真理を見つけることはできる

今、私たちの時代にはたくさんの情報が溢れています。そのため正しい情報であったとしても、それを信用できず疑ってしまう人が多くなってきています。

それはどうしてでしょうか?

皆さんはこれまでこういった経験をされたことはないでしょうか。メディアの報道では絶賛されているのに、その他の情報媒体ではあまり良い報道がされておらず、一体どっちの方が本当の情報なのだろうか?

現代ではメディアが一部の情報だけを取り上げるような偏ったニュースの報道、混乱させることを面白がる人がフェイクニュースをネット上に流したりしています。

また何か大きな出来事などが生じると、何らかの組織や団体がそれを引き起こしたのではないかと、陰謀論を唱える人も多くいます。

最近ではAIの進歩によって、人間の暮らしが幾らか向上してきました。利点がある反面、本物と偽物との違いを見分けるのが難しくなってきています。

例えば、フィクションであることがわからないほどの精度で、実際に起こったかのような動画を生成したり、いるはずのない人を画像や動画の中に登場させたりもできます。

なぜ、これほどまでに人を惑わす情報が広まっているのでしょうか?その答えは聖書に記されています。

「邪悪な人々や詐欺師たちは,惑わしたり惑わされたりしながら,ますます悪くなっていきます」。(テモテ第二3:13)

ですからテレビやネットのニュース、SNSなどで見聞きする情報全てを鵜吞みにすることは賢いことではありません。どんな情報であっても、事実に基づいているかいつも注意深く調べていく必要があります。

間違っている情報がこれほどまでに出回っているということは、この世の中には真実と呼べるものはないのでしょうか?そんなことはありません。

地上に存在した人の中で最も信用できる情報を伝えたイエスは、真理は確かに存在し、私たちにも見つけることができると教えてくださいました。

「真理を知り,真理によって自由になります」。(ヨハネ8:32)

イエスは真理を知ることとそれによって得られる自由を関連させています。

ここで言う自由とは、悪いことへの恐れや絶望、抜け出すのが難しいと感じるような有害な習慣、迷信や死に関する間違った情報、挙げれば限がないかもしれませんが、こうしたものからの自由を指しています。

人の考え方や感じ方に良い影響を及ぼし、生活をより良いものにし、自由を得させる真理、イエスが教えている真理とはそういうものです。それを誰もが見つけることができるとここで約束してくださっています。

こういう真理を見つけたいとは思われないでしょうか。

真理を見つけるために役立つイエスの3つの言葉について考えていきましょう。

まずイエスは、真理をどこで得ることができるのかについてこう述べています。

「真理によって彼らを神聖なものとしてください。あなたの言葉は真理です」。(ヨハネ17:17)

神の言葉が真理であると言っています。これが真理を見つけるのに役立つ1つ目の言葉です。

神の言葉この神からのメッセージが真理であって、それは聖書の中にあるということをイエスは生き方で示されました。

ある時、敵対者である悪魔サタンから、自分の欲求を満たしたり神を試すような挑発的な誘惑を受けたことがありました。

神からのメッセージこそ真理であると確信していたイエスは、全ての誘惑に対し、神の言葉が収められている聖書を用いて、きっぱりと抵抗しました。

現在では私たちは、当時はまだなかった全巻揃った聖書を手にしています。当時よりもはるかに多くの神のメッセージに接することができています。

そもそも聖書は情報源として信頼できるのでしょうか?本当に真理なのでしょうか?聖書が信頼できるかどうか、どうすれば判断できるでしょうか?

本当のことをいつでも率直に話してくれて、約束したことをきちんと守る友人がいたとしたら、その人はあなたにとって本当に信頼できる人と言えるのではないでしょうか。

聖書もまさにそんな本です。歴史的にも科学的にも正確で預言されたことも全て実現していきました。

例えば紀元前8世紀に神の預言者イザヤは、バビロンという当時最強だった帝国が滅ぼされて、やがてそこには誰も住まなくなると預言しました。そして征服する人がキュロスという王であることやその戦略、攻める際には門が空いていて簡単に侵入できるといった細かいことまで予告しました。

およそ200年後、ペルシャの王キュロスがバビロンを攻撃しに行きます。都市の周りには川が張り巡らされていて、その川の流れを別の場所に迂回させて、開かれた門から侵入して、その都市をあっという間に滅ぼしました。

このバビロンは今どうなっているでしょうか?

このバビロンは現在イラクのバグダッド付近にあります。この場所は瓦礫の山で、全くの廃墟になっています。

聖書の預言が全て実現した1つの例と言えるでしょう。

聖書には、今の時代に生じることも予告されています。

私たちが暮らす今の時代が「終わりの時代」であること、人々の多くが自分やお金を愛していて、自慢ばかりし感謝せず自制心がなく、乱暴で簡単に人を裏切る非常に危機的な時代であるということを予告しています。

毎日のニュースを見ていても、まさに今そういう時代だと皆さんもお感じになるのではでしょうか。(テモテ第二3:1-5)

預言が当たったぐらいで、聖書の内容が真実だと言えるでしょうか?

最初は聖書に対し懐疑的だったものの、偏見を持たずに内容を調べてみようと思った人たちは大勢おられます。

ある男性は子どもの頃は聖書に接する機会がほとんどありませんでした。聖書なんて論理的でも科学的でもないし事実に基づいてないと思ってました。聖書や宗教は根拠のない感覚的なものだったんです。

大学でセラミック工学を専攻し卒業した後は親戚と暮らすようになったんですが、そこの人たちがエホバの証人と聖書の勉強をしていました。それで思っていることを言ったんです。「結局、聖書も好きなように解釈できるよね」。そしたらこう言われました。「一緒に勉強して、間違っているところを教えてあげたら」。「よし、やってやるよ」。

ある聖句が目に留まったのを今でもはっきり覚えています。詩篇37編29節で「正しい人は地上」「で永遠に暮らす」と聖書が言ってるのはとてもシンプルなことです。ほかに解釈のしようがありませんでした。まだこの言葉の通りだと思っていたわけではありません。でもこれが結構大きなきっかけになりました。書かれていることが正しいかどうか、まずは自分で確かめなきゃいけないと思いました。

聖書が科学的にも正確だと納得できた聖句があります。「神は北の空を何もない所に広げ,地球を空間に浮かせている」(ヨブ記26:7)3500年くらい前の言葉ですが、聖書は地球が空間に浮いていると書いています。科学者たちがこの事実を知ったのは、アイザック・ニュートンが地球は重力によって一定の場所に浮いていられると説明した今から300年ほど前のことです。こういうことから、聖書は科学的にも正しいと確信できました。

あと将来のことを前もって伝えています。世界強国の名前とか。他にも創世記から啓示の書まで内容が一貫しているのもすごいと思いました。そうやって学んだことを1つ1つ組み合わせて考えていくうちに、だんだん聖書に書かれていることこそ真理だと思えるようになりました。今は聖書の教えを受け入れることで、信念を持ったブレない生き方ができています。

聖書に親しんでこなかったり、偏見などネガティブな先入観があったとしても、多角的に聖書を調べて信じられる理由をたくさん集めていくならば、見方が変わり、聖書が神の言葉であって真理であると自信を持って言うことができるでしょう。

聖書は単なる歴史の本とか、神話や伝説を寄せ集めた本などでは決してありません。

まだ聖書をお調べになったことがないのであれば、神の言葉は真理と言えるかどうかをご自分で聖書を調べて、ご自分の目で確かめてみるのはいかがでしょうか。

皆さんは、知らない土地で道に迷ってしまって、誰かに道を訪ねた経験があるでしょうか。もし教えてくれた人がとても親切で、道を教えるだけでなくて、目的地まで一緒に行ってあげますよと申し出てくれたら、どう感じるでしょうか?

とても安心するのではないでしょうか。イエスもまさにその親切な人のようです。

イエスがご自分の弟子に述べた言葉から、イエスの重要な役割について大事なことが学べます。

「私は道であり,真理であり,命です。私を通してでなければ,誰も父のもとに行くことはできません」。(ヨハネ14:6) 

私は真理ですと書かれていました。これが2つ目に重要な点です。

ここでイエスは自分のことを真理であると言ったのはなぜでしょうか?そう言える2つの側面があります。

真理は神の言葉、聖書の中にあります。イエスはいつも神からの言葉を用いて人々を正しく教え、真理と調和した生き方をしていたので、自分が真理であると自信を持って言うことができました。

では、実際にその証拠を見てみましょう。

「次に,パリサイ派およびヘロデ党の人たちの何人かがイエスの所に遣わされた。イエスの揚げ足を取るためだった。この人たちは到着すると,イエスに言った。『先生,私たちは,あなたが真実を話す方で,誰の顔色もうかがったりしないことを知っています。あなたは人の外見を見るのではなく,真理に沿って神の道を教えているからです。カエサルに人頭税を払ってよいでしょうか,払ってはいけないでしょうか』」。(マルコ12:13,14)

これらの人たちは国家主義的な考え方を持っていて、真っ向からイエスに反対するいわば敵のような存在でした。その人たちでさえイエスのことを「真実を話す方」とか「真理に沿って神の道を教えている」と述べていますね。

敵たちでさえイエスが真実を語ると認めていたことは、イエスの生き方が誰が見ても神の言葉に基づいていたと分かるのではないでしょうか。

そしてイエスは全く偽善のない人で、誤った情報で人を惑わすようなことは決してありませんでした。イエスの死後使徒ペテロは、イエスは生涯中欺きを語ったこともなく罪を犯さなかったとも述べています。教えたことを自ら当てはめて実践する人としても知られていました。

このように、いつも真実を話し、神の言葉から正しく教え、教えたことを自ら実践していたので、自分は真理であるということができました。

聖書にはいくつもの預言が記されていますが、その中にはイエスに関するものも数多くあります。

イエスが生まれる何世紀も前に、エホバは聖書筆者たちを用いて、イエスの生涯の歩みや宣教、また死に関する具体的な預言を幾つも記させました。

当のイエスは、自分が死ぬまで神に中立であり続けるなら、それらの予言を全て実現することができて、エホバが真実を語る神であるということが証明されるとわかっていました。

1つ残らず成就しなければいけないという重圧がかかっていたわけですけれども、地上での生涯中のイエスのあらゆる言動によって、この預言が真理であるということがはっきりしました。1つ例を見てみましょう。

「ベツレヘム・エフラタよ,ユダの氏族たちの中で最も小さいあなたから,私のためにイスラエルで統治者になる者が出る。その者の生まれは古く,遠い昔にさかのぼる」。(ミカ5:2)

ミカ書は紀元前700年代に書かれた書物となっています。ここではイエスが生まれる場所について予言されていました。

どんな場所だったでしょうか?ユダ族の中で最も小さいとありました。確かにこの場所は人口は少なく、小さな村でした。

場所だけでなくそこがどういう土地なのか、生まれる前からこうしたことを操ることなど決してできないのではないでしょうか。

では、この予言はちゃんと成就したでしょうか。イエスの地上での活動を記しているマタイの書、少し開いてみましょう。

「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれた後…」(マタイ2:1)

イエスがどこで生まれたとあるでしょうか?イエスに関する預言はたくさんありますが、聖書に書かれているイエスの預言は1つ残らず全て実現しました。こうしてイエスは、エホバの預言の真実さを身をもって明らかにされたのです。

ここまで2つの側面、イエスが神からの言葉を正しく用いて人々を教え真理と調和し真理に従って生きたこと、聖書に書かれている自分に関する預言を全て成就させたことについて考えてきました。

こうした点をじっくり考えると、イエスは確かに真理であるということがはっきりわかるのではないでしょうか。

もしかしたらこの点以外にも、イエスが地上におられた時、どんなことを教えていたのだろうか?イエスが行ったことが私たちとどんな関係があるのだろうか?といったイエスに関する別の点についてもお知りになりたいと思われることでしょう。

それを知るために、来週の土曜日4月12日に行われる記念式にどうぞご出席なさってください。https://t.co/lINvJZukQZ

真理を見つけるのに役立つイエスの3つ目の言葉に注目してみましょう。

「とはいえ,真の崇拝者が聖なる力と真理に導かれて父を崇拝する時が来ます。今がその時です。実際,父は,自分をそのように崇拝する人たちを求めています」。(ヨハネ4:23)

真理に導かれて父つまりエホバ神を崇拝すると書かれていました。

これが3つ目の重要なイエスの言葉です。そのような人を神が求めているとも書かれていました。神の真の崇拝者と呼ばれるためには、神に喜ばれる仕方で、真理に基づいた崇拝をしなければいけません。

今日、沢山の宗教グループがある中で、真理そのものを愛して生き方としている、そんなグループを見つけることはできるでしょうか?

今日の話の1つ目に重要な点として、イエスは神の言葉は真理だと教えられました。真の崇拝者たちも、イエスのこの言葉を心から信じて、聖書を自分たちの信条や行動の基盤としています。不確かな人間の言葉などではなく神の言葉を真理として受け入れて、信仰を抱いて行動しています。またさらに2つ目の点として、イエスは自分が真理であるとも述べられました。真の崇拝者たちも、イエスの教えを受け入れてイエスの手本に倣い、しっかりついていくよう一生懸命努力しています。

例えば、どんな形であれ戦争に参加することは一切ありません。自分の国が攻撃を受けると、立ち上がって共に戦う風潮になることがあります。でも真の崇拝者たちは、そういった風潮には一切流されません。

またイエスが教えられたように、互いに愛を示し合います。見ず知らずの人、敵であったとしても相手が求めるものを与えることができるほどの広い意味を持つ愛です。この愛をイエスに倣って示すよう努力しています。

このようにイエスの教えを受け入れた生き方をしていますので、時に逮捕されたり、投獄されたり、死に直面することもありますが、それでも政治的に中立な立場を保ちます。

これほどまでにイエスの教えを受け入れて、イエスをお手本としているのはどうしてでしょうか?

イエスが「世の人々」つまり真理に沿った生き方をしていない人のようにはならなかったので、自分たちもそうしたいと決意しているからです。(ヨハネ17:14)自由を奪われたり、命が危ぶまれるような場面に面したとしても、この決意は揺らぐことはありません。

また真の崇拝者たちは、大々的に王国の良い知らせを他の人に伝えています。

西暦1世紀当時から、家から家を訪問して教える活動が行われてきました。現在、240の国や地域でこうした活動が行われています。全世界でこうした活動が行われているのは、この人たちが真理に沿った生き方を決意しているからには行いません。

では、この真理に導かれて神を崇拝しているのは一体誰でしょうか?それはエホバの証人です。

エホバの証人が、今いくつか取り上げたような点を含め、真理に導かれて熱心に父であるエホバを崇拝しているのです。今では900万人を超える人たちがエホバの証人として奉仕しています。

最初は懐疑的だった人もいます。

ある女性の家族は週末に必ず教会に行っていました。小さい頃から10代の頃まではいろんな宗派の教会に関わっていました。

自分が言っている教会が信用できないなと思ったことがあって、いつもそこでの説教がみんなを楽しませるだけのショーみたいになってました。聞いてるのは楽しいけど、帰ったら何か虚しい。1時間ぐらいの話の中で聖書の言葉が出てくるのは2、3回だけなんです。教えたことを実践しているわけでもなく、話すことはお金のことばっかりでした。

それに温かさとか愛も感じられませんでした。それでこう思いました。「聖書に書かれていることに合わせて生きようと努力している人たちがきっとどこかにいるはずだ」

エホバの証人と聖書を勉強したいとは思ってませんでした。怪しい宗教なんじゃないかな。独自の聖書使ってたり、変なことを教えたりしてるんじゃないかなって思ってたんです。

学校でエホバの証人の子たちと仲良くなって、集会に来ないと誘われました。最初はどうしようかなって思ったんですけど、結局行くことにしました。

何度も何度も聖書が開かれました。どの話も聖書が元になっていたんです。手を挙げてコメントをする人たちも、みんな聖書に書かれていることを発言に含めていました。

その集会である姉妹と出会って、聖書を教えてくれることになりました。

レッスンをしてわかりました。エオバの証人が信じていることはどれも聖書から説明できて jw.org  にも載っていて全部オープンです。独自の聖書があるんだろうと思ってましたけど、聖書レッスンでは私が持っている聖書を使ってもいいと言ってくれました。

そして会衆は温かくて愛が溢れてました。みんながお互いを大切にしています。どの会衆でも同じなのかなと思って、旅行ついでにいろんな会衆に行ったんですけど、どの会衆でも愛でいっぱいでした。

エホバのおかげで、ずっと探していたものを見つけることができました。

この女性は真理を本当に探し求めていた様子でした。誘われて集会に行ったことが1つの大きなきっかけでしたね。その集会で聖書が開かれて、コメントの中で聖書が用いられている様子を見て、考え方が少しずつ変わっていっていました。また平和、示す温かさとか愛がどの会衆に行っても溢れていたので見方を考え直すものとなっていきました。

もし皆さんの中にも、エホバの証人がどういう人たちなのかあまりよく知らないようでしたら、それらの人たちが真理に沿った生き方をしているかご自身の目で確かめてみてください。

真理は本当に貴重な宝です。時代や流行りや環境などに左右されることのない、何にも代えがたい宝です。

何か特殊な機械とか道具を持って山や海の中を探さなくても大丈夫です。お手元にある聖書を見るなら、

人はなぜ存在するのか。人はなぜ死ぬのか。どうすれば幸せになれるのか。こうした人生にとって重要な疑問の答えを知ることができます。

もしまだエホバの証人との聖書レッスンをされていないのであれば、ぜひともそうなさるようおすすめいたします。 https://t.co/REdyiKUiXa

真理はどんなに努力してでも手に入れる価値のある宝です。真理は、国籍も性別も年齢も誰を問わず確実に手に入れることができるものです。

あなたはどうされますか?

すぐにでもこの宝のような真理を見つけてください。この貴重な宝を見つけることを、エホバとイエスも私たちも心から願っています。