エホバの救いの力に信頼を置きなさい

今日のテーマは、一言で言えば救いです。対象は全人類です。
しかし、災害下にあるとか犯罪に巻き込まれていない限り、
あなたは救われますという風に言われて悪い気持ちはしないにしても、
一体何から救われる必要があるのか?と疑問が湧き起こってきます。
何から救われ、この点について聖書は何と述べているか?
始めにこのことを考えたいと思います。

「その時,世界の始めから今まで起きたことがなく,
いえ,二度と起きないような大患難があるからです」。
(マタイ24:21)

人類はこれまで経験したことがない大患難に遭遇すると予告しています。
今でさえ世界は混乱の極みにあると言われています。
この大患難が始まれば、もっと混乱することでしょう。
その時、人々に救いをもたらすものは何でしょうか?
頑丈なシェルターがあれば安全は確保されるでしょうか。
どんな頑丈なシェルターであっても、安全が確実に保障されることはありません。
私たちにとって唯一恒久的な救いを得られるものは、エホバの力です。
このエホバの力に絶対的な信頼を置く必要があります。
でもエホバ神に私たちを救う力があるとどうして分かるのでしょうか?
エホバ神は過去に、ご自分に救いを求める者たちに力を表明されたことがありました。
その例を2つ取り上げてみたいと思います。

まず最初は、モーセの後継者ヨシュアの時代のギベオン人の場合です。
約束の地であるカナン征服に向けて、
イスラエルの攻撃はとどまるところがありませんでした。
そのイスラエルの征服を阻止するため、カナンでは5人の王が結集しました。
しかしギベオン人はそれに加わろうとはしませんでした。
彼らはイスラエルをとても恐れていました。
恐れていたとしてもそれは軍隊ではないです。
イスラエルの背後にいるエホバ神を畏れていました。
エホバを敵に回せば絶対に勝ち目はないということを理解していました。
彼らはここで強かな計画を立てます。
ヨシュアに近づいて、偽装工作で自らの正体を隠したまま、
イスラエルと和平契約を交わすことに成功したのです。
そのことを知った5人の王たちは裏切り者を討取ろうと再び結集します。
その場面でギベオン人は急いで和平契約を結んだヨシュアの所に行きます。
ヨシュアは約束をしましたので、彼らを救うべくイスラエルが救出に向かいました。

エホバはこのような状態でどのようにこの事態に介入されたでしょうか?
ヨシュアはイスラエルの軍隊と共に夜を徹して敵に近づいていき、
電光石火の不意打ちを掛けます。
(ヨシュア10:8,9)
するとエホバは敵の陣営を大混乱に陥れました。
それによってイスラエルの剣の前に倒れた者は本当に大勢いました。
その中から逃げ出す者もいましたが、エホバはその逃げる者たちに対して、
空から大きな雹を降らせます。
仮にこの雹の大きさが野球ボールぐらいの大きさがあった
としたら、それは落下速度は140キロにもなるそうです。
プロ野球のピッチャーが投げる速度に相当する雹が
一斉に飛んでくるわけですから、本当に一溜りもありません。
実際イスラエルの兵士によって倒れた者たちより、
雹の石によって倒れた者たちの方が多かったと聖書の中には書かれています。
(ヨシュア10:10,11)

エホバは追い打ちをかけるように太陽を静止させる奇跡も起こし、
日が沈まないので、敵たちは暗闇に隠れることができません。
(ヨシュア10:12,13)
ついにイスラエルの猛攻撃の前に敵たちは倒れて、
エホバの宣言通りイスラエルは完全勝利を収めます。
イスラエルの勝因は何だったのでしょうか?

「エホバがイスラエルのために戦っていたのである」
(ヨシュア10:14)

この時救われたギベオン人は、イスラエルを敵に回さず
和平契約を結んで本当に良かった、エホバの力を信頼して
本当によかったと、心から胸を撫で下ろしたに違いありません。

過去に救いの力を表明されたもう1つの例は、
預言者イザヤとユダのヒゼキヤ王が登場人物です。
もう一方はアッシリアのセナケリブと代弁者のラブシャケです。
当時のアッシリアは1000年も向かうところ敵なしという強国でした。
そのアッシリアがユダの首都であるエルサレムに近づいてきました。
アシリアの王であるセナケリブは、イスラエルを戦わずして手に入れようとしました。
どのようにでしょうか?
ラブシャケを通し、降伏するようにとヒゼキヤに迫ったのです。
しかもラブシャケはお前たちの神もエホバも、
所詮我々に敗北してきた神々と同じだと言って嘲弄します。
ヒゼキヤは悩みました。
アッシリアに降伏すれば、エルサレムの住民は救出されることになるかもしれません。
しかしエホバのお名前に傷がつきます。
悩んだ末、ヒゼキヤはイザヤにアドバイスを求めそして熱烈にエホバに祈りました。
この時も劇的な出来事が生じました。

「それからエホバの天使が出ていき,
アッシリア人の陣営で18万5000人を討った。
人々が朝早く起きて見ると,皆,死んでいた」。
(イザヤ37:36)

エホバは確かに祈りに応えられました。
戦いをせずに勝利を収めたのは、ヒゼキヤの方でした。
天使が朝を迎える前に18万5000という軍隊を押し倒したのです。
エホバの救いの力について、当初ヒゼキヤは心が揺らいでいました。
降伏した方がいいのではないかと思ったのかもしれません。
でも、最終的には絶対的な信頼をエホバに置きました。
それでエホバは救いを与えられたのです。

聖書にはこの他にも、エホバ神が力を発揮された例がたくさんあります。
それを読んで思い巡らすなら、エホバが救いを施す力のある
神であることに信仰を持つことができるでしょう。
でもできれば、エホバの救いの力を自分個人で感じてほしいと思います。
その経験をすることによって、
エホバに対する信仰を持つための確信を強めることができるからです。
祈りを聞いてくださった!自分を助けてくださった!
そういうことを1度でも経験するならば、信仰を強めることができます。
エホバは私たちの ことを本当に救いたいと願っておられます。
是非、事ある毎にエホバに頼りましょう。
エホバも頼ってほしいと思っておられます。

エホバが今でも私たちを救ってくださるとはいえ、
それは飽くまでも一時的なことに過ぎません。
恒久的な救いとは言えません。
では恒久的な救いはどのようにして成し遂げられるのでしょうか?
エホバはすでにその備えを設けてくださっています。
元々私たち人間は死ぬようには創られていませんでした。
他の動物と違っていました。
最初の人間が神に反逆した結果、私たちに死が入り込みました。
人類は早い段階でエホバの救いの力を必要としてきたわけです。
エホバは人類の必要を見て取って、救済のための措置を講じられます。
その措置に絶対不可欠な存在、
それはエホバ神の最初の預言に出てくる約束の子孫の存在です。
最初の預言から4000年余り経過した時にこの約束の子孫はこの地上に登場します。
それはイエス・キリストです。

エホバ神は、そのイエス・キリストに人々が信仰を持てるように助けられました。
1つは、イエスキリストご自身に奇跡を行う力をお与えになることによってです。
そしてその奇跡を見た人たちは信仰を
イエスに持つことができ、神に信仰を持つことができました。
2つ目に、イエスご自身が虐げられていた人に解放の希望を触れ告げることによって、
貧しい人たちがメシアに信仰を持つように助けられました。
でも、イエスが確かに救いのための神の器であるとどうしてわかるのでしょうか?
イエスのお名前の意味を考えると理解することができます。

「彼女は男の子を産みます。イエスと名付けなさい。
その子は民を罪から救うからです」。
(マタイ1:21)

神の子には、生まれる前から名前が決まっていました。
神は、ヨセフとマリアという人間の親から生まれてくるその子に
イエスと名付けるよう告げています。
その名前にはどんな意味があるでしょうか?
「民を罪から救う」とあります。
この名前には「エホバは救い」という意味があります。
つまりエホバは、この方イエスを通して人々を救出されることを
予め示しておられました。

神はこのイエス・キリストを用いて、どのように人類を救われるのでしょうか?
人類が本当の意味で救われるには、罪と死がなくならなければなりません。
医療関係者や科学者は、莫大なお金を使って遺伝子操作の技術が進めば、
今よりもっと寿命が伸びるはずだ。
ゆくゆくは永遠に生きる可能性があると考えるかもしれません。
でも人間のやることです。
あることに効果があったとしても、何かで躓いて問題が出てきます。
私たちはそのようなことを見ています。
そのような問題に多くの人が苦しんでいる場合もあります。

まず人間はどうして死ぬようになったのかというこの問題を
彼らは理解することができません。
直接的には、何々の病気で亡くなられましたと言うかもしれません。
でも、何の持病もない人も亡くなります。
これをどう説明できるでしょうか。
根本原因は、最初の人間が神に反逆し、完全な命を失ったからです。
不完全になったアダムは、罪と死だけを私たち子孫に伝えました。
この失われた完全な命を買い戻すためには、
同等のものを払って贖う必要があるわけです。
この地上にいた時に完全な人間としての命を持っていたのは、
イエス・キリスト以外にはいません。
イエスは多くの人と引き換える贖いとして、ご自身の命を差し出してくださいました。

人類が神と和解したから、その贖いを備えてくださったのでしょうか?
そうではありません。
神は、私たちが神を認めない生活をしていたにもかかわらず、
その贖いを取り決めてくださいました。
それはひとえに、神エホバの私たち人類に対する愛にほかなりません。
私たちがエホバからこの救いの備えの影響を得るには、
エホバの救いの力に全幅の信頼を置く必要があります。
そして今や天において王国の王として支配しておられる贖い主、
イエス・キリストが王国の王として大患難の時に、エホバの救いの力を実行されます。
そのイエスの王国支配によって、アダムの罪のせいでその人間社会が降りかかった
本当にたくさんの問題を全て取り除いてくださいます。
その時を想像できるでしょうか?

「神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。
もはや死はなくなり,
悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。
以前のものは過ぎ去ったのです」。
(啓示21:4)
この言葉は、多くの人にとって想像しにくいかもわかりません。
人間は死ぬのが当然と多くの人は思っているからです。

神のその救いの力を認めているということを毎日の生活の中で、
どのように示していくことができるでしょうか?
端的に言って、それは祈ることです。
どのように祈ることができるでしょうか?

「私たちは神について次の確信を持っています。
神は,私たちが神の意志に沿って願い求めることは
何でも聞いてくださるのです」。
(ヨハネ第一5:14)

捧げる祈りの内容がご意志と調和しているならば、
その祈りに応えてくださると聖書ははっきり述べています。
しかしどんな種類のお祈りが神の意志と調和しているのでしょうか?
例えば近年、野外奉仕の取り組みに少し調整が加えられてきて、
永遠の命のために正しい態度を持つ人を探すために、
会話のスキルを上げることを励まされています。
話をするためにどんな技術が必要か、
どうすればよいかという知恵を願い求めること、
これは神のご意志に沿っているということが言えます。
また近年、真理を語った故に投獄されている苦難にある兄弟たちがいます。
災害に遭って不自由な生活を強いられている兄弟姉妹もいらっしゃいます。
経済的に困窮している仲間の兄弟姉妹もいらっしゃいます。
それらの人々が信仰を弱めることのないように助けを求める
祈りは神のご遺志に調和しているということが言えます。

私的な問題についてはどうでしょうか?
個人的な問題は、神のご意志と直接関係ないように思うかもしれません。
例えば、私たちは誰でも不完全で自分自身の弱さと戦っています。
ある時にその弱さに負けてしまって、エホバのことを悲しませてしまい
自責の念から本当に悲しい気持ちになってしまうことがあるかもしれません。
もし聖書を勉強していなかったら、自分はどんな人間になっていたんだろう?
怒りっぽい人間であるいは人に対する恨みで
一生が終わってしまうことを想像するかもわかりません。
でも聖書を勉強することそして祈りによって、
私たちはクリスチャンは人格を身につけることができました。
聖書を読んで祈ることによって神が潜在能力を引き出してくださったというわけです。
ある年配の姉妹がこんなことをおっしゃいました。
「最近、自分はクリスチャンになれたんだという気持ちを持てて本当に嬉しいんです」。
どうしてですかとお聞きしてみると、
「私はとても執念深い人間なんです。人が許せない性格なんです。
でもふと気づくと、人を許している自分に気づくことがあるんです」。
神は聖書を読んで祈ることによって、この姉妹の潜在能力を引き出してくださって、
クリスチャン人格を自分の外衣としてしっかりと身につけることができるようになった。
こういうお話を聞くと、確かにエホバは祈りを聞いて
その人の希望を叶えてくださることを知ることができます。
ですから、全てエホバに委ねることができます。

ここまで、エホバの救いの力に信頼を置くべき理由について考えてきました。
とはいえ大患難の時を考えると不安や恐れがあるかもしれません。

「ファラオの馬が戦車や騎兵たちと共に海に入った時,
エホバは海の水を彼らの上に戻した。
しかしイスラエルの民は海の中の乾いた地面を歩いた」。
(出エジプト記15:19)

300万人を超える群衆が航海を渡っていかなければなりませんでした。
普通なら海水がまだぬかるんでいて不思議はない状態かもしれません。
でも聖句は、乾いて固く歩きやすかったということを述べています。
これは何を意味しているのでしょうか?
エホバは、その中にいた子供たち、病弱な人、高齢者、

そういう人たちのことを配慮されたということを知ることができます。
エホバは大きな力を持っておられますけども、
細やかな気遣いをしてくださる神であるということを知ることができます。
だとすれば、大患難の時に周りがパニックになっていたとしも、
私たちは守られるその気遣いを感じさせてくださいます。
私たちはパニックに陥ることなく、大患難の時には救われるということを聞いて、
本当に不安や恐れを払拭することができるのではないでしょうか。

私たちは大患難がいつ始まるのか予測することはしません。
でも世界の出来事を見守って、
大患難の勃発を予期しなければなりません。
どのようにできるでしょうか?

「神殿で昼も夜も神に神聖な奉仕をしています。
そして,王座に座っておられる方は,
この人たちをご自分の天幕で覆います」。
(啓示の書7:15)

真の崇拝者である私たちもこれと同様に、
集会に出席し宣教奉仕を行い個人研究を行う
ライフスタイルをこれからも続けていくならば、
大患難の最高潮であるハルマゲドンを迎えても、
ギベオン人やヒゼキヤが経験したように救いを経験することができます。
では、エホバのお名前が全地に宣明される時に、
私たちは全て生きてエホバの救いの力を見ることができますように。