは親であるエホバに非難をもたらすことがあり得ることも心に留めておくことができます。

では私たちはこのエホバの願いに沿って、どのように清くあることができるでしょうか?
清さにも色々なものがあります。宗教的な面とか道徳的な面とか物理的な面が存在します。
今日は2つに絞って、私たちの身の回りの生活や身体という外から見える部分、そして体の中とか精神面という内的な部分に分けて考えてみましょう。

1つ目の身の回りの生活、外面的に見えるものについて、清さをどのように意識することができるのでしょうか?

これは育った環境とか国によってかなり異なった見方が出ます。
重要なのはどこかの国のということや衛生環境とかインフラに影響されるものでなく、エホバ神の観点で清さを考えていく必要があるということです。

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神を信じる どういうこと

日本人がよく勘違いする英語の表現に、「私は~を知っています」というものがあります。
例えばDo you know Mr.Trump?聞かれて、Yes!I khow Trump.と答えてしまう人が多いようです。
これはネイティブにはどう聞こえているでしょうか?
個人的に親しく知っている家族、親友、友人のイメージです。
では何と言ったらよかったのかと言いますと、I know about Mr.Trump.とかで答えれば、直接の知り合いではないこと、どんな人物か知っていることが伝わります。

では皆さんがもし神様について同じ質問を尋ねられたとしたら、どのように答えたいと思われますか?
I know about God.ですか。それともI know God,very well.と言うことができるでしょうか。
2番目の答えの方がずっといいと言えます。
神様のことを個人的によく知るようになる人に、とても良いことがあると聖書は教えているからです。
どんなことがあるのでしょうか?

「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,
あなたが遣わされたイエス・キリストのことを知る必要があります」。
(ヨハネ17:3)

神様は個人的に親しくなる人にぜひ永遠に生きてもらいたいと考えていることがこの聖句からわかります。
ではどの程度知っていると親しい間柄ということができるのでしょうか?
神様を信じていますと言うだけでは不十分です。
ヤコブ2章19節には「邪悪な天使たちも信じておびえています」。
でも親しい友達ではないですね。
マタイ7章21‐23節では「主よ,主よ,私たちはあなたの名によって…多くの強力な行いをしなかったでしょうか』と言う人たちが出てきます。
この人たちにイエスは「あなたたちのことは全く知りません」と答えています。
どうしてでしょか?
その人たちがやっていたのは勝手に行っていたことで、
イエスの評判を傷つけて貶めるようなことをしていました。
そのような人たちは決してイエスと親しい間柄にはなれなかったことでしょう。

では、エホバを親しく知るため私たちには何ができるでしょうか?
4つの提案があります。

1.聖書を読むことを習慣にする
エホバについての情報の多くは、聖書のこの聖書の中に書かれています。
小説などを読むとき、登場人物がどのように考え決定して行動していくか繰り返し読んでいくと、日常生活の中で経験した出来事で、あの人物だったらこういう風にきっと考えて行動するだろうというのが何となく考えられるようになってきます。
神様についても同じことが言えます。
ですから私たちは、次の詩編作者が述べているような読み方をしていきたいと思います。

「私はヤハが行ったことを思い出す。昔あなたが行った驚くべきことを思い出す。
あなたの全ての行いを思い巡らす。あなたが行ったことをじっくり考える」。
(詩編77:11,12)

ヤハというのはエホバの名前の短縮形です。
そのことを「思い巡らす」とか「じっくり考える」といった表現が出てきます。
聖書を読むとき、エホバについてどんなことがわかるだろうかとじっくり思い巡らしながら読んでいくことにしたいと思います。

2.エホバに見習うように努力する
特に何かを決定するような場合そのようにしたいと思います。
エホバならこの場合どう考えるかな?
どのように行動したらいいかな?と考えるようにします。
エホバは私たちの生き方にアドバイスをしてくださる時があります。
それはどうしてなのでしょうか。

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どうすれば将来を知ることができますか

ある女性が英国のテレビ局に電話をかけて、「嵐が近づいていると聞いたのですが」と問いかけました。
天気予報士の担当者は「ご心配なく、そのようなことはありません」とテレビを通して視聴者に回答しました。
ところがその夜にイングランド南部は恐ろしい嵐に見舞われます。
1500万本もの樹木が倒されて19人の死者が出て14億ドルを超す被害が残りました。

私たちの多くは毎朝、天気予報を見たり聞いたりして、その日に何を着るのか、傘は持ってった方がいいのかということを決めます。
その日1日の将来に備えるということです。
将来が確実に分かっているならば、どのようにこれから生きればいいのかという方向性というものが見えてきます。
先ほどのテレビ局からの情報も、夜には嵐が来ますと正しい情報が伝わっていたのであれば、昼間のうちに嵐に対応する備えをすることができていたはずなのです。

こんな映画やドラマを見たことないでしょうか。
将来を知る謎の男が現れて「2030年11月16日にとんでもないことが起こります。それを避けるためその日は外に出てはいけない」と警告だけして去っていきます。
その言葉を信じてカレンダーに印をつけます。
その日有休を取って休みを取ったんですけども、会社から呼び出しが来ます。「絶対に予約が取れないというレストランの予約ができました」食事の誘いです。

私たちの将来を教えてくれるその謎の男がいるとしたら、話を聞いてみたいと思いますか?
自分の将来を知りたいと思いませんか?

「最初の事柄はすでに起きた。 今,私は新しい事柄を告げている。それらが生じる前に,あなたたちに知らせよう」。
(イザヤ42:9)

「最初の言葉はすでに起きた」とあるように、すでに成就した言葉が沢山あることがわかります。
そして「新しい事柄」これから生じることを私たちに知らせようとしていることがこの聖句からわかります。
謎の男というのは、唯一の神エホバのことです。
過去においてエホバの語られた言葉は必ずその通りになって、将来に起こる事柄に関しては聖書を通して私たちに知らせてくださっているということです。
私たちはそれを調べて、それに備える行動ができるということなのです。
今日は私たちに関係があるダニエル2章の預言、すでに起きた事柄、これから起きる事柄をお伝えしていきたいと思います。

この預言は約2600年前に語られたもので、そこに記されているバビロンは現在はイラクの辺りにある地域になり今は遺跡となっていますが、当時は世界の世界強国として大きな影響を持っていました。
このバビロンに語られた預言の書き出しはこのようになっています。

「ネブカドネザルは治世の第2年に,何度か夢を見て心が落ち着かず,眠れなくなった」。
(ダニエル2:1)

どんな夢だったのでしょうか?

「王は巨大な像をご覧になりました。
その像は非常に大きく,まばゆい輝きを放ち,あなたの前に立っていました。
恐ろしい姿でした。
像の頭は純金でできており,胸と腕は銀,腹とももは銅,すねは鉄,足は一部が鉄,一部が粘土でできていました。
あなたが見ておられると,1つの石が人手によらずに切り出され,像の鉄と粘土でできた足の所を打って,粉々に砕きました。
その時,鉄も粘土も銅も銀も金も全て粉々に砕けて,夏の脱穀場のもみ殻のようになり, 風に運び去られて跡形もなくなりました。
そして,像を打った石は大きな山となり, 地上全体に広がりました」。
(ダニエル2:31-35)

(さらに…)

友を賢明に選んでください

皆さんは友達が多い方でしょうか?少ない方でしょうか?
友達については色んな意見があります。
多ければ多い方が良いという人もいますし、逆に友達は要らないという人もいます。
多い方が良いと思う人は、友達が多いことによって、自分が色んな経験ができたり、色んな考え方を知ることができるので、それで自分が成長できるという考えです。
逆にいらないと思う人は、人間関係で煩わされる自分らしくマイペースで生きていきたいと考えます。

確かに友達は良くも悪くも影響を与えます。
そのことは聖書にも書かれています。

「賢い人たちと共に歩むと賢くなり,愚かな人たちと関わり合うと苦しい目に遭う」。
(格言の書13:20)

「愚か」に当たる書かれた元の言語であるヘブライ語では、道徳的に分別がないという意味があります。
それで逆の「賢い」は分別がある、的確な判断ができるというわけです。
それで賢い人は的確な判断ができる人なので、そういう友達がいると、自分も的確な判断ができるようになっていきます。
また的確な判断の結果も知ることができます。
逆に愚かな人は的確な判断ができない人と言えます。
そういう友達といると、自分も的確な判断を下しにくくなりますし、その良くない結果に巻き込まれてしまうケースがあり得ます。
良い友達を選べば良い影響を受け、悪い友達を選べば悪い影響を受ける。
そういう風に聖書ははっきり述べています。

聖書には良い友達の価値を認めていた人の例も書かれています。
その1人がダビデ王です。
イスラエルの王様ですけれども、こんな詩を書いています。

「牢獄から私を連れ出し,あなたの名を賛美させてください。
私の周りに正しい人が集まりますように。
あなたは私に親切にしてくださるからです」。
(詩編142:7)

「牢獄」とは何のことでしょうか?
142編の表題に「洞窟に行った時のダビデによる」と書いてあります。
洞窟から連れ出してほしいという歌だったということです。
なぜ洞窟にいたのでしょうか?
この時ダビデはまだ王様ではなく、前の王様のサウルに命を狙われていて、洞窟に潜んでいたという時です。
命を狙われているその理由も、ただサウロの嫉妬心から命が狙われていました。
皆さんだったら、そのような状況でどんなことを願いますか?
洞窟から出してくださいと思うのではないでしょうか。
ダビデもそうでした。そう書いています。

さらに何を願うでしょうか?
あのサウルをなんとかしてくださいとか、もう人間不信になったので、しばらく1人にさせてくださいと願うでしょうか。
「正しい人が集まりますように」つまり、良い友達が欲しいと願いました。
「あなた」エホバ神を賛美したいので、友達が欲しいと言いました。
ダビデはこのような歌を歌えるほど、エホバ神を友達としていました。
エホバ神を友達とし続けるためにも、自分の周りに良い友達が欲しいと願っていました。
どうなったでしょうか?
ヨナタンという友達がダビデを訪ねてきました。
そしてエホバ神への信頼を強めるように助ける励ましの言葉を述べています。
悪い友達からの悪い影響についても聖書は詳しく書いています。

「だまされてはなりません。悪い交友は良い習慣を台無しにします」。
(コリント第一15:33)

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親としての責任と喜び

初めて自分の子供を腕に抱く親には、相反する感情が湧き起こると言われています。

イギリスのある父親は「深い喜びと感動を覚えました。しかし同時に圧倒されそうなほどの責任を感じ、自分には心構えが十分にできていないと思いました」と言っています。

アルゼンチンに住む1人の母親は、「幼い娘が必要としていることを満たしてあげられるかどうかと心配でした。この子を責任感のある大人に育てられるかと考えました」と言っています。

子育て経験のある人であれば、こうした親の喜びや不安に共感を覚えるのではないでしょうか。

確かに子育ては人が取り組める仕事の中でも大きな労力が求められます。そして充実感もありまたもどかしさを感じることも多いでしょう。

「子育ては1回限りの勝負だ」と言う人もいます。

ですから良い親になるための信頼できるアドバイスが欲しいと感じるはずです。

しかし私たちの周りを見てみると、それを難しくする状況が見られます。

多くの国では、子育てのアドバイスを専門家に求める親は少なくありませんが、

述べるアドバイスも、その専門家によって意見が分かれています。

その意見も時代遅れになってしまうという流れもあります。

最近では同年代の友達やソーシャルネットなどにアドバイスを求める若い親たちが多いようです。

信頼できるアドバイスをどこに見い出せばよいのでしょうか?

どうすれば子供をしっかり育てることができるのでしょうか?

人間のアドバイスがあてにならないということを考えてみると、他のところに求めるしかありません。

人間の創造者であり、子育てについてまた子どもたちのことを一番よく知っておられる方にアドバイスを求めるのは、理にかなったことではないでしょうか。

「あなたを救う方,イスラエルの聖なる方,エホバはこう言う。

 『私エホバは,あなたの神である。

  あなたのためになる生き方を教え,あなたを導いて正しい道を歩ませる。

  あなたが私のおきてに注意を払いさえすれば!

  そうすれば,あなたの平和は川の流れのように豊かになり,

  あなたの正しい行いは海の波のように多くなる」。

  (イザヤ48:17,18)

本当に人間の造りをご存知である方に教えてもらいその道を歩むのならば、私たちはしっかりと子どもを育てていくことができるのです。

ではベストを尽くして子どもを育てるためのどんな指針をエホバは親に与えてくださっているのでしょうか?

まず親としての責任を理解していなければならないということを、エホバは教えてくださっています。

親にはどんな責任があると聖書は述べているでしょうか?

「子供はエホバからの財産,子は神からの贈り物。

  若かりし時の子供は,靱な人の手にある矢のようだ」。

 (詩編127:3,4)

私たちは自分で生命を作り出すことはできません。命の源はエホバです。

ですから子供は貴重な託された「財産」であると述べられています。

皆さんは、貴重な財産を預かったならばどうするでしょうか?

それを本当に大切に扱うのではないでしょうか。

またそれを託した人は、それをどのように扱っているかまた大切にしているかということに注目するのではないでしょうか。

エホバも、親が子供たちをどのように育てるか、その命と将来に深い関心を持っておられるということがこの聖句からわかります。

エホバからの財産ですから、親はエホバの前に子どもをどのように育てたか明らかにする責任があるということをはっきりと認めておかなければなりません。

子供を産む親は、大きな責任を引き受けてそれに応じて育てていく務めがあります。

「もしもある人が,自分の家族,特に一緒に住んでいる人たちに

(さらに…)

『世の人々』のようではなかったキリストに倣いましょう

パリ・オリンピックも終わり、人々の関心も国内の
色々なスポーツに向くようになっていますが、皆さんは如何でしょうか。

もし何かのスポーツで成功したいと思うならば、自分だけの力で
試行錯誤を繰り返してトレーニングをすれば上手く行くと思うでしょうか?
恐らくそうではないと思いますね。
その分野で成功して、しかも名のある人となっている人に
コーチに付いて教えてもらえば成功の近道になるのではないかと
考えるのではないでしょうか。

同様に、この世の人々のようではなかったという点で成功して、
名のある人となると、それはイエス・キリストということになります。
ですから、この世の人々のようではないという点で成功するためには、
イエスの手本に倣うことが1番の道といえます。

「私が世の人々のようではないのと同じように,
 彼らも世の人々のようではありません」。
  (ヨハネ17:16)

世の人々のようであってはいけないのはなぜなのでしょうか。
世の人々とは、神に仕えてない人という意味になるでしょう。
この世の中は誰がコントロールしているのでしょうか?

「私たちが知っている通り,私たちは神から出ていますが,
 全世界は邪悪な者の支配下にあります」。
 (ヨハネ第一5:19)

ですから、全世界のコントロール者は悪魔サタンということになります。
私たちのこの世界の背後には、サタンが糸をを引いてるということですね。
サタンは自分の考え方とかまた性質に人々倣わせようとしている、
そういう力がこの今の世の中に満ちていると言えるのではないでしょうか。
聖書の中にあるエホバの基準と正反対のことをさせようと人々をそういう力がしているので、世の人々のようになってはならないとイエスは教えられました。
ですから何もしないならば、世の人々のように神に仕えないという
サタンの意のままに生活するようになるということです。

私たちはそういう状態の中に住んでいるので、
世の人々のようにならなかったイエスの模範に倣うということは、
本当に大切なことと言えるのではないでしょうか。
では、イエスはどういう方なのでしょうか?

「イエスは,人々が自分を王にするために捕らえに来ようとしているのを知り,
 ただ独りで再び山に去っていった」。
 (ヨハネ6:15)。

イエスは政治に関わらなかったということになるでしょう。
ですから、私たちも政治に関わらないようにしたいと思います。

「しかしイエスは言った。
『キツネには穴があり,鳥には巣がありますが,
 人の子には自分の家がありません』」。
  (マタイ8:20)

ここから所有物といったものをイエスは多く持たなかったことがわかります。
ですから、私たちも神の王国を第一にして、
今あるもので満足するような自己訓練をする必要があるでしょう。

「私はもうあなたたちと多くは語りません。
 世の支配者が来ようとしているからです。
 もっとも,その者は私に対して何の力もありません」。
  (ヨハネ14:30)

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忠誠の道を歩む

忠誠という言葉は、あまり普段日常生活では使わない言葉かもしれません。
新世界聖書の改訂版とか出版物では、
忠誠という言葉が色々な言葉に置き換えられることがあります。
1つは高潔という言葉です。
皆さんは高潔な人,高潔な生き方と聞くとどんな感じがしますか?
高潔さの逆の反対語は卑劣という言葉です。

高潔な人は、人前とプライベートな時にしてることは
あまり食い違わないような努力をしているかもしれません。
人前で立派なことを言うのであれば、
誰も見てないところでも立派に行動したいと思い、
その人がいないところでもその人の悪口は絶対言わないようにしよう!
これはまさに高潔な生き方ということができますね。
卑劣な人はどうでしょうか?
その人がいるところではいい顔するけどいなくなったら悪口を言うとか、
みんなにいい顔して実は嘘をついているということを聞くと
卑劣だなと感じるかもしれません。
忠誠の道を歩むということには、道徳上の健全さという意味があります。
誰が見てもいつ見ても正しいという、生き方が関係しています。

この忠誠の道には、権威ある人に従うという意味も含まれています。
最も権威ある方は創造者エホバなので、
神に従うという意味も忠誠、高潔さには含まれています。

そして忠誠には、心の正しい動機も含まれています。
ある旦那さんが、奥さんに素敵な宝石のプレゼントをします。
とても喜ぶんですけれど「どうしてくれたの?」と聞いてみたら、
「最近君、年取ってきたから、これプレゼントして、
もうちょっと若返ってほしいなと思った」、どうでしょうか。
最初はすごくいいプレゼントだったのに、
動機を聞いた途端にそのプレゼントはもう要らない
そういう気持ちになったかもしれませんね。
高潔さには常に正しい動機も含まれます。
良い行いと内面の正しい動機が常に一致している状態。
これもストレートで高潔なイメージがあるのではないでしょうか?
聖書を学ぶクリスチャンは、イエスが言った心と魂と思いを込めて
エホバを崇拝しエホバを愛するという生き方も高潔だということがわかります。

忠誠がどんな意味が少し皆さん掴めたでしょうか。
まっすぐで、裏表がなくて、
正しい清い生き方ということができるかもしれません。

この高潔な生き方を続けるために、聖書はどんなアドバイスをしていますか?

「非難されるところがない生き方をする人は幸せだ。
その人はエホバの律法に従って歩む。
神の教えを守る人は幸せだ。
その人は心を尽くして神を探し求める。
不正を行わず,神の道を歩む」。
(詩編119:1-3)

高潔な生き方をする人は、いつも神の教えを調べて
それを守ろうとする人だということがわかります。
日毎に、エホバはどういう方か聖書には何が書いてあるかを研究して、
その知識をどんどんと蓄え、それを生活で実行していく人です。
そして聖書のアドバイスは、生活のあらゆる面に関係しています。
人と話す時、1人でいる時、結婚する時、仕事を選ぶとき、
聖書は私たちに正しい考え方を教えてくれます。
そして高潔な人はそれに従って決定していきます。

(さらに…)

心配事があるときにどうしたらよいか

心配事という言葉には、心に掛けて思い煩うこと、不安に思うこと、これから先のことが気懸りで心を悩ませるという意味があります。
この点で心配事のない人は1人もいないのではないでしょうか?
「終わりの時代は困難で危機的な時になります」。
(テモテ第二3:1)
それで沢山の不安、心配事があると思います。

例えば、物価が上がっています。
電気、水道、ガスなどの光熱費も上がっています。
買い物に行くと精算の時、前と比べるとだいぶ値段が上がっているといつも感じるのではないでしょうか。
うまい棒が以前は10円でしたけれども12円に値上がりし、今度は15円になると言われています。

私は至って健康ですと言える人は少ないのではないでしょうか。
大なり小なり健康の問題を抱えています。
病気が重篤であれば心配や不安は増していきます。
自分だけではなくて、家族とか周りの人も心配になります。
今は高齢化社会ですから、介護の問題もあります。

地球の温暖化というものもあります。
今年は本当に暑かったと皆さん感じているのではないでしょうか。
猛暑とか酷暑という本当に暑い日々を過ごしました。
自然災害も増えています。
地震とか津波とか豪雨災害というのもあります。
石川県の能登地方では、1月に大地震があって被害を受け、
仮設住宅に移動した方もいましたけれども、
また9月に豪雨災害がありました。
床浸水をしてしまったという人もいました。

家族の問題などで心配することもあるかもしれません。
ネガティブな感情と闘っている人もおられます。
理由は人によって様々かもしれません。
ではその心配事を私たちどうしたら良いのでしょうか?

「心配事を全て神に委ねましょう。
神は優しく気遣ってくださるからです」。
(ペテロ第一5:7)

心配事を全部神に委ねることができるということです。
エホバ神は私たちを優しく気遣い、心配事に押し潰されないように助けてくださるということです。
エホバがどのように助けてくださるのか、そして私たちはどのように行動することができるのかを考えていきたいと思います。

1.神は平和な心を与えてくださる

「何も心配せず,いつでも祈り,祈願を捧げ,
感謝しつつ,願いを神に知っていただくようにしましょう。
そうすれば,神からの平和が,
キリスト・イエスを通して皆さんの心と考えを守ります。
その平和は人間の理解をはるかに超えています」。
(フィリピ4:6,7)

心配事を全て神に委ねることができます。
気懸りなことそしてどんな気持ちでいるかということを祈って神に伝えたいと思います。
そうするならばどうでしょうか?
「人間の理解をはるかに超えている」という表現は、私たちのあらゆる夢より素晴らしいとか人間のあらゆる計画より優れたと訳されます。
パウロは神の平和が想像をはるかに超えた 素晴らしいものであると言っていたのです。
人間の目には出口がな見えない状況でも、エホバは解決策をご存知で、私たちの思いもよらない仕方で行動してくださるということです。
エホバは、平和な心を与えてくださるということです。

「力を与えてくださる方のおかげで,
私は強くなり,どんなことも乗り越えられます」。
(フィリピ4:13)

試練に耐えられるよう必ず強くしてくださることを理解することができます。
状況を変えてくださることもあるということです。

(さらに…)

自分のためだけに生きるのではなく神に喜んでもらえるように生きる

自分の好きなように生きるという考え方が広がっています。
確かに、誰も人に自分の人生を決められたいと思いません。
自分の意思で生きていきたいと考えるのは自然なことではないでしょうか。

とはいえ今の世の中では、神のことなど全く考えないで、
自分勝手に生きようという態度が広く見られています。
その態度は、神に反逆した天使、悪魔サタンから始まって、
私たちの住む社会に深く浸透しているからです。
聖書のエフェソス2章2節では、そのサタンの精神態度が「空気」に例えられています。
文字通りの空気が私たちの住むどこにでもあるように、
自分の好きなように生きるという精神態度も、私たちの住む社会に深く浸透しています。
その結果多くの人は、誰にも指図されたくないとか、
自分の権利を勝ち取ろうという態度を示しています。
権威に反抗したり、勝手気ままに生きようとしたりしています。
結果を考えずにしたいことをしようとする人々もいます。

皆さんどう思われるでしょうか?
自分のためだけに生きることは、本当の自由や幸せにつながると思われますか?
神の言葉聖書は、人生に2つの生き方しかないことを知らせています。
1つは、自分のためだけに生きるという生き方。
もう1つは、神に喜んでもらえるように生きるという生き方です。
今日は、神に喜んでもらえるように生きるために何ができるか、
聖書を開いて考えてみたいと思います。

聖書を調べていくと、神とイエスの助けがあって初めて本当の自由が得られることがわかります。
多くの人は自分は自由だと思っていますが、実はそうではありません。
どういうことでしょうか?
人間はみんな生まれつき悪いことをしてしまう傾向があります。
ボールが坂道を自然に転がっていってしまうかのように、
誰かの助けがなければ、罪深い傾向へと誘われてしまうということです。
この状況が非常に深刻であることについて、聖書は次のように述べています。

「皆さんは次のことを知らないのですか。
自分を奴隷として誰かに差し出して従うなら,
従う相手の奴隷になります。
罪の奴隷となって死へと導かれるか,
従順の奴隷となって正しいことへと導かれるか,
どちらかなのです」。
(ローマ6:16)

奴隷という言葉を聞いて、どのように感じられるでしょうか?
多くの方は不快に思われるに違いありません。
主人に束縛されていて自由ではないからです。
でも今読んだ聖句では、私たち人間が罪の奴隷となって
死へと導かれてしまう状況であると教えてくれています。
多くの人は、自分が罪に縛られているという意識を持っておられないかもしれません。
自分が罪人として生まれた、罪を受け継いでいるという意識を持っていないということです。
自分が間違いをすることや好ましくない傾向を持っていること、
また何度か悪い行いをしてしまったこと、
他の人も同じ状況であるということに気づいています。
しかし、なぜ自分も他の人もそういう状況なのかを十分に理解していないということです。

(さらに…)

エホバの救いの力に信頼を置きなさい

今日のテーマは、一言で言えば救いです。対象は全人類です。
しかし、災害下にあるとか犯罪に巻き込まれていない限り、
あなたは救われますという風に言われて悪い気持ちはしないにしても、
一体何から救われる必要があるのか?と疑問が湧き起こってきます。
何から救われ、この点について聖書は何と述べているか?
始めにこのことを考えたいと思います。

「その時,世界の始めから今まで起きたことがなく,
いえ,二度と起きないような大患難があるからです」。
(マタイ24:21)

人類はこれまで経験したことがない大患難に遭遇すると予告しています。
今でさえ世界は混乱の極みにあると言われています。
この大患難が始まれば、もっと混乱することでしょう。
その時、人々に救いをもたらすものは何でしょうか?
頑丈なシェルターがあれば安全は確保されるでしょうか。
どんな頑丈なシェルターであっても、安全が確実に保障されることはありません。
私たちにとって唯一恒久的な救いを得られるものは、エホバの力です。
このエホバの力に絶対的な信頼を置く必要があります。
でもエホバ神に私たちを救う力があるとどうして分かるのでしょうか?
エホバ神は過去に、ご自分に救いを求める者たちに力を表明されたことがありました。
その例を2つ取り上げてみたいと思います。

まず最初は、モーセの後継者ヨシュアの時代のギベオン人の場合です。
約束の地であるカナン征服に向けて、
イスラエルの攻撃はとどまるところがありませんでした。
そのイスラエルの征服を阻止するため、カナンでは5人の王が結集しました。
しかしギベオン人はそれに加わろうとはしませんでした。
彼らはイスラエルをとても恐れていました。
恐れていたとしてもそれは軍隊ではないです。
イスラエルの背後にいるエホバ神を畏れていました。
エホバを敵に回せば絶対に勝ち目はないということを理解していました。
彼らはここで強かな計画を立てます。
ヨシュアに近づいて、偽装工作で自らの正体を隠したまま、
イスラエルと和平契約を交わすことに成功したのです。
そのことを知った5人の王たちは裏切り者を討取ろうと再び結集します。
その場面でギベオン人は急いで和平契約を結んだヨシュアの所に行きます。
ヨシュアは約束をしましたので、彼らを救うべくイスラエルが救出に向かいました。

エホバはこのような状態でどのようにこの事態に介入されたでしょうか?
ヨシュアはイスラエルの軍隊と共に夜を徹して敵に近づいていき、
電光石火の不意打ちを掛けます。
(ヨシュア10:8,9)
するとエホバは敵の陣営を大混乱に陥れました。
それによってイスラエルの剣の前に倒れた者は本当に大勢いました。
その中から逃げ出す者もいましたが、エホバはその逃げる者たちに対して、
空から大きな雹を降らせます。
仮にこの雹の大きさが野球ボールぐらいの大きさがあった
としたら、それは落下速度は140キロにもなるそうです。
プロ野球のピッチャーが投げる速度に相当する雹が
一斉に飛んでくるわけですから、本当に一溜りもありません。
実際イスラエルの兵士によって倒れた者たちより、
雹の石によって倒れた者たちの方が多かったと聖書の中には書かれています。
(ヨシュア10:10,11)

(さらに…)

世界は滅んでしまうのか

今はストレスの多い時代と言われています。
コロナウイルスによって生活が一変した人々も多く、
鬱病になってしまったという人が多いという報告もなされています。
また日常の生活の中でSNSをよく利用し便利なものですが、
それを通してなされる誹謗中傷などが一般化して、
今までには感じたことのないストレスを抱えている人も増えてきました。
社会全体がストレスに満たされているような状態になってしまいましたので、
自分自身の感情をコントロールできず、
不安の捌け口として怒りを爆発させる人も増えているそうです。
虐待とか些細なトラブルが原因で簡単に人の命を奪ってしまう事件は世界中で増えています。

こういった様子を見て決して少なくない人々が、
人間自らの愚かな行動でこの世界が滅んでしまうのではないかと真剣に悩んだり不安に感じています。
今の世界はこれから先どうなるのでしょうか?
多くの人々はその答えがわからないので不安に感じています。

世界で1番読まれている書物の中に登場してくる
エホバという神が世の中に対して滅びをもたらすという言葉が聖書の中にあります。
聖書に親しんでいる多くの人たちがその言葉を見て、
これから先、神によって私たち人間は処罰されるのではないかと考えている人もいます。
では神は何を滅ぼすと言っているのでしょうか?
その滅びはいつ、どのように来るものなのでしょうか?
聖書に書かれているその言葉を紐解いていきたいと思います。

神を信じている人は少なくありませんが、今の世界の悪い状態を見て、
神はいるとは思うけれどもう人間には関心を持っていない、
滅びるとしても神はそこに介入されないと考えている人もいます。
エホバは人間に対してどのような見方を持っているのでしょうか?

「神はその目で見る。注意深い目で人々を調べる」
(詩編11:4)
「エホバの目はあらゆる所にあって,悪人と善人を見ている」
(格言の書15:3)

エホバ神は確かに人間に関心を持っておられて、
1人1人の様子を注意深く観察しているということがわかります。
人間が今置かれているその現状、多くの苦しみを味わっている人間を見て、
エホバはきっと心を痛めているに違いありません。
エホバはその現状を終わらせるために、
そういう状況を引き起こしている悪人と呼ばれている人たちに対して行動を起こされることが詩編の中に書かれています。

「非難されるところがない人に注目し,
 正直な人に目を留めよ。
 その人には平和な将来が待っている。
 しかし,違反を犯す人は皆滅ぼされ,
 悪人の将来は断たれる」。
  (詩編37:37,38)

違反を犯す「悪人の将来は絶たれる」とはっきりと述べておられます。
これがエホバが悪いことをする人々に対するエホバの見方です。

しかし、今の世の中どうでしょうか?
悪人がやりたい放題で、世界中が混乱に巻き込まれているようにも感じます。
ではこれほど悪人が幅を利かせているのに、エホバはなぜ手を下さないのでしょうか?
そこには悪魔サタンが関係しています。
6000年以上前サタンはエホバだけが持っている権力を手に入れようと企んで、
最初の人間を騙してそれは成功し、人類を自分の配下に置くことになりました。
サタンはエホバの統治の仕方にクレームをつけました。
人間はエホバに従っていかなくとも、
その統治に頼らなくてもうまくやっていけると主張したのです。
エホバが正しいのか、サタンが正しいのか、
全ての者が納得できる答えを得るためにはどういう方法が1番良いでしょうか?

(さらに…)

いつまでも若々しくいつまでも健康にという言葉をよく聞きますが、いつまでも幸せに暮らせる時が来ると思われますか?

そんなことは無理だと感じますか。この世の中でいつまでも暮らしたいとは思わないでしょうか。

仮に今と違って病気になったり、年を取ったりしないで、世の中も安心して暮らせる環境だったらどうですか?

これは聖書の言葉なのですが、将来についてこのように予告しています。

詩編 37:29「正しい人は地上に住み続け(地球が与えられ),そこで永遠に暮らす」。

いつまで暮らすとありますか?

これは悪い人がいない世の中で、いつまでも幸せに暮らせるということです。

御自身も含め、大切な人にはいつまでも健康に安心できる環境で幸せに暮らして欲しいと思いませんか。

この言葉を絵にするとこんな感じかもしれません。

https://wol.jw.org/ja/wol/mp/r7/lp-j/lffi/2021/38

若々しく健康で、ゆっくり美しい自然を満喫したり、可愛い動物と穏やかに戯れたり、マイホームを設計して建てたり、美味しい食物を収穫しています。どれかいいと思うものがありますか?

聖書はこういう将来が必ず来ると予告しています!

この明るい将来の希望を知って気持ちが前向きになったという人が多くいます。そういう気持ちにさせる聖書がどんな本なのか、もう少し詳しく知りたいと思われませんか?

https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=1102021811&srcid=share

このテキストに沿って会話をしながら,聖書の教えを少しずつテーマごとに学べたらいいと思いませんか?

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