忠誠という言葉は、あまり普段日常生活では使わない言葉かもしれません。
新世界聖書の改訂版とか出版物では、
忠誠という言葉が色々な言葉に置き換えられることがあります。
1つは高潔という言葉です。
皆さんは高潔な人,高潔な生き方と聞くとどんな感じがしますか?
高潔さの逆の反対語は卑劣という言葉です。
高潔な人は、人前とプライベートな時にしてることは
あまり食い違わないような努力をしているかもしれません。
人前で立派なことを言うのであれば、
誰も見てないところでも立派に行動したいと思い、
その人がいないところでもその人の悪口は絶対言わないようにしよう!
これはまさに高潔な生き方ということができますね。
卑劣な人はどうでしょうか?
その人がいるところではいい顔するけどいなくなったら悪口を言うとか、
みんなにいい顔して実は嘘をついているということを聞くと
卑劣だなと感じるかもしれません。
忠誠の道を歩むということには、道徳上の健全さという意味があります。
誰が見てもいつ見ても正しいという、生き方が関係しています。
この忠誠の道には、権威ある人に従うという意味も含まれています。
最も権威ある方は創造者エホバなので、
神に従うという意味も忠誠、高潔さには含まれています。
そして忠誠には、心の正しい動機も含まれています。
ある旦那さんが、奥さんに素敵な宝石のプレゼントをします。
とても喜ぶんですけれど「どうしてくれたの?」と聞いてみたら、
「最近君、年取ってきたから、これプレゼントして、
もうちょっと若返ってほしいなと思った」、どうでしょうか。
最初はすごくいいプレゼントだったのに、
動機を聞いた途端にそのプレゼントはもう要らない
そういう気持ちになったかもしれませんね。
高潔さには常に正しい動機も含まれます。
良い行いと内面の正しい動機が常に一致している状態。
これもストレートで高潔なイメージがあるのではないでしょうか?
聖書を学ぶクリスチャンは、イエスが言った心と魂と思いを込めて
エホバを崇拝しエホバを愛するという生き方も高潔だということがわかります。
忠誠がどんな意味が少し皆さん掴めたでしょうか。
まっすぐで、裏表がなくて、
正しい清い生き方ということができるかもしれません。
この高潔な生き方を続けるために、聖書はどんなアドバイスをしていますか?
「非難されるところがない生き方をする人は幸せだ。
その人はエホバの律法に従って歩む。
神の教えを守る人は幸せだ。
その人は心を尽くして神を探し求める。
不正を行わず,神の道を歩む」。
(詩編119:1-3)
高潔な生き方をする人は、いつも神の教えを調べて
それを守ろうとする人だということがわかります。
日毎に、エホバはどういう方か聖書には何が書いてあるかを研究して、
その知識をどんどんと蓄え、それを生活で実行していく人です。
そして聖書のアドバイスは、生活のあらゆる面に関係しています。
人と話す時、1人でいる時、結婚する時、仕事を選ぶとき、
聖書は私たちに正しい考え方を教えてくれます。
そして高潔な人はそれに従って決定していきます。
どうでしょうか。高潔な道はなかなか難しいと感じたのではないでしょうか。
なぜなら私たちは高潔の反対側、卑劣に向かう不完全さを持っています。
そして悪魔サタンは私たちにこの高潔な生き方を捨ててほしいと願って、
毎日影響を及ぼしています。
また周りには高潔なんかどうでもいいという人たちが生活しています。
それでどうやったら高潔に生きられるかを一緒に考えていきましょう。
今日は詩編26編を読んで、高潔な人はどんな生き方をしているか考えてみます。
書いた人はダビデ、イスラエルという国の王様でした。
そして、ダビデは戦士でもありました。
この人はどうやって高潔な道を保ったでしょうか?
ダビデという人はまずどんな人だったか、ちょっと考えてみましょう。
ダビデは姦淫の罪を犯しました。
他人の妻を見て、関係を持ちその人との子供が生まれました。
こんな人をなぜ高潔と言えるのでしょうか?
高潔さとは、正しい生き方をしたいと願って、
毎日神の考えを取り入れようと努力する生き方のことです。
それで失敗したかとか、1回2回の行いで全てが決まるのではありません。
生き方全体考え方全体を見て、高潔でありたいと願う気持ちが大切です。
ダビデは大きな罪を犯しましたけれど、その後
高潔な生き方に戻ってくる努力をしたということがわかります。
それで、私たちも失敗したり 間違ったりしますけれど、
高潔ではなくなったとは考えないようにしましょう。
エホバ神は諦めずに待ってくれています!
では、そのダビデから学んでいきましょう。
「エホバ,私を裁いてください。
私は高潔さを捨てずに歩んでいます。
揺らぐことなくエホバに頼りました」。
(詩編26:1)
高潔な生き方をするのに大切なのは、
エホバに「裁いてください」とお願いすることです。
自分の今日の発言や考え方は正しいものでしたか?
家族と接する時の話し方は今日正しいものでしたか?
自分が示した態度や考え方は正しかったでしょうか?
神様に今日正しいこと、私できましたかと尋ねる
この精神態度を高潔な気持ちということができます。
ダビデはいつも神様に頼っていました。
「エホバ,私を調べ,試してください。
奥底の考えと心を清めてください」。
(詩編26:2)
心の一番深いところにある考え方まで見てほしい、正してほしいと祈るのです。
自分がしていることを、どんな気持ちや動機でやってるだろうか?
と考えることも高潔な道を歩む助けになります。
それで、自分の心を定期的に調べる時間を持つようにしましょう。
定期的に行うことの1つは聖書の研究。
毎日行うことは聖書通読。祈りは常に毎日何度もします。
この習慣を保つなら、毎日心を調べていただくことができます。
改善する必要がわかったら、すぐに取り組みたいと思います。
「あなたの揺るぎない愛はいつも私の前にあり,
私はあなたの真理に従って歩みます」。
(詩編26:3)
ダビデはエホバがいつも示してくれる愛を思い起こす努力をしていました。
エホバはどんなことをしてくれたでしょうか?
1つは、巨大な戦士ゴリアテから守ってくれたということです。
ダビデはいつも、あの時どうやってエホバが守ってくれたか、
自分の力では絶対無理だったことができたことを思い起こしていました。
聖句の表現を借りると、いつも前に置く努力をして、
まるで昨日起こったことのように覚えていました。
投げた石の重さ、ゴリアテが倒れた時の地響きとか周りのどよめき
土ぼこりの匂い、そういうことをダビデはいつも鮮明に覚えていました。
ゴリアテは、身長が2.9メートルありました。
対峙した時の自分の首の角度はどうですか?
ぐっと見上げないと目に入りません。
1匹の犬が本気で噛もうとしてわんわん言ってたら怖いですよね。
2.9mの巨人が命を仕留めようと思って槍を構えたらどう感じるでしょうか?
ダビデはいつもの羊を牧する格好に石1個です。
ゴリアテの背中にある槍の重さは7kgあったそうです。
それを2.9メーターの巨人が振り回してるところを想像してください。
その巨人にダビデは勝つことができました!
こういうことをダビデはいつも思い起こしました。
これに勝たせてくれたので、この先も大丈夫だという安心感を得たのです。
これも高潔な考え方です。
神が今までしてくれたことを思い起こして勇気を持つという考え方です。
それで私たちも神についてよく知る努力をする必要があります。
神はどんなことを嫌っていますか?
どんなこと、どんな人のことが好きでしょうか?
どんな発言、喋り方を神は大切にしていますか?
こういうことを知ると、自分もそれに合わせてここ変えたいなとか、
ここはよくできてたと自分を吟味していくことができます。
これからもエホバについてよく知る努力をしましょう。
「人を欺く者と交友を持ちません。自分がどんな人かを隠す者を避けます。
悪を行う人との付き合いを嫌います。悪人との交友を拒みます」。
(詩編26:4,5)
私たちも、自分がどんな人か隠そうとする人たちとの交流を避け
気をつける必要があります。
よくinstagramとかfacebookで自分の名前の後にJWとつけてる人がいます。
良い面もあるんですけどもJWとついてるからエホバの証人なのでしょうか?
ちょっとわからないですね。
SNSは簡単に自分の姿、性別、年齢、国、全部隠すことができます。
宗教も隠せます。
なので自分と子どもたち、若い人たちが
どういう交流をしているのかきちんと考えていきましょう。
そのようにして、自分と家族を悪い交わりから守っていきたいと思います。
もう1つ気を付けるべき人たちは背教者です。
エホバの証人の信仰を破壊しようと願っている人たちです。
こういう人たちと関わったり、文章を読んだり、スレッドとかSNSで
そういう人たちに返答しようとしたりはする必要はありません。
即座に距離を開けます。
テレビあるいはその他のメディアも
色んな人が自分の意見を自由に言えるようになってきました。
コメンテーターと言われる人たちも、
何か事件が起きたり不祥事が起きた時、それについてコメントをします。
神様が好きになるようなコメントでしょうか?
それとも人の粗探しをしたり、疑ったり、
決定されたことを批判して覆そうとしたりしているでしょうか?
不祥事で謝罪会見の後、コメンテーターが
「これで本当に誤ったと思ってるんでしょうか」といいます。
仲間が何か間違いを犯して誤った時に、
どんな精神態度を思いつけるかもしれませんか。
長老たちが決定したことに、どんな態度を生み出すかもしれませんか
何も考えずにテレビを見ていると、そういうコメントがどんどん入ってきます。
そしてもしかすると、高潔ではなくて
卑劣な考え方になってしまうかもしれません。
何を見て何を聞いているんだろうかということも気をつけたいと思います。
「エホバ,私は手を洗って自分が潔白なことを示します。
あなたの祭壇の周りを歩きます」。
(詩編26:6)
祭壇の周りを歩くとは、メシアが払う犠牲に対する認識と信仰を表しています。
つまりイエス・キリストの犠牲に対する信仰です。
それで私たちもキリストの犠牲に信仰を働かせて、
エホバ神に献身してバプテスマを受ける必要があります。
これも高潔な生き方の1つです。
普段の生活で、キリストが払ってくれた犠牲について、
他の人にそれを際立たせるような話をすることができます。
皆さんの1番の隣人はどなたですか?
それは、一緒に住んでいる家族です。
お父さん、お母さん、子どもたち、兄弟、配偶者です。
自分がイエスの犠牲に対してどんな信仰を持っているかを、
家族の中でたまに話してみる。これも高潔な生き方の1つに含まれています。
普段の会話でイエスが払ってくれた犠牲の素晴らしさを際立たせていきましょう。
「感謝の歌声を響かせ,
あなたの素晴らしい偉業全てを知らせるために」。
(詩編26:7)
私たちが知っていることを他の人に話すことによっても、
高潔な生き方ができます。何を話しますか。
エホバはどんな方ですか?どういう動機で地球を造ったでしょうか?
人が死んだ後どうなるようにしましたか?
これは全部神様の偉業です。私たちの体の造りもそうです。
こうした素晴らしいことを他の人に話す時に、高潔な生き方ができます。
「エホバ,私はあなたが住む家を愛しています。
あなたの栄光がとどまる所を」。
(詩編26:8)
クリスチャンの集会や大会に参加する努力を払うこと
も高潔な道を歩む助けになります。
最初に述べたように、神様についての知識を取り入れてよく考えて、
それについてどう思ってるだろうそれに合わせて生活できてるだろうか
と考えて実行に移す。これが高潔な人の生き方のサイクルです。
集会はそのためにも催されています。
自分の高潔な生き方を強めるために今日は何を学べるかな?と考える。
そしてエホバの与えてくれる知識に対する愛を深める!という動機でも
この集会に参加できます。
今まで知っていたようなことでも、深く考えたり、
他の人のコメントに耳を傾けると、その素晴らしさがわかります。
そして集会で感じたことを、自分の家族とか、家から家で誰かに話したりします。学んで実行して、学んで話す。このサイクルをずっと続けていきましょう。
この集会に来る目的でもう1つ大切なことは、
一緒に参加するみんなを励ますこと、そしてみんなから励まされることです。
どちらか一方ではなくて、両方頑張りましょう。
今日は誰かを励ますぞ!というのと、今日は誰かに励ましてもらおう!
この2つをぜひ集会でしましょう。これが集会のもう1つの目的です。
こういうサイクルを私たちの生活の中ですると、
どんどん高潔な道を歩む助けになります。
「私を罪人と共に消し去らないでください。
私の命を暴力的な人と共に取り去らないでください。
彼らの手は恥ずべき行いに関わり,
右手は賄賂で満ちています」。
(詩編26:9,10)
ダビデは、悪いことを続けている人たちと一緒に滅びたくないと歌っています。
私たちも隠れて罪を行ったりそれを変える気がない人と
一緒に時間を過ごさないようにします。
自分もその悪いことに関わらないように努力します。
今色んな雑誌、映画、webサイト、音楽では、恥知らずな行い、
エホバの目から見て卑劣な行いが当たり前のことのように書かれています。
結婚前に性関係を持つことは、今や憧れの的となっているかもしれません。
そういうことをぜひ避けましょう。
ポルノを見ることは、それ自体は大きな罪にはならないとしても、
ポルノを見る習慣は穢れたもの、卑劣なものとなっています。
この見る習慣は視覚から入ってきて、脳に大きな影響を及ぼします。
価値観とか大切なことに対する認識がどんどん歪んでいってしまいます。
性的な興奮を掻き立てたり、
悪いことをしようとすることに導くものは全てポルノです。
それにはゲームとかアニメのキャラクターも入っているかもしれません。
アイドルとかスポーツ選手とか多くの人はポルノでないと認識していても、
見る人にとってはそれが危険なものがあるかもしれません。
平気だと頭では言ってますけど心はどうでしょうか。
本当はダメってわかっているのではないでしょうか?
エホバに見られたらやましいのことがあるのではないでしょうか。
それは全部排除していきたいと思います。
今の時代、若い人は特に不道徳な影響力を受けやすい状態になっています。
結婚するには若すぎるのにデートをしたい思いがあり、
周りではそれが当たり前のこと自然なこととなっています。
それでそういうことをするよう圧力を感じることもあります。
でも、少し考えてみてください。
独身で高潔な生き方を保つ寂しさと、そういうことを捨てて
不道徳なことをする苦しさ、どちらの方が辛いでしょうか?
辛いことがあったとしても、
もっと辛い苦痛から守られていることも思い起こすようにしましょう。
取り返しのつかない危険なことから自分は守られている
ということを信じることにしましょう。
これは信仰です。 経験していないことを信じなければいけないからです。
エホバが言ってることが正しいんだということを信じるので、
これは知識よりも信仰が求められています。
こういう圧力を感じる時、あなたが正しいという信仰を与えてください
とぜひ祈りましょう。
大人も自分の忠誠を守りたいと思います。
結婚関係がこれからも清く、傷がないものであるようにしたいと思います。
そして仕事をする時には、正直な仕事をしましょう。
税金のこととか、給料の支払い受け取りのこと、
これらをエホバに会計報告をしても恥ずかしくない商売をしていきましょう。
これからも忠誠を守る高潔な生き方がどんなに素晴らしいかということを、
こうした詩編を読んで考える習慣を持つようにしたいと思います。
こんな素晴らしい生き方できるんでしょうかと思う人がいるかもしれません。
でも今900万人近いクリスチャンがその生き方をできています。
それで私たちも可能です。頑張りたいと思います。
サタンは私たちの忠誠、高潔を破壊しようと努力しました。
ヨブという人は病気になって、家族もみんな死んで、
その地域から得られる信頼も失いました。
その時サタンはその人を見て、もう役立たずだと言いました。
実際どうだったでしょうか。
健康で何でもできていたヨブと、何もできなくなってしまったヨブ、
どちらの方がより高潔になったでしょうか?
全てのものを失って何もできなくなったヨブが、
それでも私は忠誠を捨てないといったあのヨブの方が、
エホバの目から見て高潔だったのではないでしょうか。
サタンはもうこれ以上何もできなくなりました。全て奪ったからです。
全部奪って高潔を捨てるかと思ったら、捨てないと言ったんです。
私たちも去年できてたことができなくなったり、
大切にしていた責任を手放すこともあると思います。
その時にヨブを思い出しましょう。
高潔さを絶対に捨てませんとぜひ言いましょう。
そうすることによって、これからも高潔に歩むことができます。
では高潔な人は最後に何を得ることができるでしょうか?
「しかし,私は高潔さを捨てずに歩みます。
私を助け出し,親切を示してください。
私は平らな場所に立ち,
大きな会衆の中でエホバを賛美します」。
(詩編26:11,12)
ではこれからも高潔な生き方を続けて、
みんなで一緒にエホバを賛美していきましょう。