本物のクリスチャンがこの世界の人々と違っているのはなぜか

今日の講演の主題の中に本物のクリスチャンという言葉が入っています。

それで自分が1人のクリスチャンであると自負している方は、聖書が求めている本物のクリスチャンとはどんな人か考えてみましょう。 

自分はクリスチャンではない方は、聖書が求めている本物のクリスチャンとはどんな人たちか、そしてご自分の周りにもそういう人がいるのかという点を考えて楽しまれてください。

自分は自分らしく生きていきたい。誰にも縛られたり誰かの言うことを聞く必要はない。自分の思うように生きていくんだという人たちがいます。 

そういう人たちであっても、育った環境で形成された考え方や文化のもとで生活しています。

どんなに自由を求めても、箸でご飯を食べて、靴を脱いで寝ますよね。

それは日本で生活しているので、日本の文化常識というものが体に染みついていて、それに従って当たり前のように行動しています。

自分が学んできた影響下、自分が常識と思っているものの中で生活することになっています。 

そして広く見られる最も強い考え方というものがこの世界にあります。 それは何でしょうか?

「私たちは神から出ていますが,全世界は邪悪な者の支配下にあります」。(ヨハネ第一5:19)

この世界は悪魔サタンが支配していると述べています。 

どうしてそれがわかりますか?

それはこの世の中に多く見られる精神・考え方・態度が悪魔サタンとそっくりだからです。

自分中心な考え方、高すぎるプライド、反抗的で独立的な考え方、神を考慮せず、自分のしたいこと快楽優先の生き方。 

これを押し出しているのは悪魔サタンだからです。

自分のことをもし本物のクリスチャンだと思うのであれば、この悪魔サタンの影響力は絶対に退けたい、コントロールされたくないと願うはずです。 

なぜ本物のクリスチャンと呼ばれる人たちが、 この世界一般の人々と違うのでしょうか?

1つ目の理由は、聖なる方エホバを崇拝しているという点です。

「皆さんを招いた聖なる方のように,何をするにしても聖なる人であってください。 『あなたたちは聖なる人でなければならない。私は聖なる者だからである』と書かれているからです」。(ペテロ第一1:15,16)

本物のクリスチャンは聖なる方エホバというお名前の神様を崇拝しています。それで聖なる人になろうと努力します。 

これが本物のクリスチャンが一般の人たちとは違う点です。

一般に生活している人に「あなたは誰に仕えていますか」と質問したら、どんな答えが返ってくるでしょうか?考えたことないですね。 

非常に強力な軍事国家であれば「国に仕えています」とか「王に仕えています」という人もいるかもしれません。

本物のクリスチャンにこの質問をすると「全宇宙を創造した神様に仕えています」と答えます。

これが一般の人と本物のクリスチャンの違うところです。

聖なる人である努力をしましょうと書いてありますので、本物のクリスチャンは聖なる人である努力を毎日続けます。

聖なる人とはどういう人でしょうか?

聖なる人とは、道徳的宗教的に清く正しい人という意味になります。

ですから、何を崇拝するかどう生きるかが正しい人のことを聖なる人といます。 

2つ目は、永遠の命のために生きているということです。

一般の人たちに人生の最終目標はなんですか?と聞いたら、家族みんなが幸せで安定して健康で一生を終えることですという人が多いと思います。 

もちろん私たちも安定した健康な生活は送りたいと思います。

でも人生の最終目標は永遠の命を得ることなので、この世界の一般の人々とは少し違ってきます。

3つ目の理由は、本物のクリスチャンは世の中で手本として、光として生活しようと願って努力しているということです。

「そうすれば,曲がった不健全な世代の中で,非難されるところがない潔白な人,傷のない神の子供になれるでしょう。皆さんは世の中で光り輝き」(フィリピ2:15)

示す愛情とか立派な行い。また人々にボランティアで聖書に何が書いてあるか伝える。

こういうことで光として生活しようと努力しています。

では実際の生活の中でどんな風に本物のクリスチャンは違いが表れてきますか? 

1つ目は、お金や物に対してバランスの取れた見方をするようになります。

安定して安全で良い医療の得られる良い生活をしたいのは当たり前のことです。

家族みんな幸福になってほしいと思ってるからです。 

でももし何かの理由で、本物のクリスチャンとしての立場を保つためには経済的に少し犠牲を払わなければならないという状況が訪れたら、本物のクリスチャンは迷わず生活水準を下げます。

もちろんいいもの持ちたいです。でもそれがエホバを崇拝する妨げになってしまうなら、維持できないと感じたら、満足することを学んでその水準を喜んで下げます。 

その理由はなんでしょうか?

それは神様が必要なものを与えてくれるという信仰を持っているからです。

本物のクリスチャンはお金やものに対してこういうバランスを保つ点で違っている努力を続ける必要があります。

2つ目は、エホバの清い道徳基準に従って生活したいと願います。

聖書に書かれている清い道徳基準に従おうと努力するので、本物のクリスチャンは違いが見えてきます。

例えば服装や髪型そして身だしなみが慎みのあるものになるということです。

これは何か決まったルールがあるわけではありません。

髭を生やしたり体を鍛えたりバイクを乗ったり好きなことして大丈夫です。

でもその生活全体に、慎みとか神に対する感謝が表われているだろうかと本物のクリスチャンは考えます。

そしてこの清い道徳基準の中に、不道徳なもの暴力的なもの心霊術的なものを避けるということも含まれています。 

本物のクリスチャンは悪いものを楽しむことをやめて、良いもの健全なものを楽しむ努力をします。 

別にするわけじゃないので見たりとか楽しんだりぐらいはいいんじゃないかと考える人もいます。 

それを聖書の神様はどう考えているでしょうか?

「最後に,兄弟たち,真実なこと,真面目なこと,正しいこと,清いこと,愛すべきこと,立派なこと,高潔なこと,称賛に値することについて,考え続けてください」。(フィリピ4:8)

考えの面まで清い道徳基準を守るようにというのが神様の望んでいることです。

それで本物のクリスチャンは、頭の中に暴力とか心霊術とか性的に不道徳なことが入ってくるのを一生懸命避けます。

これが世の中の一般の人と違うところです。

それでポルノを見たり、電話やテキストでいかがわしい会話をすること、性的興奮を煽るような画像やメッセージを送ることをクリスチャンは避けます。

性的に良くない欲情を掻き立てるものは全てポルノとなります。それはスポーツ選手かもアイドルかもinstagramとかfacebookの投稿かもしれません。

ある人にとってはそれが罠となり、いかがわしい画像を見続ける入口となってしまいます。 

それで本物のクリスチャンはこれも避けるように努力します。

別の本物のクリスチャンと一般の人の違いは、他の人に愛を表すという点です。 

「私はあなたたちに新しいおきてを与えます。それは,互いに愛し合うことです。  私があなたたちを愛した通りに,あなたたちも互いを愛しなさい。あなたたちの間に愛があれば,全ての人は,あなたたちが私の弟子であることを知ります」。(ヨハネ13:34,35)

本物のクリスチャンは、イエス、キリストが示したような本物の愛を示そうと努力します。

自分の時間や体力を喜んで聖書を他の人に伝えるために使いたいと思っています。

これは全部ボランティアですね。

一緒に聖書を勉強している会衆の誰かの親切を示します。

自分の両親、結婚しているなら配偶者の両親にも愛情を示したいと願っています。 

親族みんなに、聖書を勉強していてもしていなくても同じように愛を示したいと願っています。

それで自分のことを本物のクリスチャンと自覚している人は、イエスが示したような本物の愛を諦めずに示し続けるということがわかります。

本物のクリスチャンになる敷居が高く、自分には無理だなと感じることもあるかもしれません。

でも大丈夫です。聖書の神様エホバは私たちの限界できないことを知っています。

全部完璧にできないことを知っていて、それでも聖なる人であるようにと書いています。

失敗すること完璧にできないことは多々あります。毎日あるかもしれません。

でもそうしたいと願っているなら、私たちみんななることができます。

そしてもう1つ聖書には、本物のクリスチャンでいたいという決意とか行動を強めるために何ができるかというのもはっきり書いてあります。 

「だまされてはなりません。悪い交友は良い習慣を台無しにします」。(コリント第一15:33)

悪い交友を避けましょう。

この悪い交友は、私たちが本物のクリスチャンとして生きていく決意を弱める人たちも入っています。

もう1つ気を付けたいのは、メディアとかSNSから来る悪い交流があります。 

メディアでは色々なニュースがあり、そのニュース報道に対してコメントをするコメンテーターもいます。

例えば著名人の家庭環境がどうなったかニュースで報道し関係者と言われる人が、こんなことあんなことやってましたと言います。 

家庭で一般的にそんなことをするのは失礼なことではないでしょうか。 

他の人の個人的な交友関係を探って、あそこがこれが良くなかったんじゃないかということは絶対しないはずです。

でもニュースでは当たり前のようにそれが流れています。

それをボーっと見ると、どんどん好奇心が掻き立てられたり、 人に対してそういう見方をするようになってきます。

そしてSNSも気を付けましょう。

例えばネットで買い物をしようとしているクリスチャンがいるとします。

本当にいい商品かなと思ってレビューを見始めます。

 レビューにはどんなことが書いてありますか。罵詈雑言を毎日見るとします。 

間違ったものを買いたくないという動機ですけどもそういうレビューをずっと見てたらどうなるでしょうか?

聖書は、不公正なことをされたら裁判に行く前に関係を修復しなさい、他人の間違いに注目してはなりませんとはっきり書いてあります。

会衆の兄弟姉妹はネット通販の商品ではありません。生きている人間です。

エホバと同じ見方をしましょう。

もう1つこの世の中の圧力に抵抗するのに必要なのは、神と神の約束への信仰を強めることです。 

ヘブライの11章というところに信仰を示したモーセという人が出てきます。 どのようにして信仰を示したでしょうか?

「信仰によってモーセは,成人した後ファラオの娘の子と呼ばれることを拒み, 罪のつかの間の快楽にふけるよりも神の民と共に虐待されることを選びました。   任命された者として非難を受けることは,エジプトの宝より価値がある,と考えたからです。報いを一心に見つめたのです。 信仰によってモーセは,王の怒りを恐れることなくエジプトを去りました。目に見えない方を見ているように,しっかりと立ち続けたのです」。(ヘブライ11:24-27)

モーセは元々エホバを崇拝するイスラエル人として生まれました。

でも川を流れてファラオの娘に拾われたので、小さい頃からエジプト人として育ちました。

当時の世界最強の国だったエジプトの保護から抜け出して、砂漠でイスラエル人と一緒に虐待を受けるという選択をしました。

その生き方の方が神様が喜んでいるということがわかったからです。

世の中一般で良いとされる生活を喜んで後にできたのはどうしてですか?何か知識があったり、目の前に神様が現れたのでしょうか?

そうではありません。目に見えないものを信じる信仰を培っていました。

なぜ信仰が必要なのでしょうか?

例えば、目の前に2つの選択肢が来たとします。 1つは神様が喜ぶ決定。もう1つは神様が喜ばない決定。

神様が喜ぶ決定は、みんなに馬鹿にされたり貧乏になりそうな雰囲気があります。 

神様が喜ばない決定は、誰にも何も悪く言われません。目立つこともありません。一般的に普通の生活が送れます。 

どっちがいいでしょうか?この時考えるのが目に見えないものです。

こっちを選んだら最後どうなるか。これは誰にも言えません。聖書に書いてあってエホバは知ってます。

それで私たちはエホバを信じてエホバの喜ぶ選択をするか、エホバを信じきれずにエホバに喜ばれない選択をするかということになります。 

エホバを信じて、エホバが良いと思う方に行けるかどうかです。

職場や学校、家庭でどうでしょうか。エホバが良いと言う方に行けば必ず結果が良くなるという信仰を持ってますか?

持っているので献身してバプテスマを受けて、本物のクリスチャンとなりました。

ではこれからも神と神の約束への信仰を強めていくことによって、誘惑に抵抗できる力を手に入れていきましょう。目に見えないものを確信して信じる力です。

もう1つ大切なのは圧力を今度受けた時、誘惑が目の前に来て悪いことを選ぶように言われた時、助けを求めてエホバに頼りましょう。

具体的にエホバに頼る必要があります。

今こういう状況です、自分はこういう点が不安です嫌です、こっちの方がいいような気がします、いいえという力がありません、恥ずかしいですという思いがあったら、それをまずエホバに伝えます。

そしてこの圧力に耐えれる聖なる力を与えてくださいと祈りましょう。

完璧な人ではないので、失敗することもあります。でも、それで終わりではありません。

エホバは失敗した後もまた祈って力を得ることを願っています。

失敗したらごめんなさい失敗しました。でもあなたが好きですと祈れば大丈夫です。

またやりましょう。

クリスチャンではない方も聖書を理解できるようにと祈ってください。

なぜなら聖書を理解するのは、知力の問題ではありません。 

この聖なる力が神から与えられて、難解と思われる聖書がはっきり分かるようになります。 

これからも神様にこの聖書が理解できる力を与えてくださいとぜひ祈ってください。

そして聖書を使っていつも自分を分析しましょう。これが最後の点です。

何か納得のいかないことがありましたか。家庭や職場、学校で何かこれは納得できないということがあったでしょうか。

その時の反応はどうでしたか?

きちんと聖書で良いとされてる反応が出ましたか。苦々しい思いもって誰かの欠点をつつくような反応が出てしまったでしょうか。

人を許しなさいと聖書に書いてあるので家族や会社のみんなを許せましたか。今も何か許せなくて苦々しいものが渦巻いていますか。

その時は聖書を開いて、人を許すとはどういうことか、そしてエホバに頼って愛を培うとはどういうことかを調べていく必要があります。そうすれば、本物のクリスチャンでいることができます。

この世界の人と違うのは本当に大変だと思います。目立つからですね。

そして努力をしても逆に目立たないということもあります。こんな努力しても誰も目立たないので褒めてくれません。世の中にいるとそういうことが当たり前ですね。 

ではどんないいことがあるのでしょうか?本物のクリスチャンでいようと努力するとどんな良いことが待っていますか?

「しかし,私たちが神の約束によって待ち望んでいる,新しい天と新しい地があります。そこには正しいことが行き渡ります。それで,愛する皆さん,これらのものを待ち望んでいるのですから,最終的に汚点も傷もない平和な人と神に認めていただけるよう,最善を尽くしてください」。(ペテロ第二3:13,14)

ここまで考えたことを頑張るなら「最善を尽く」すと、「汚点も傷もない」状態ですから、今でも穏やかな気持ちを保つことができます。

自分はエホバに愛されてるエホバを喜ばせることができているという穏やかな気持ちです。 

そして「平和な人と神に認めていただける」とあります。平和とは字義的には神様の選んだ友達という意味があります。

本当の平和は、神様に友達だよと言ってもらえることです。 

お父さんお母さんって選べませんよね。生んでくれた人がお父さんお母さんです。 

神も選べませんね。全宇宙を造った方が神です。

でもその神を友とするかどうかを選ぶことができます。

ここにいるみんなは造られたので、神様の子供として生まれてきました。

でも神様はその中から友達を選びます。

本物のクリスチャンになるということを努力すると、その神様から自分の子供しかも大切な友達ですと選んでもらうことができます。

ではこれからも本物のクリスチャンとして生活して、 神様の友達で居続けることにしましょう。