神に倣って清い生活をする

エホバ神と聞いてどんな方を思い浮かべるでしょうか?
一番長く仕えて、そばでずっと見続けてきたイエス・キリストは、エホバのことを聖なる父と呼びました。
次にエホバと一緒に長く居た天使たちも、エホバ神のことを聖なる方と呼んで、清い方であるということを明らかにしました。

創造物を見ると、エホバがどんな方かということがさらにわかってきます。
例えば、地球上の水であったり動物であったり微生物を私たちが観察する時、そういったものが地球上の様々な不要なものや汚れたものや動物の死体をきれいに分解していく、また洗い流す作用があるとわかります。

こういったことを考えると、エホバはやはり清い清潔な方であるということが言えます。
そのような方ですから、創造物の1つとして造られた私たちに対しても、清さということに注意を向けておられます。

「皆さんを招いた聖なる方のように,
 何をするにしても聖なる人であってください。
 『あなたたちは聖なる人でなければならない。私は聖なる者だからである』と書かれているからです」。
 (ペテロ第一1:15,16)

「皆さん」と呼ばれているグループと「私」という登場人物が出てきます。
16節は、エホバ神が述べられたコメントになっています。
「皆さん」というのは私たち人間、特に神に仕える人たちを表していますが、その両者の関係はどういうものとなっているでしょうか?
文脈をたどって前の14節を見ると「従順な子供である皆さんは」と書かれていて、エホバ神と私たちは親子のような関係であることが分かってきます。
親であるエホバ神は、私たちが親であるエホバに似て聖なる清い者であるよう望んでいるということがはっきりと述べられています。

親が子供の服装を直している様子を思い浮かべてください。
親は子供の様々な身辺を清潔なまた整えられたものとすることに関心を払うのではないでしょうか。
なぜそのようにするのでしょうか?
1つには、子供の身体的な健康また精神的な影響というものが、清潔さと関係しているということを知っているからです。
不潔にするなら親は非難され、時には虐待していると通報されることがあります。
親であるエホバ神は、私たちのことを本当によく考えてくれて、私たちの健康的な部分とか身体的精神的な影響に益が及ぶように清潔で聖なる者であることを望んでいるのです。
エホバのその指示に従わないならば、私たちは親であるエホバに非難をもたらすことがあり得ることも心に留めておくことができます。

では私たちはこのエホバの願いに沿って、どのように清くあることができるでしょうか?
清さにも色々なものがあります。宗教的な面とか道徳的な面とか物理的な面が存在します。
今日は2つに絞って、私たちの身の回りの生活や身体という外から見える部分、そして体の中とか精神面という内的な部分に分けて考えてみましょう。

1つ目の身の回りの生活、外面的に見えるものについて、清さをどのように意識することができるのでしょうか?

これは育った環境とか国によってかなり異なった見方が出ます。
重要なのはどこかの国のということや衛生環境とかインフラに影響されるものでなく、エホバ神の観点で清さを考えていく必要があるということです。

聖書を開いてみると、古代のご自分の民に対して、エホバがどんな物理的な清さを求めているのかがわかります。
例えば出エジプト記19章10節を見ると、神はご自分に仕えるイスラエル人に、ご自分の前に出る時に「服を洗」うようにと述べられました。
そこには300万を超える人たちが集まっていましたけれど、今のように水道が整っているわけではありませんけれど、努力して清潔さを保って歩むよう勧められました。
また当時の崇拝を行う祭司と呼ばれる立場の人たちは、エホバの前で仕える時に、手とか体とか足をきちっと洗ってエホバの前に出るようにと命令が出されていました。
もし命令を踏み越えると命を失う危険があったわけです。
それほどエホバは、ご自分に仕える人たちに清潔さ特に身体面の清さを求めておられたということです。

神は機嫌が変わることがない方ですから、現代の私たちに対しても(命を奪われることはありませんが)仕える人たちに対して、身体的な清さ清潔さを求めておられるということがわかります。
私たちの着ている服とか体をいつも洗濯したりシャワーを浴びたりして、エホバの前に歩むことが必要になります。
この点で集会とか大会とか奉仕に行くときに、私たちはより一層深い関心を払う必要があるのではないでしょうか。
汗をかいたり汚れた服装でエホバの前に出ることはどうでしょうか?
そういった事柄をエホバの観点から見て意識することは大切なことです。
特に親たちは、子供たちの状況もよく見てあげることは良いことです。

また当時、別の指示も出ていました。
申命記23章12-14節を見ると、生活環境を清潔にするというものでした。当時のイスラエル人たちは移動式の住居で生活していましたが、その住居部分から離れたところで排泄を行うようにというものでした。
離れた場所に穴を掘ってその後埋めること、素手で扱うのではなく小べらを使うようにと本当に細かな指示が何段階も出されていました。

指示を守ることによってイスラエル人たちは、細菌とかウイルスとか虫が媒介する様々な感染症から身を守ることができ、健康でいられるエホバの愛ある指示でした。
WHO世界保健機関も、地域社会で排泄物の安全な処置がなされるなら下痢性疾患は36パーセント減少すると述べて、生活の住環境を守ることを意識することは私たちの健康に寄与するということをはっきりデータから裏付けています。

それで私たちも住環境を清潔なものに保つことを考えていく必要があるでしょう。
例えば家とか車とか私たちの持っているものをよく清掃したり、ゴミをきちんと処理したり保管しているかに関心を払うことができます。
定期的に清掃する計画を立てたり、家族に手伝ってもらって扱っていくならば、家族全体の清潔さまた健康というものが維持されていくということがわかります。

清い生活に関係しているもう1つのポイントを取り上ましょう。
これはエホバがどのように清さに関係するものを見ているかということです。

「神は無秩序の神ではなく,平和の神だからです…
 全てのことを適正に,取り決めに沿って行いましょう」。
 (コリント第一14:33,40)

「取り決めに沿って行いましょう」とは、別に訳すと「秩序正しく行いましょう」という表現です。
秩序正しくということが強調されていることがわかります。
どういうことを言っているのでしょうか?
これは整理整頓するということです。

例えば、汚れた洗濯物を洗濯機にかけて干しました。
取り込んだ後、くしゃくしゃにして山として置いていたら清潔に見えますか?
煩雑に見えお部屋が汚れていると表現をすることがあるのではないでしょうか。
でもきちんと畳んでシワを伸ばしたり、アイロンをかけて整え、整頓されているならば、清潔感がより一層際立っていくのではないでしょうか。
エホバもその事柄を意識しておられるということです。

家の中とか外に置いてるものをきちっと整理整頓しているでしょうか。
汚していなくても、乱雑だったりいつまでも不要なゴミが置かれていたら、地域の人たちはどのように見るでしょうか?
ごみ屋敷という表現もありますが、そこまで至らなくても整頓されていなければ、財産だと思ったとしても汚れているとみられてしまうわけです。
この点をよく認識しないならば、エホバに良い評判がもたらされないこともあるということです。
「全てのことを適正に」と書かれていますから、私たちの生活全般において整理整頓を意識する必要があります。
例えば私たちの着ている服装・身なりは整えられた、つまり上品とか慎みのあるものと言えるでしょうか。

ローマ12章1,2節では「理性を働かせて神聖な奉仕をする」つまり清い奉仕をするように、また「今の体制に形作られるのをやめ」るようにと述べられています。
今の体制の流行に影響を受けてしまって、もし整えられていない服装をしたら、エホバへの奉仕にどういう影響があるでしょうか。
例えばだらしなく着崩したり、汚したようなデザインやダメージを施したものなどを着てみたらどうでしょうか。
道徳的に汚れたイメージの服装を私たちがしていたとしたら、周りの人たちはどんな印象を持つでしょうか?慎みのある、品の良いものだと感じるでしょうか。
「私が崇拝する神について正しく伝える服装だろうか」
「他の人は私の身なりを見て当惑したり不快に思ったりしないだろうか」
といった事を意識するなら、清いエホバから見て良い服装をすることができます。

そうするならば、私たちは自分の健康とか精神的な影響にも良いものが及んで、幸せな生活を送ることができますし、親であるエホバのイメージや伝える音信に悪影響を及ぼすことなく、胸を張って生活することができるでしょう。

2つ目の点は、私たちの内面を清いものとすることです。
それはどんなことを意味しているのでしょうか?

「それで,愛する皆さん,私たちにはこのような約束があるのですから,
 体と精神のあらゆる汚れを除き去って自分を清め,
 神への畏れを抱いて神聖さを完成させていきましょう」。
  (コリント第二7:1)

親は、子供の健康とか将来への影響を考えて様々な注意をすることがあります。
時にはそういったことの一環として制限を加えることもあります。
それは子供を愛して気遣っているからです。
そうしないで放置されている子供は、後で残念な結果を刈り取ってしまって、周りの人たちは虐待を受けていると感じてしまうこともあります。
エホバはそのような虐待をする親ではありません。
私たちのことを本当に深く気遣っているわけです。
それで体とか精神の汚れを意識するように勧めています。

身体的な私たちを中から害したり蝕むものを体の汚れということが言えます。
どんなものをイメージすることができるでしょうか?
煙草とか麻薬や様々な薬物の乱用は、自分の体を蝕んで中から私たちを汚し、破壊するものとなっていきます。
例えば、タバコは毎年800万人の人々を死に至らしめていると述べられています。
受動喫煙の影響を受けている人たち60万人も命を失っていると言われています。

また良いものであっても過剰に摂る、例えばお酒をたくさん飲んでしまったりすると、精神的なコントロールを失って多くの失敗をするという永続的な害を人に及ぼすことがあります。
こういった行為や習慣に私たちがもし蝕まれているとするならば、命を与えて私たちの健康と幸福を願ってくださっている
エホバに感謝を表しているということになるでしょうか。
こういったものを避ける必要があります。

精神の汚れとは、メンタルつまり私たちの考えや行動に影響を及ぼす道徳的な価値観のことを意味しています。
そうした影響の中にはどんなものがあるでしょうか?

「しかし今は,それらを全て捨て去らなければなりません。
 憤り,怒り,悪い行い,暴言,口から出る下品な言葉を捨て去りなさい」。
 (コロサイ3:8)

憤りや怒りに基づいた暴言とか下品な言葉が、内面を汚していることの証拠になっていくということです。
よく受けや笑いを願って、仲間に受け入れられようとして、下ネタやみだらな言葉を発する社会的な風潮があります。
しかしそれは私たちを汚しているということです。
もしそういう影響を受けているならば、道徳的に間違った行動の下地を私たちが持っていたり、人に勧めることになってしまうのです。

また憤りや怒りや暴言を私たちが発するならばどうでしょうか。
罵ったり、時には悪い噂という形で人に影響を及ぼすことがあります。
人の自尊心を傷つけて人を死に至らしめることもあるということが近年のニュースではたくさん取り上げられます。
例えば最近では、SNSを通してそういった言葉が表明されて、大勢の人が傷ついて命を失っているということがあります。

こういった言葉に関しても、私たちは注意深く避けていかなければなりません。
先ほど取り上げたコリント第二7章1節では、そういったものを「除き去って…神聖さを完成させていきましょう」と勧めて、清く変化していくことができると述べています。
フィリピ4章13節を見ると「力を与えてくださる方のおかげで,私は強くなり,どんなことも乗り越えられるようにしてくださる」と述べて、優しい親であるエホバ神が子供を助けてくださると保証しています。
でも、本当にそうなのでしょうか?

1つの実例を取り上げてみましょう。
フランスのジョゼフ・エレン・ボーゲンは、幼い時に様々な暴力事件が頻発して、女性が見下げられるような問題のある地域で過ごし成長して、10歳の時にはお父さんがアルコール依存症で亡くなり、自分は16歳の頃には ビールを毎日10本から15本飲んで、麻薬も使って刑務所に入れられるような生活をしていました。
20代前半になるとマリファナを吸い、麻薬の過剰摂取で死にかけたこともあったそうです。
28歳の時には人並みに結婚しましたが、妻に敬意を払わず罵ったり殴ったりしました。

ところがある時、奥さんがエホバの証人と聖書を研究し始めて、自分も聖書を知る機会が生じたようです。
今までの人生はひどいものだったので、エホバの証人に神は許してくださるでしょうか?と述べました。
聖書から神が愛情深い方で、許して変化することを助けてくださることを聞いて聖書を学び始め、1ヶ月も経たないうちに麻薬と酒をやめることができました。

しかし禁断症状が出てきました。その時にフィリピ4章13節の「自分に力を与えてくださる方のおかげで、私は一切のことに対して強くなっている」というパウロの言葉通りの経験をすることができました。
その結果清い人生を歩むことができるようになりました。

聖書の力を持ってすれば、どんな人も清くて目的のある人生を送れるようになります。
私は聖書のおかげで、男性にも女性にも愛と敬意を示せるようになりましたと述べています。
https://www.jw.org/finder?wtlocale=J&docid=2016090…

人は清く変化することができるということがわかります。
私たちもいろんな環境の中で育ってきたり、人生の中でいろんなものを身につけてきたかもしれません。
しかし神に習って清い生活をするように変化することを心に強く 決めていきましょう。

そのように清い生活を送るような人にはどんな報いがあるでしょうか?

「私たちが神の約束によって待ち望んでいる,
 新しい天と新しい地があります。そこには正しいことが行き渡ります。
 それで,愛する皆さん,これらのものを待ち望んでいるのですから,
 最終的に汚点も傷もない平和な人と神に認めていただけるよう,
  最善を尽くしてください」。
 (ペテロ第二3;13,14)

神の王国のもと地上の楽園で生活する人に選んでいただけるということです。
それで私たちは今、自分が世の様々な影響を受けて清さの点で問題を抱えていないかどうかチェックしていくようにしましょう。
鏡に自分を映すということをイメージしてみると良いかもしれません。

大きな姿見の前に立ってみると、顔から自分の足元までどこが汚れているかはっきりわかりすぐそこに気が付きます。
聖書は鏡のようなものです。
私たちが汚れているところをはっきりと明らかにしてくれます。
毎日鏡を見るように毎日聖書をよく読んで時間を取って考えるならば、こんなところに鳥が糞を落としていたとわかったりします。
どういたしますか?すぐそのような汚れたものを取ります。
私たちも聖書読んで気づいたらすぐそれを取り除くことができるのではないでしょうか。
鏡のような聖書をいつも注意深く見るようにいたしましょう。
すぐに取り除くならば、私たちに染みつくことはありません。
ですから、早く取り除くことは大切なことです。

また全身がいつも綺麗になるように意識して鏡を見る人は、ぬかるんだ道と綺麗に舗装された道があった時に、どちらを歩くでしょうか?
綺麗な服を着ているならば、飛沫が付かないように綺麗な道を歩みます。どろどろのところを歩きません。
同じように私たちは穢れた人たちがいるところに突き進んでいくことをわざわざする必要はありません。
清い人たちがいる所、エホバ神の基準で歩む人たちがいる所を歩むようにするのではないでしょうか。
そうすると、体に染みがつくことがないわけです。

それで接する人たち、友とする人たちをよく選ぶように努力しましょう。
そうするならば、いつまでも神から見て清い人として歩んでいくことができるようになります。
そのような人になって新しい地上で永遠に生きることができますように。