人類に贖いが必要なのはなぜか

米国ペンシルバニア州ピッツバーグ近くの炭鉱で,突然大規模な出水事故が発生し,
9人の作業員が地下70㍍の狭い空間に閉じ込められましたが,
幸いなことに3日後,無事に救出されました。
どのようにしてでしょうか?
炭鉱の地図とGPSを頼りに,救助隊がドリルで直径65㌢の穴を開け,
カプセル型のかごを作業員たちの所まで降ろしたのです。
一人ずつ,そのかごで地上に引き上げられ,迫り来る死から救い出されました。
全員,生還を喜び合い,救助隊に感謝しました。

私たちは、この9人の作業員のような経験をすることはないと思います。
でも、人類全体は同じような救出を必要としています。
それは罪と死からの救出です。
私たちは世界中どこに住んでいても、どれほど健康に気を配っていても、
どれほど最新の医療を受けることができていたとしても、老化と死を免れることはできません。
でも聖書を調べると人間の老化と死は、初めからそうなっていたわけではありません。
ではなぜそうなってしまったのでしょうか?
原因はどこにあるでしょうか?

「1人の人によって人類に罪が入り,罪によって死が入り,
こうして,全ての人が罪人になったために,
死が全ての人に広がったように―」。
(ローマ5:12)

「1人の人」アダムによって人類にまず罪が入りました。
罪によって死が入って、死が全ての人に広がったと説明されています。
例えると、黒いシミのついた紙を刷ると、例外なく黒いシミが残ります。
同じようにアダム以降の全ての子孫は、言わばアダムのコピーで黒いシミを持っているというわけです。
その黒いシミは元の原稿アダムと同じもので、それを聖書は罪と呼んでいます。
アダムが罪を犯した結果、老化と死はそれ以降の人類に対して絶対確実なものになりました。

私たちが受け継いだ罪が解消されれば、老化と死はなくなるのではないでしょうか?
人類はある備えを活用することによって、罪の許しが得られて、
いつまでも生き続けることが可能になる基盤が据えられます。
その備えというのが、エホバが設けてくださった贖いというものなのです。

アダムが罪を犯した結果、贖いが必要になりました。
愛情深いエホバは、炭鉱事故の救助隊のように、イエスを遣わしてとして贖いとなるようにされたのです。
イエスが罪を持つ人類と引き換える贖いとして死なれたことは、
真のキリスト教の土台となっています。
でも真のクリスチャンだとしても、
その教理を述べる聖句を挙げたり、説明したりすることのできない場合が多いようです。
私たちは、この教理を理解するだけではなく説明できなくてはなりません。

贖いとは何なのでしょうか?
誰が贖いを備えるのでしょうか?
誰に贖いが支払われるのでしょうか?
贖いの益にはどのようなものがあるでしょうか?
順番に考えていきましょう。

今日キリスト教世界の僧職者で、贖いの教理を聖書の教える通りに信じている人は少ないようです。
彼らはなぜ贖いを退けるようになったのでしょうか?

「私が去った後に圧制的なオオカミが皆さんの間に入り込んで
群れを優しく扱わないことを,私は知っています。
そして,皆さんの中からも,弟子たちを引き離して
自分に付かせようとして
曲がった事柄を言う者たちが現れます」。
(使徒20:29,30)

この圧制的な狼というのは、羊の群れをかき乱す背教者のことです。
この背教者はどこから来るでしょうか?
「皆さんの中から」現れると書いてあります。
会衆内から生じた背教者が、腐敗的で歪んだ見解を会衆内に浸透させていきました。

「私が去った後」とある使徒たちの死後に、教会指導者たちは色々な神学論争に巻き込まれるようになってしまいました。
その結果、次のような質問についての意見の一致が見られなくなりました。
例えば、誰に対して贖いが支払われたか?
なぜそういう支払いが必要なのか?
こういう考えの一致が見られなくなってしまいました。
例えば神学者の中には、贖いは神によってサタンに支払われたと唱える人がいました。
また別の人は、キリストの死は価値の等しい引き換えではないと論じて、
神でもあり人でもある立場の死が必要でないかと唱えました。
こういった理論が広く受け入れられるにつれて、贖いという言葉はあまり用いられなくなりました。

そのようなわけで今日、大部分の教会は贖い教えていません。
カトリックやプロテスタントの神学者は、引き続き人間の伝統や知恵を聖書以上のものとしています。
それとは対照的に、ものみの塔誌は100年以上にわたってこの教理を擁護してきました。
聖書そのものに語らせれば、私たちは贖いの教理を明快に理解することができます。

では贖いとは何でしょうか?
簡単に言うと、負債とか望ましくない状況から解放したり買い戻したりするために支払われる代価のことです。
ヘブライ語で贖いに相当する言葉は、英語で言うとcoverするという意味の動詞から派生しています。
ですから罪を覆う、このようにも言うことができます。
つまり覆うものは、形の点でも価値の点でも
それが覆うものと正確に対応していなければならないという概念を伝えています。

そうしたことを考えると、贖いには1つの重要な原則が関係していることがわかります。

「哀れに思ってはなりません。
命には命,目には目,歯には歯,手には手,足には足です」。
(申命記19:21)

この19章の文脈を見ると刑事事件に関連しての律法の1つであることが分かります。
つまり正確に対応する、同様なもので償うという律法です。
エホバの厳密で完全な公正の原則が関係しているということです。
神の公正は、償うためには同等なものを要求するということです。
ですからアダムの失った完全な命を償う、つまり覆うためにも、
対応する完全な人間の命が必要だったということです!
ですから、先ほど神学者が唱えたような神であり人でもある人ですとアダムに対応しません。
また人間は動物に勝っていますから、動物の犠牲では不十分です。
地上の人間は全て不完全なので、やはり贖いを備えることができません。
それでエホバは、完全な人間としてのイエスを与えることによって、
贖いを備えてくださったということです。
ではイエス1人の贖いの犠牲が、どれほどの広範囲に影響を及ぼすのでしょうか?

「全ての人のための対応する贖いとして自分を与えました」。
(テモテ第一2:6)

全ての人のために対応する贖いということですから、
アダムとイエスの1対1の関係性だけではないということが分かります。
アダムが罪を犯して死を宣告された時に、アダムの子孫は生まれていませんでした。
それでアダムの子孫全てはアダムの腰にあって死んだも同然です。
遺伝の法則によって、罪人アダムから生まれ出るために、人類は死を免れることができないということです。

一方イエスが完全な人間の犠牲として死なれた時、イエスの子孫も生まれていませんでした。
イエスの腰にあり、存在の可能性があったこの子孫はイエスと共に死にました。
イエスは結婚せずに家庭を持ちませんでした。子供を持たずに失いました。
それで生まれなかったイエスの子孫は、
アダムが今まで生み出した全ての人と釣り合いを保つということです。
つまりイエスの完全な命は完全だったアダムの命に対応して存在の可能性があったイエスの完全な子孫は、
アダム以降に生まれた罪深い子孫の罪を覆うということになります!
そのような意味で「全ての人のための対応する」贖いとなられたということです。

イエス1人のこの犠牲によって、アダムの子孫に対する死刑宣告を無効にすることが可能になりました。
罪の破壊的な力は、このようにしてその根元で断ち切られることになりました。

贖いは誰に対して支払われたのでしょうか?

エバがサタンにたぶらかされて、その影響でアダムとその子孫は罪人になりました。
人類は言わばサタンのせいで、強制的に罪のもとに売られた状態と言えます。
そのようにしてサタンの支配下に入ってしまいました。
それで贖いはサタンに支払われるべきだと考えるかもしれません。

でも考えてみてください。
悪行の処罰を下したり、正したりするのはサタンではなくエホバです!
聖書を注意深く調べると、贖いが誰に支払われたかがはっきり示されています。

「誰一人として兄弟を買い戻すことはできない。
彼のための贖いを神に差し出すことはできない」。
(詩編49:7)

贖いが「神に」支払われる必要があることがはっきり示されています。
そうだとするとエホバが贖いを備えて、その価値がエホバ自身に支払われたことになるのではないでしょうか。
例えると、1人の人が自分の右ポケットから支払いのお金を出して、
その後今度は自分の左ポケットに戻して支払ったと言っているようなものです。
でもこれが贖いを理解するための重要な部分であり、偉大な愛を強調するものとなっています。
贖いは物理的な交換というよりも、罪を許すための法的な取引のようなものです。

もしエホバがご自分が取り決めた公正の原則を無視するならどうなるでしょうか?
無数の天使たちが見ています。
天使たちはどう思うでしょうか?
エホバが取り決めた他の律法と原則に対する敬意とか信頼はどうなるでしょうか?
もし裁判官が犯罪者の処罰を、一方的な気まぐれで独断と偏見で取り消すならどうなるでしょうか?
どう感じるでしょうか?
もうこの裁判官は信頼できないと考えるのではないでしょうか。
激しい抗議の声が湧き上がるのではないでしょうか。
その裁判官の信頼はがた落ちです。

でも裁判官に多大な自己犠牲が求められるとしても、正しい原則を保てる他の何か方法があれば、
何かふさわしい取り決めを作れるかもしれません。
これが、自力で何もできない無力な人類に神が備えてくださった贖いなのです。

エホバは人類救出のためにどこかの天使を遣わされたわけではありません。
人類が有罪宣告の元に置かれた時に、エホバがイエスを選ばれたのも不思議ではありません。
イエスはとりわけ「人間に深い愛情を抱い」ていたからです。
(格言の書8:31)
この贖いというのは、深遠な公正と、知恵と力と、最高度に深い憐れみと、エホバとイエスお二方の
自己犠牲の最大級の愛が密接に絡み合った、人類に対する素晴らしい備えであることがわかります。

神が贖いの支払いを強調するのは、正しさの原則を常に固く守られることを確証するものになっています。
神は西暦33年のニサンの14日に、完全で罪のないイエスが杭の上で死ぬのを許して贖いの代価が支払われました。
イエスは死後3日目に、死の状態から見えない天使として復活しました。
イエスは人類を買い戻す仕事をさらに続けて、
完全な命のこの上ないの法的な価値をエホバに差し出すことができました。
エホバがこの犠牲を受け入れたことは、西暦33年のペンテコステの時に明らかになりました。
これによってエホバは公正を求めた人類の死刑宣告を、法的に相殺されたということです!
同時に、人類に対して自己犠牲と最大の愛を表明されたということです。

私たちはこの贖いという素晴らしい取り決めから、どのような益が得られるのでしょうか?

将来の益と今の益を分けて考えてみましょう。
エホバは人類の罪深さを取り除くために、この上ない適用を段階的に取り決めていきます。

「神の子の贖いにより,私たちは解放され,
罪を許されています。
…また,子を通して他の全てのものが,
天のものも地上のものもご自分と和解できるようにしました。
子が苦しみの杭に掛けられて流した血により,
平和な関係がもたらされるようにしたのです」。
(コロサイ1:14,20)

神は贖いという手段によって
「天のもの」と「地上のもの」という人類の2つのグループを自分と和解させることができます。
「天のもの」というのは、天に行く希望を持つ14万4000人のことです。
贖いによってまず14万4000人が法的な意味で罪を帳消しにされます。
その贖いが天に行く希望を持つクリスチャンが地上にいる間に適用される結果、
神が天のものと和解したことにより、彼らが天に行くための道が開かれたということです。

これは「地上のもの」が、罪の奴隷から解放される道を開くものとなりました。
「地上のもの」というのは、地上の楽園で生きる希望を持つ人々のことです。
彼らも神と和解させます。

「その後,私が見ると,
全ての国や民族や種族や言語の人々の中から来た,
誰も数え切れない大群衆が,王座と子羊の前に立っていた。
その人たちは白くて長い衣服を着て,ヤシの枝を持っていた。
…『これは大患難から出てくる人たちです。
この人たちは,自分の長い衣服を
子羊の血で洗って白くしました』」。
(啓示の書7:9,14)

「誰も数えきれない大群衆」地上のものがこのように呼ばれています。
大群衆です。14万4千人に対して数が限定されていないことも理解できます。
「大患難」から出てくる大患難を生きて通過する人たちであることもわかります。

では「この人たちは自分の長い衣服を子羊の血で洗って白く」するとはどういう意味でしょうか?
イエスの贖いの血に対する信仰により、エホバの前で清く正しいものと見なされるようになったという意味です。
アブラハムのように神の友として正しいと認められていることを表しています!
大群衆は大患難を生き残った後、天にいるイエスと14万4000人の援助によって、
千年統治の期間中に漸進的に罪と死の影響から解放されていくようになります。

私たちは今の毎日の生活の中でも、贖いの益を受けることができます。
2つの益に注目したいと思います。

エホバと和解する立場や見込みを得ているとしても、失敗は絶えず自分の前にあるかもしれません。
力が足りないと感じて落ち込んだり、
過去の失敗をずっと引きずって自分はちょっと価値がないんじゃないかと考えることがあるかもしれません。
でもエホバは私たちの損なわれた不完全な状態を見ているわけではないのです。
イエスの犠牲による回復の力が全面的に適用された将来、あなたがどんな状態になるかを見ているのです。

昔のロンドンの美術館で、当時の46億円ぐらいする絵がショットガンで打ち抜かれた事件がありました。
絵は傷ついたからもう価値がない処分しようと言った人は1人もいませんでした。
なぜなら、それが相変わらず美術愛好家の間では貴重で価値があったからです。
すぐにその絵の修復作業が始まりました。
同じように受け継いだ罪でどれほど傷ついていても、
人間は相変わらず神にとっては貴重なものであるということです!

ですからエホバと同じように、贖いが全面的に適用された輝かしい将来の自分を思い見るようにしたいと思います。
私たちはこの備えがあるおかげで、前向きな生き方、積極的な見方を持って人生を歩むことができるということです。

もう1つの益は何でしょうか?

「私たちの大祭司は,
私たちの弱さに同情できないような方ではありません。
あらゆる点で私たちと同じように試され,
しかも罪がない方です。
それで,助けが必要な時に
憐れみと憐れみと惜しみない親切を受けられるよう,
気後れすることなく祈り,
惜しみない親切を示してくださる神に近づきましょう」。
(ヘブライ4:15,16)

贖いとなったキリストは、弱さに同情できないような方ではないとあります。
それで助けが必要なとき、罪を犯した時はそうかもしれませんが、
憐れみと惜しみない親切を受け入れられるよう
気遅れすることなく祈りを通して真の悔い改めを表すなら、
惜しみない親切によって許しが得られ、エホバの前で清い良心を持てるということです。
そういうわけですから「神に近づきましょう」。
罪を犯して祈りによって真の悔い改めを表すならば、
この贖いの備えによって、何度でも何度でも赦しが得られて、
清い良心を持って晴れやかに生きることができるということです!

こう考えてきますと贖いの取り決めは、私たちに対するエホバの愛の絶対の証拠を示しているのではないでしょうか。
イエス自身も贖いとして進んで自分を差し出すことにより、愛をはっきりと示しました。
最大の贈り物と言われる所以は何でしょうか?
それは贈り主が贈り物に見出す愛着や犠牲の大きさではないでしょうか。
エホバはイエスという最愛の初子を、人類のために与えてくださって最大の犠牲を払われたのです。
全ての人がこうして表された愛について、神とキリストに感謝を表すことができると思います。

炭鉱での事故の救出劇をもう一度連想してみてください。
カプセル型の担架が下ろされたということでした。
こんな方法ではダメだ、助からないと疑った人がいたでしょうか?
それどころか、全面的に信頼したと思います。
同じように私たちは、イエスの贖いの犠牲を全面的に信頼して、
信仰を働かせることによって感謝を表していきたいと思います。

また時間との勝負の中で、地図とGPSを頼りに正確に場所を特定して救出してくれました。
救われた9人は、機会あるごとに感謝の気持ちを周りに話したと思います。
同じように、贖いという救いのためのこの素晴らしい備えについて、
熱心に贖いの価値を他の人に伝えることによって感謝を示したいと思います。

また9人は過酷な状況で、精神面や体力面の不安とか心配も絶えず付きまとっていたと思います。
強い精神力とかモチベーションを保つ決意が維持できなかったなら、
救出にあずかることはできなかったかもしれません。
同じように贖いに認識を示し、
清い思いや清い行状のモチベーションを引き続き保つ決意をすることによって、
感謝を示していきたいと思います。

では贖いというこの上ない贈り物について、イエス・キリストを通し、
ただただエホバに感謝できますように。