今まで起きたことがなく2度と起きないような大患難が来ると言われています。
聖書によると、まず間違ったことを教える宗教が解体されてなくなっていきます。
最後はエホバに逆らう人たちが処罰されていなくなります。
本当にあったことがないようなものであると言えます。
でもその中間で、次々と宗教を解体していった諸国家の連合体が今度はエホバのために攻撃を仕掛けてくることも言われています。
ですからエホバの民にとっても、やはり今まで起きたことがなく、2度と起きないような難しい状況が来ることを知ることができます。
難しい状況が来るわけですから助けが必要であるということが言えます。
さらに言うと正しい所、本当に頼れる所に救いを求めなければなりません。
多くの人はその時人間の組織とか団体に守ってもらおうとするかもしれません。
私たちはどこに避難すべきでしょうか?
「神の憤りを前にしていったい誰が立っていられるか。燃える怒りにいったい誰が耐えられるか。神の憤りは火のように吐き出される。岩も神のゆえに砕かれる。エホバは善い方で,苦難の日のとりで。自分のもとに避難してくる人たちを心に留める(世話する)」。(ナホム1:6,7)
エホバに頼り、守ってもらうということです。
6節の表現からわかるように、どんな敵対勢力どんな難しい状況があったとしても、エホバはそれよりも強力な方であるということが言えます。
7節の最後に、エホバが確かに「心に留め」てくださることが示されています。
脚注を見てみますと、エホバが世話してくださるということです。
ですから難しい状況が来ることは避けられないですけれど、その中にあってエホバは、私たちが対処できるような力とか励まし、思いの平和を与えてくださることを希望することができます。
今からエホバに頼る考えとか思考のパターンを作っておく必要があります。
自分の考えがいつも正しいとか、大勢の考え方に倣う考え方ではなく、エホバの言葉に耳を傾けてそれに真剣に向き合うことが求められます。
どんな風にそれを行うことができるでしょうか?
3つ考えてみたいと思います。
1つは、道徳について神が教えていることを守ることによって、
神に頼っていることを示すことができます。
ある辞書では道徳が次のように示されています。
「人が善悪をわきまえて正しい行為をなすために守り行わなければならない基本の総体」「外面的、物理的強制を伴う法律とは異なり、自発的に正しい方向へと促す内面的原理として働く」と書かれています。
強制的、外面的に縛り付けようとするのではなく、その人の内からそうしたという気持ちから出てくるような規範であるということです。
例えば、私がここでごみを捨てたとします。
ポイ捨て条例というのがあるので、もし裁かれたら懲役とか罰金が待っているのでしません。
でもそれは法律というような考え方と言えます。
でも道徳というのは、そもそもゴミをそこらに捨てたら人間としてどうかねといった考え方であることがあります。
そのセンスみたいなものは人によって全然違っていて、駐車場で自分の食べかすをそのままに置いておいてどっかに行ってしまう人もいれば、
強風によって飛んでしまっても一生懸命に追いかける人もいます。
どちらも法律によってはこう拘束されませんけれども、そのセンスは全然違っています。
道徳というセンスみたいなものについて神が教えている事柄を重要視することによって神に頼ることができます。
「エホバの道は,非難されるところがない人にとって保護となり,悪を行う人たちにとって破滅を意味する」。(格言10:29)
非難されることがない人も悪を行う人も社会には一様に存在します。
どちらも普通に生活してるように思えます。
「エホバの道」徳は、両方の人を保護するか破滅するか分けるものとなりえます。また「悪を行う人」という表現に対して、単に良いことをする人ではなく、「非難されるところがない」という表現を用いています。
単に良い悪いという括りでなく、良い人の中にはちょっと緩い人、おおむねそうしている人、非難されるところがない人と分けられるかもしれません。
ですから私たちはエホバの道徳基準をよく理解してよく自分で習得して、だんだん非難されるところがないというところに、できるだけ近づくことが求められている
ことを知ることができます。
そうすることによって、自分が神の考え・基準・見方に頼っていることを示すことができるのではないでしょうか。
道徳というとよく引き合いに出されるのが性的な道徳ですね。
エホバを頼りにする人は、性的な不道徳なことをせず、有害な欲望さえ抱くことがないように気をつけます。
独身の人は単なる遊びで異性と付き合うことはしないです。
付き合う場合も清い交際を行います。
結婚してる人ならば、自分の夫・妻でない人の気を引こうとしたり、親密な関係になったりしないように気をつけます。
こういったセンスは、世の中とはちょっと異なっているかもしれません。
でも私たちは神の基準を守ろうとします。
エホバの感覚に近づきたいと思うからです。
「皆さん一人一人は,聖なる者として品位を保てるよう,自分の体をどのように制するかを知っているべきです」。(テサロニケ第一4:4)
品位というのも上品・下品と差があります。
その品位を保つために自分を規制・自己訓練していくことが、神に頼るということの1つであることが言えます。
2つ目は、神よりもお金や物に頼ったりしないことによって、神を頼ってることができます。
神という避難所そしてお金という避難所があったとします。
何か難しい状況に直面した時になって、どっちに行こうか迷ったりはしないですよね。神の方に行くと思います。
そう言えるのは今この平和な時に聖書に触れているからそう言えるのかもしれません。
でも毎日の生活の中で、今月の生活費とか将来の費用とか安定した仕事を考えると、こっちの方が頭を占める割合が大きくなってしまうことがあるかもしれません。
エホバやその崇拝とその他のことを考えることが仮に同じぐらいだったとしたら、
それはいざという時、迷いかねないことになってしまいます。
やはり神という避難所の方の思いを大きくしておかないと、いざ自分が判断する時、その責任を負うことになってしまうでしょう。
「裕福な人の富はその人の要塞。その人の想像の中では防壁である」。(格言18:11)
富はある意味、防壁とか要塞に思えるかもしれません。
でも本当に防壁や要塞とまで行くものなんでしょうか。
本当に保護できる富をと考えたら、いくらあっても、これぐらいあったらいいのか?もっとだ!となっていくのではないでしょうか。
やはり「想像」の範囲を超えない保護に過ぎないと言えるのではないでしょうか。
その想像に過ぎないものに頼っていると、いざ決定する時にやっぱり迷いを生じかねないものとなります。
本当に自分が頼っているものを明確にしておくことは大切なことです。
「誰も2人の主人の奴隷にはなれません。一方を憎んで他方を愛するか,一方に尽くして他方を軽く見るかです。神と富との奴隷にはなれません」。(マタイ6:24)
3つ目は、神への奉仕のための時間をきちんと取り分けることによって、神に頼っていることを示すことができます。
お金や物は防壁や要塞にならないと認識することができたとして、本当に自分はエホバが防壁や要塞となっていることを認識できているでしょうか。
本当にそう思えるために何をすることができるでしょうか?
「神に祈り続けなさい(神を休ませてはならない)」。(イザヤ62:7)
この言葉にはどんな意味があるでしょうか?
あたかもエホバがその人の言葉を聞いて休むことがないぐらいまでに祈りなさいと言っているということがいえます。
祈りによって神と感情を通わせることが必要です。神からの手紙である聖書の通読の際に、読む事にとどまっているでしょうか。
エホバは私たちを助けるために聖書という書物を与えてくれました。
その助けにじっくり触れることによっても、信頼を示すことができるのではないでしょうか。
宣教も大切ですね。
人間の抱える諸問題に対するエホバの解決策、私たちの悩みに対するエホバの助けを人に広めていくことによっても、それを大切に思ってることを示すことができますし、私たち自身もそれを嚙み締めることができるのではないでしょうか。
この時間を取り分けておくことによって、自分の目が何に向いているかを明らかにしていくことができると思います。
とかく順調な時にはそうできていても大変な時とか辛い時になると、その難しい状況に目が行ってしまったり、自分の力で何とかしようとして、エホバに頼ることを忘れがちになってしまうかもしれません。
でもそういった時こそ、エホバに頼ることが必要であることが言えます。
「正しい人の救いはエホバから来る。神は苦難の時の彼らの要塞。エホバは彼らを助け,救い出す。悪人から助け出し,救ってくださる。神のもとに避難したから」。(詩編37:39,40)
今この時代にエホバが自分の置かれている状況に直接関与されて、奇跡的な仕方で物事を解決されることは、あまり期待できないですね。
でも、もっと大切な仕方でエホバは私たちを助けてくれます。
1つ目は、病気や体調不良に悩まされているなら、うまく向き合って対処していけるようエホバに助けてもらおうという点です。
これについて使徒パウロとかテモテから学ぶことができます。
彼らは地中海沿岸とか小アジアを所狭しと移動していました。
でもパウロの手紙には、自分の病気に関して述べている部分が幾つかあります。
テモテの病気を気遣っている場面もあります。
彼らも病気をする普通の人でした。
パウロのテモテも本当に神から愛された有能な人だったので、奇跡的に癒されることも期待できたかもしれません。
そうすればもっと活躍できたかもしれません。
パウロはそれも願いました。
でもエホバはそうはされませんでした。
パウロは手紙の一部で「力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられます」と言っています。(フィリピ4:13)
この力とは何でしょうか?
同じ一連のフィリピの聖句の中には「神からの平和が…心と考えを守ります」「常にあらゆる状況でやっていく秘訣を学びました」とも言っています。(フィリピ4:7,12)
つまり状況は変わらずとも、神の言葉をよく噛みしめて励まされ、神の考えに調整されて平衡の取れた冷静な考え方を持つことができたという事をパウロは言っています。
もしかしたらこれは奇跡的に病気が治ることよりも、本当にその人を強いものにしていくことが可能なのではないでしょうか。
奇跡的に病気が治ってもその人自体が強くなっていないので、またそういった状況になるとまたそうなるかもしれません。
でもそのようにして強められるならば、本当に気持ちが強められているので、もっと効果的であるということが言えるかもしれません。
それで「一切に勝る」とか「どんなことも乗り越えられる」と形容されています。
2つ目に、仲間との関係がギクシャクした時には、謙虚になってエホバのアドバイスの通りにしようということです。
エホバはクリスチャン会衆内の平和も望まれます。
でも私たちは不完全ですので、傷つけられ嫌な空気になってしまうことは十分あり得ます。
そういうものだからこそ、聖書には人間関係に関するアドバイスがたくさん載せられているのではないでしょうか。
そのアドバイスに従っていきたいと思います。
洞察力を働かせることによって、怒りを抑えることができます。
また元々人に完璧を求めないことも平衡の取れた考え方です。
兄弟姉妹との関係は、エホバとの関係にも関わってくるということも教えてくれているのではないでしょうか。
大患難の時にも仲間同士に励まし合うことは、エホバが求めておられることです。
私はこの人とじゃなくてこの人がいいみたいとは言っていられないと思います。
思いを調整してエホバに頼るならば、自分を不幸にするような考え方から、幸福にするような積極的な考え方に変えることができます。
3つ目に、反対や迫害に遭った時には、神に頼って勇気をもらい助け出してくれるのを待とうという点です。
これも全く経験しないで逃れることはあり得ないです。
それでも元気にさせるような聖書からの励ましとか、仲間との励まし合いによって勇気を持つよう私たちは助けられます。
もし仮に1人になってしまったとしても、次のことは事実です。
「苦難の時に私はエホバに呼び掛けた。私の神に助けを求めて叫び続けた。神殿にいる神が私の声を聞いてくださった。助けを求める叫びが神の耳に届いた」。(詩編18:6)
エホバは助けを求める私たちの心の叫びさえも聞いてくださいます。
ですから1人になったとしても1人ではないと言えます。
祈ることは誰にも、どのような悪い状況にも妨げることはできません。
それでも本当に聞いてくださっているのかなと思う時もあるかもしれません。
「神は高い所から手を伸ばし,
私をつかんで深い水の中から引き上げてくださった」。(詩編18:16)
本当に深い救いようのないように思える状況からも、エホバは決してその手を引き離していなくて私たちを見捨てておられず、然るべき時に引き上げてくれると期待することができます。
このようにエホバは誰よりも強く、どんな反対や迫害からも必要な時に助け出すことがおできになる神であることに信仰を置いていきたいと思います。
以前のものみの塔には次のようなコメントがありました。
「家族みんなで迫害に備えるようにしましょう。でも起きるかもしれない大変なことについて色々と考えるのではなく、自分も子どもたちもエホバとの絆を強めるようにします。
不安を感じる時には、自分の気持ちを全てエホバに話してください。
どうしてエホバを信頼できるのか、家族で話し合うこともできます。
災害の場合と同じように、迫害にも前もって備えをし、エホバに頼るようにしましょう」。
あれこれ実際的な手段を考えるのも助けになりますけれども、エホバの証人ですので、エホバとの絆を深めることをやはり忘れてはならないのではないでしょうか。
エホバは決して私たちを見捨てたりはされません。
今生活に困らないように助けてくれるだけではなく、将来楽園でいつまでも幸せに暮らせるようにしてくださることでしょう。
たとえその時が来るまでに命が尽きてしまうとしても、エホバは一生懸命奉仕して生涯を終えた人のことを忘れることはありません。
エホバの記憶の中ほど安全な所はないと言われるのではないでしょうか。
エホバに頼った人生が結局失敗だったということはないということです。
然るべき時に復活させ生きられるようにしてくださることを期待できます。
ではエホバに心から頼ってまいりましょう。
そうすれば今の生活でそして将来楽園で素晴らしい日々をいつまでも楽しめるようになるでしょう。