「温かな憐れみ」の模範

聖書ではエホバ神のことが様々な称号や呼び名で表現されています。

これはエホバがどんな方なのか、私たちがイメージしやすいように用いられている表現と言えるでしょう。

例えば、創造者と呼ばれています。全てのものを造った方とすぐにイメージできますね。

至高者という表現もあります。他に並ぶ者がいない、1番地位が高い方だということが分かります。

愛ある牧者とか教師と呼ばれている部分もあります。こういう表現を聞くと人間のことを遠くに見るあまり関心がない神ではなく、教えようとしたりお世話しようとしてくださっているもっと身近な方だとイメージしやすくなります。

今日の講演のテーマの温かな憐れみというのも、神に対して用いられることがある表現の1つです。

温かな憐れみの父と呼ばれています。愛情深い感じのイメージを受けます。

この憐れみというものをよく考えてじっくり調べてみると、エホバに対するイメージがもっとはっきりしたものになってきます。どんな魅力的な特質なのかを感じ取れるものになります。

それでまず、憐れみとは何なのか?憐れみの父と呼ばれるのにエホバがふさわしいと言えるのはどうしてなのか?それが私たちとどう関係があるのか?

こういう観点で一緒に考えていけたらと思います。

一般の辞書で憐れみという文字を調べてみますと、人の苦しみや悲しみに深く同情することと表現されていました。

難しい状況辛い状況にいる人に対して抱く同情心が憐れみだと説明されています。

聖書が言う憐れみは、この同情心だけのことではありません。一緒に聖書の表現から確認してみましょう。

詩編103編の表題と2節を見ると、ダビデは「エホバを賛美」したい思いになって詩を歌ったことがわかります。「神が行ったこと全てを決して忘れない」と言っていますので、神からしてもらったことへの感謝を持っていたので賛美したいという思いになっていることがわかります。

ではどんなことを感謝していたのでしょうか?

「神はあなたの全ての過ちを許し,あなたの全ての病気を癒やす。墓穴からあなたの命を取り戻し,揺るぎない愛と憐れみを示してあなたを尊ぶ」。(詩編103:3,4)

過ちを許してもらったり、病気を癒してもらったり、命が危うくなるような状況から救われるといった経験をダビデはしました。

そのことへの感謝の思いから、賛美したいという思いになっていったわけです。

注目したいのはダビデがエホバからの「揺るぎない愛と憐れみ」だと感じた点です。

このことからどんなことがわかるでしょうか?

憐れみというのは、ただ同情心として内側に感じているものだけではなくて、許しとか癒すといった相手のためになる行動によって表れるものだということです。

何とかしてあげたいという気持ちと助けるための行動が両方合わさった時に憐れみになるというイメージでしょうか。

この憐れみというのがエホバ神にとってどういうものなのか、主題の聖句も一緒に読んでみましょう。

「私たちの主イエス・キリストの父である神が賛美されますように。神は,温かな憐れみの父,あらゆる慰めの神であり」(コリント第二1:3)

ここでも書いたパウロは、神への賛美の思いがこの憐れみからもたらされているということを表明しています。

「温かな憐れみの父」となっています。

今でも、その分野の第一人者とか大きく発展することに寄与した人、それを初めて行った人のことを何々の「父」と呼ぶことがあります。

憐れみというものも、エホバがその第一人者、それを始めた方と言えるでしょう。元々エホバ神が持っている特質の1つだからです。

私たちが誰か辛い状況にいる人を見て同情心を抱くというのは、私たちがエホバと同じような特質を持つものとして造られているので、感じることができることです。

この憐れみを示すことも、エホバがまさにそのような方なので私たちもそうすることができるということになります。まさに憐れみの父と呼ばれるにふさわしい方はエホバだと言えます。

赤ちゃんはどんな存在でしょうか?

自分では何もすることができない、いつも助けが必要な状況にいると言えます。

できることといえば、お腹がすいたら泣くこと、お尻が気持ち悪くなったらやっぱり泣くことですし、嬉しくても悲しくても何かあったらできるのはもう泣くことだけになります。

そうすると母親はどうでしょうか?

赤ちゃんが泣いていると近くに行って、どうしたのかな?と言って抱きかかえたりします。

母親が赤ちゃんに対して持つ感情、これは本当に自然なものではないでしょうか。

助けを必要としている我が子のために何でもしてあげよう!優しい思いからそう思うものではないでしょうか。

私たち人類も、いわば自分では何もできないような存在かもしれません。

エホバの助けがあって初めて存在するようになりましたし、今も不完全な状態で生きていられるのも、エホバの支えがあるからです。

エホバは私たちのことを赤ちゃんのように自然な情愛をもって見てくださっていることを思うと、本当に温かい気持ちになるのではないでしょうか。

エホバは全人類に対して、分け隔てなく憐れみを示しておられると言えます。実際、私たちが住みやすい環境に地球を整えてくださいました。

また悪人にも善人にも太陽の光や雨を与えるということをしてくださっています。

母親が自分の子供に愛を示すのと同じように、私たちに対して憐れみ深く接してくださっているわけです。

1つのグループとしての憐れみを大きく示したこともあります。

古代イスラエル人は、エホバ神と特別な関係にありました。

律法契約というものによって結ばれていました。

エホバ神はこの契約を結んだイスラエル人に対して、あなたたちが私だけを神と認めて崇拝し続けるならば、支えて祝福を与えますということを約束しました。

それに対しイスラエル人も、あなただけを神と認めて崇拝し続けますということを約束したわけです。

こういう契約関係にありました。

その後の歩みはどんなものになっていたでしょうか?

契約を結んだ後も他の神に靡いてエホバから離れてしまうことがありました。約束していた契約をいわば踏みにじるような行動を取ったわけです。

エホバはそれにどう反応されましたか?

困っているイスラエル人を見ると、預言者や裁き人を遣わしたりして、自分との関係を取り戻せるように助けていきました。

実際的な援助を何度も与えていました。自分たちのせいで困って助けを求めてくるということもありましたけれども、それに応じて助けを与えていました。

本当に憐れみ深く接していると言えます。

そういうことが600年700年と続いた時に、預言者ホセアを通してエホバはこんなことも述べました。

「ゴメルは再び妊娠し,女の子を産んだ。神はホセアに言った。『その子をロ・ルハマ(憐れみを示されない)と名付けなさい。私はイスラエル国民にもう憐れみを示さないからだ。彼らを必ず追い払う』」。(ホセア1:6)

示していたこの憐れみもいわば限界があって、そこまで来たらもう憐れみを示さないと述べたわけです。もちろん何百年にも渡ってずっと示した後のことです。

無条件に全ての人に憐みを示し続けるわけではないこともこの事例からわかります。

限界とはコップに水を注いでいくと、やがて溢れてしまうようなイメージでしょうか?ここまで来たらもう憐れみを示さないというものなのでしょうか?

個々の人に対してどんな風に憐れみが示されたのか、ダビデの例を少し思い起こしてみましょう。

ダビデは大きな間違いを何度もしてしまったことがあります。

バテ・シバと姦淫を犯すという本当に大きい罪を犯しました。

しかもそれを隠そうとしてバテ・シバの夫であったウリヤが死ぬように画策するということもしてしまいました。

どちらも律法の規定によると自分の命を持って償なければならない間違いでした。

でもそれをエホバは許してあげました。

なぜ許してあげたのでしょうか?端的に言うならば、ダビデが心から悔い改めたからと言えます。

ダビデが気づけるように、エホバは預言者を通して助けました。そして気づいたダビデは心から悔い改めてエホバに祈りで伝えました。それによって、エホバは愛を示すことにされたわけです。

一定のところまで来たらもう許さないというイメージではないですね。

許したいという願いをまず感じることができます。

自分から働きかけて、預言者を通して気付けるようにしてあげました。それに応じて悔い改めた時には、すぐ憐れみを示されました。

エホバはいつでも憐れみを示せる根拠はないだろうかと私たち人類の心を1人1人を見てくださり、それに応じる可能性があったならば助け、実際に応じたならばいつでも憐れみを示す方だと言えるでしょう。

またダビデが罪を許された根拠の1つに、ダビデが以前にしていた行いもあったと思われています。

ダビデは自分の命を付け狙っていたサウルの命を許してあげたことがありました。憐れみ深くダビデが行動したわけです。

マタイ7章2節には「人を裁いているのと同じ仕方で自分も裁かれ」るとあります。エホバはこれをご自身に当てはめられました。

サウルに対してしたのと同じ仕方でダビデに裁きを行った。ダビデが憐れみ深くサウルを許したので、エホバもダビデを許すという憐れみを示されたというわけです。

根拠があれば進んで憐れみを示す方だということがわかります。

公正と憐れみのバランスの取れた見方を感じることができるのではないでしょうか。

このエホバの憐れみを同じように実践した人がいます。

イエスはエホバの憐れみをよく知っていたので、地上にいた時それをみんなに教え、自分でも手本として残しました。

どんなことを教えていたでしょうか。

「『私が望むのは憐れみであって,犠牲ではない』ということの意味を,行って学んできなさい。私は,正しい人ではなく罪人を招くために来ました」。(マタイ9:13)

イエスは憐れみと犠牲を対比して述べられました。

当時のイスラエル人にとって犠牲は崇拝の一部で大切にしていたものです。

毎年大祭司が捧げる大きなものも、日々の自分の間違いを許してもらいたいという思いで捧げる犠牲もありました。

イスラエル人であれば誰もがこれを行っていたわけです。それがエホバとの関係を維持するために欠かせない1つのものと考えていました。

それよりも憐れみの方が大切であるとイエスは言っていたわけです。

つまり憐れみを私たちが示すかどうかというのは、私たちがエホバとの関係を維持できるかどうかに大きく影響するというわけです。

先ほどのダビデの例もまさにそういうものです。

私たちが憐れみ深く接するとエホバも同じように接してくださるというわけです。

その動機の大切さにも注意を向けました。

「憐れみの施しをするとき,偽善者たちが人から称賛を受けようとして会堂や街路でするように,施す前にラッパを吹いてはなりません」。(マタイ6:2)

憐れみの施しというのは律法で求められていたものではないものの、当時のイスラエル人はとても大切にしていた習慣のようです。

困っている人に実際に物を施すことをしていました。

ここで偽善者と言われている宗教指導者たちも、文字通りラッパを吹きながら施しをしていたわけではないようです。

これは比喩として言っていました。つまりラッパを吹くという、自分に注目を集める行為として施しをするということがないようにと述べたわけです。

憐れみは純粋な動機で与えられるべきものだとイエスは教えたと言えます。

そもそも何とかしてあげたいという気持ちと実際の行動2つが合わさって初めて憐れみと言えました。

この何とかしてあげたいというこの同情心もとても大切になります。

憐れみの示し方についてはどうでしょうか?

わかりやすい例えをイエスが話されました。親切なサマリア人の例え話です。

強盗に襲われたユダヤ人の横を祭司とレビ人が先に通り過ぎていました。

きっと2人もかわいそうに思ったことと思います。でもその横を通り過ぎて行ってしまいました。

次に通ったサマリア人は、実際に傷をが治るよう手当てをしてあげるという行動もとりました。

傷を癒してあげた後、宿屋に連れて行って傷が治るまで世話がされるように備えることもしました。

忙しい中だったかもしれませんけれども、犠牲を払って憐れみを示したわけです。

こういう例え話をイエスが語ったことから、憐れみは必要最低限のことをすれば良いというものではなく、できるならば自分にできるベストを尽くして、何とかしてあげたい思いをしっかりとした行動で示されるべきだとイエスは考えていたと思われます。

イエスはまさにこの例え話で教えた通りにご自身も行動で示されたことがあります。

「重い皮膚病の男性がイエスの所に来て,ひざまずいて嘆願し,『あなたは,お望みになるだけで,私を癒やすことができます』と言った。 イエスはかわいそうに思い,手を伸ばして男性に触り,『そう望みます。良くなりなさい』と言った。 すぐに病気は消え,男性は良くなった」。(マルコ1:40-42)

男性が望んでいたのは、病気を癒してほしいという1点でした。

それに対してイエスはどうだったでしょうか?

もちろん病気を癒すことはしたんですけれども、この皮膚病の人に近づいて実際に触れて癒すということをしました。

当時この皮膚病は治療法がまだ分かっていなかったので、人から隔離されるという方法で処置がなされていました。

重い皮膚病になっていますから、もしかしたら何年も何十年も人に触れてもらった経験がなかったかもしれません。

自尊心がすごく傷ついていました。自分が皮膚病であるということを言いながら歩かなければなりませんでした。人々から避けられていました。

この男性の傷ついた心も癒したいと思ったイエスは近づいていって、実際に触れて温もりを伝えて癒されたわけです。

何とかしてあげたいという気持ちに基づく愛を必要最低限ではなく十分に表したわけです。

まさに憐れみの手本ということができるでしょう。

もう1つ違う場面も考えてみましょう。

イエスは宣教旅行をして毎日忙しくしていました。

もう食事をする暇もないほど人々が訪れてきていてとても疲れたことがあります。弟子たちも疲れてたので、寂しいところに行って少し休みなさいと述べました。

しかし、それで船に乗って海岸まで行って休もうとしました。対岸まで行ってみると、もうすでに人がいっぱい待ち構えていました。

休むつもりだったんですけれども、人々がまた押しかけてきていたわけです。この時どう反応したでしょうか?

「イエスは舟を下り,大勢の人を見て,かわいそうに思った。羊飼いのいない羊のようだったからである。そして,多くのことを教え始めた」。(マルコ6:34)

自分も疲れていました。でも人々の求めに進んで応じています。かわいそうに思って同情心を感じて、それを行動で表しました。

多く教えたとあります。ですから多くの時間をさらに取り分けて教えたわけです。本当に憐れみの手本ではないでしょうか。

癒し話すだけではなく、食事を備えるということもしています。

本当に何とかしてあげたいという気持ちに基づいて人を助けるための実際の行動をとっています。

エホバやイエスが憐れみを示したこうした事例を考えると、憐れみがどういうものか、より明確に理解することができます。イエスはこんなことも述べました。

「天の父が憐れみ深いように憐れみ深くありなさい」。(ルカ6:36)

ご自身で手本を示すだけでなく、私たちにも同じように憐れみを示すようにと述べたわけです。

憐れみ「深く」あるようにとありますから、示し方の程度についても、エホバやイエスに見習ってほしいと思っていたことがわかります。

どんな風にこれを当てはめていけるでしょうか?

エホバがダビデに対してしたように、人の罪を許すことができます。

自分に対して何か嫌なことをされたとしてもできるだけ許していきたいと思います。

ダビデがサウルを許したのと同じような仕方でエホバからも許されたことを考えると、私たちもこの許すといった点で、エホバの憐れみ深さに倣いたいと思うのではないでしょうか。

不完全な私たちは、日々間違いをしてしまいます。それをいつもエホバは許してくださっています。

ずっと許し続けていただくために、私たちもやはり同じように人を許していかなければなりません。

エホバは私たちを許すために、自分の独り子も遣わされその命が亡くなることも許されました。

これほどの犠牲を払ってくださったエホバのことを考えると、私たちもイエスを捧げたエホバからすれば些細なことを、人から傷つけられてもそれを根に持たずに許していきたいと思います。

今日の主題の聖句で「温かな憐れみの父」に言及した後、私たちにどんなことを勧めたでしょうか?

「私たちがどんな試練に遭うとしても慰めてくださいます。それで私たちは,神からの慰めにより,どんな試練に遭う人をも慰めることができます」。(コリント第二1:4)

エホバが憐み深く行動し私たちを慰めてくださっているように他の人にも同じように示すよう勧めました。

とりわけ難しい状況にいる人に対して慰めたり励ましたりするというのは、エホバの憐れみを感じていただく1つの方法になります。

言葉で励ますこともできます。そばにいて慰めることもできます。

こういう機会に目ざとくあってエホバの憐れみに倣っていることを示していきましょう。

また、思いやり深くその人に接してあげることもできるでしょう。時には何か差し入れを持っていったりとかして時間を使うということもできます。

こういう人間味のある温かい愛情は、互いの絆を強くするものですし、エホバの憐れみを感じていただく1つの手段になります。

是非こういう仕方でもエホバの憐れみの深さに倣っていきましょう。

またイエスは自分が忙しい中でも疲れていても、真理を必要としている人に伝えるという活動を行いました。求めにもしっかり応じました。

私たちもそれに倣って、伝道にも力を使いたいと思います。神について知ることができるよう、様々な人を助けていくようにしましょう。

これも私たちの憐れみ深さを示す1つの方法と言えます。

エホバの憐れみの示し方をより具体的にイメージできるようになったでしょうか。

私たちもそれに倣うことが大切だということを感じることができたでしょうか。

私たちがエホバやイエスに倣って憐れみ深くあるならば、エホバも私たちに同じような憐れみを示してくださいます。

また憐み深い神に倣っているということから来る満足感を味わうこともできます。

将来だけでなく、今も私たちが幸せに生きる1つの力になります。

是非、エホバとイエスの模範に倣い続けてまいりましょう。