理不尽な目に遭ったらどうすればよいか


ある1人の男性はこのように述べました。
「私たちは国土を一方的に奪われた。動物も縄張りを守るために戦うのであれば、自国の領土と権利のために戦うのは当然だ」。
この男性は小さい頃から難民キャンプを転々として、家族や周囲の人たちは残酷な不当な仕打ちを受けてきたので、このように感じて武装グループに入るという決断をしました。

世界中で同様な事柄がたくさん起きています。
理不尽な事柄に対する怒り、それに対する復讐さらに暴力が加わって、連鎖の輪を作っています。
近年でもパレスチナやウクライナであったり、 様々な宗教に絡んでテロ行為が生じることも、背景には理不尽な目に遭っていると感じている人が多くいます。

聖書では特に現代さらに拍車がかかることも預言されていて、
自分や金を愛し「自制心がなく、乱暴で、善いことを愛」さない者が多くなって、
地球上が「危機的な」状況に陥るとさえ述べています。
(テモテ第二3:1-3)
ですから私たちも、様々な理不尽な事柄を行う人たちの悪影響から逃れることはできないとはっきり言うことができます。
例えば人種とか国籍とか宗教とか住んでいる地域や経済格差が、
人を不当に差別したり気をつけたりして、理不尽だという思いを募らせている人たちが沢山います。
私たちもそういった事柄を今までの人生の中で味わってきたことがあるかもしれません。

では、私たちはどうしたらいいのでしょうか?
怒りを宿して復讐心に燃え、暴力に打って出ることは正しいのでしょうか?

この点を考える上で、重要な事柄を心に留めておくことが必要です。
理不尽な目にあったとしても、私たちは1人ではないということです。
理不尽な事柄に目を留めてくださっている方がいるということを私たちは心に留めておく必要があります。

例えば、私たちが町で何か物を盗まれたとしましょう。
でも私たちは1人ではありません。
警察がいて司法があって、それが私たちの代わりに問題を正してくれるということが行われています。
同様に理不尽な目に遭ったとしても、
私たちがその事柄に対して反応し復讐しなければいけないという訳ではないことを心に留めておく必要があるのです。

「ほんのもう少しすれば悪人はいなくなる。
彼らがいた場所を見ても,もういない。
しかし,温厚な人は地上に住み続け,
豊かな平和をこの上なく喜ぶ」。
(詩編37:10,11)

不公正なこと理不尽なことをする人々は、地球上どこを見てももう居なくなると述べています。
どうしていなくなるのでしょうか?
政治的な行動によってでしょうか。
抗議活動やテロ行為といった実力行使によってなくなるのでしょうか。

文脈をずっと辿ってみると、理不尽な目に遭った人たちに対して、
怒りを捨て激怒しないように、腹を立てて復讐して悪を行わないようにという記述に目を留めることができます。
(詩編37:1,7,8)
理不尽なことをする人たちを処罰するのは、私たちでないことがわかります。
では、誰なのでしょうか?
文脈を見ると「あなたの道をエホバに委ね,神に頼れ。神があなたのために行動してくださる」と書かれています。
(詩編37:5)
私たちではなく私たちに寄り添っておられる神が代わりに行動してくださることについて言及されています。
エホバが理不尽な事柄に対して行動を起こされるということは、私たちにとってとても安心できることだと言えます。

さらに、私たちはエホバのかたちに造られていると聖書は述べています。
ですから理不尽な目にあった時に、私たちはそれを正してもらいたいという気持ちが働いて反応するわけです。
私たちはエホバのかたちですからエホバご自身も理不尽なことに対して感情的に反応されることがわかります。

でも、決定的な違いがエホバと私たちの間にはあります。
エホバは私たちが見えないところを見ることができる方なのです。
ですからエホバはその背景にあった事柄、
関係している人々の心の状態がどのようなものなのかということをトータルで見て、
ご自分の怒りを発揮することなのかどうなのかということをコントロールすることができます。
でも、私たちは見えないことがたくさんあります。
ですから、怒りに任せて感情を爆発させ、時にはキレてしまうわけです。
でもエホバは、感情的に切れることがない神なので、エホバに委ねるということは正しいことです。

11節では、理不尽な事柄を行う人ではなく「温厚な人は」この「地上に住み続け」平和な状態を享受できるようになると述べています。
「温厚な人」はどんな人のことでしょうか?
元のギリシャ語を紐解いてみると、そこには謙遜とか鋼鉄のような強さという意味を含む言葉が使われています。

10節で取り上げていたエホバが処罰されるということを謙遜に認めて委ねる人、
そういう人は平和な世の中で暮らしていくことができると保証されているわけです。
鋼鉄のような強さ、それは強い信念というものを指しています。
理不尽な目に遭った時、復讐したい怒りを表明したいという気持ちになるのは自然な事柄です。
でもそれを鋼鉄のような強い信念で押し出して抑える必要があるわけです。
私たちは自分で復讐するのではなく、
エホバ神がいつも私たちを見守って理不尽な者たちにも目を留めているということを忘れないようにする必要があるでしょう。

ご自分を信頼して行動する人たちに対してエホバは祝福として平和な世の中を約束しておられるということですから、
私たちはエホバが見て温厚な人になる必要があるのです。
でもどうしたらのような人になることができるのでしょうか?

パウロはローマ人への手紙12章を、ローマのクリスチャンが理不尽な目にあった時にどう反応したら良いのか、
またどのような行動を取るならばエホバに受け入れられ温厚な人とみなしてもらえるのかということをイメージして書きました。

「できる限りのことをして,
どんな人とも平和な関係でいるようにしましょう」。
(ローマ12:18)

「どんな人とも」とは自分以外の全ての人です。
中には私たちに対して悪いことを行う人、理不尽なことを行う人たちや組織、社会が含まれているでしょう。
そういったものに対して私たちは平和な関係を築くことを意識的に行っていく必要があります。
「できる限り」とありますから、手段を尽くす意味があることがわかります。
ではどのようにして私たちが平和な関係を意識することができますか?

相手に感情を害されるようなことをした時に私たちがどんな反応をするかによって、その点が明らかになってきます。
穏やかな言動だったり、親切な言葉遣いをするならば、
平和な関係を築きたい平和を願っている人であることを対外的に明らかにすることができます。
相手の反応がその後どうであったとしても私たち自身は平和な関係を望んでいることをエホバの前ではっきりと表明することができ、
そうするならばエホバは私たちが温厚な人だとみなしてくださるに違いません。

また、理不尽なことに対して怒ったり仕返しをしたりすることを望んで組織的に行動する人たちと、
もし一緒にいたらそのような平和な行動を取ることができるでしょうか?
それは難しいことです。影響を受けるからです。
ですから、そういった人たちまたグループや社会活動に私たちが影響を受けないよう一線を引くことも大切なことだと言えます。

「愛する皆さん,復讐してはなりません。
神の憤りに任せましょう。
『復讐は私がすることであり,私が報復する』とエホバは言う
と書いてあるからです」。
(ローマ12:19)

エホバは自分に任せてほしいとはっきり述べています。
私たちはエホバを信頼していますか?
信頼しているならば、任せることができます。

この点でイエスの模範に倣うことができるかもしれません。
イエスは地上の人たちを救いたいという高尚な目的を持ってイエスは来ました。
でも反応はどうだったでしょうか?
馬鹿にされ罵られ小突かれ打たれ、時には侮辱され仲間からも裏切られ見捨てられたりという状態に置かれました。
でもイエスはどうされたでしょうか。怒りを爆発させましたか?
もうみんな死んでしまえばいいと思ったでしょうか?
イエスについて、目撃証人はこのように述べています。

「侮辱されても,仕返しをしたりしませんでした。
苦しめられても,相手を脅したりせず,
正しく裁く方に自分を委ねました」。
(ペテロ第一2:23)

イエスは復讐をしませんでした。怒ることもありませんでした。
「正しく裁く方」復讐を行うと述べているエホバを信頼して委ねていたからです。
さらに文脈を見てみると、
「その歩みに皆さんがしっかり付いてくるよう手本を示しました」と書かれています。
(ペテロ第一2:21)
私たちが復讐の痛みに苛まれないよう意識的な行動を取られたことがわかります。
私たちもイエスを模範にして謙遜にエホバに道を譲るということをするべきです。

「敵が飢えているなら,食べさせましょう。
喉が渇いているなら,飲む物を与えましょう。
そうすれば,燃える炭をその人の頭の上に積むことになるのです」。
(ローマ12:20)

平和な関係を築きましょう、復讐や怒りを抑えましょう、エホバに委ねましょうということを学びました。
でも聖書はもっと積極的なことを行いましょうと述べています。
不正を行う人理不尽なことを行う人たちがもし困っているのであれば、
そういう人たちに対しても親切な手を差し伸べることを励ましているのです。

当時固い金属を柔らかくして貴重な材料を取り出すために、燃える炭を使うことが行われていました。
下からまず炊いてその上に材料を乗せます。さらにその上に燃える炭火を被せてサンドイッチにしました。
そうするとその高温によってその材料は柔らかくなり溶けて、その中の貴重な材料が抽出されるということが行われました。

私たちも不正なこととか、理不尽なことに凝り固まっている人たちに対して、親切という炭火のような熱で溶かしていく、
つまり考えを変えさせたり、その人の中に隠されている貴重な良い特質を引き出すことができます。
この点で誰に対しても私たちができる良いことは何でしょうか?

全ての人が困っていることは何でしょうか?
この体制の中で生活することに困っています。
希望も何もない世の中で苦しんで歩んでいる人たちに対して、私たちは良いたよりを伝えることによって
希望差し伸べることはこれ以上ない良いことだと言えます。
そういった事柄を行っていくようにしましょう。

「悪に征服されてはなりません。
善によって悪を征服し続けましょう」。
(ローマ12:21)

悪つまり理不尽な行為に征服されないように、
私たちの行動がそういった人たちに反応することによって支配されてしまわないようにと述べています。
この点で積極的な行動は身の守りであることがわかります。

私たちが怒りを露わにしたり、声高に行動を起こす人たちと共にいないことは身の守りとなります。
逆に怒りや仕返しを自制する努力を払っている人たちと共にいるならば、
私たちの自制心はどんな影響を受けるでしょうか?
復讐心とか怒りというものはどういう影響を受けますか?
ある人はこのように述べています。
「神の言葉を思い起こさせてくれる円熟した友達は、とても貴重な存在です。
気持ちを抑えて、心を平静に保つことができます」。
聖書の中で勧められている事柄に調和した行動を行う人たちと積極的に交わり一緒にいることは、
私たちに良い影響を及ぼすということを理解できます。

それとともに、最大の理解者であるエホバに気持ちを打ち明けていくならば、怒りに支配されることはありません。

「重荷をエホバに委ねよ。
そうすれば支えてくださる。
神は正しい人が倒れることを決して許さない」。
(詩編55:22)

理不尽なことを私たちが受けたりするのは重荷ということが言えます。
エホバはそれを自分に委ねなさいと述べ、決して倒れることのないように支えると言っておられます。
聖なる力を与えることによってそのことを行ってくださいます!
怒りや復讐心を「自制」する、また相手を許したり良いことを行う穏やかな気持ちを持てる「温和」という特質を、
エホバは聖なる力を持って強めてくださることがわかります。
そうするならば、「善によって悪を征服し続け」ることがこの世の中でもできていくのです。

いくつかの経験談を少し取り上げてみましょう。
実際、このように行ってきた方たちにどんな影響があったかということです。

1つ目は米国で1990年代に起きた最も望ましい憎悪事件と呼ばれているものです。
1998年に米国のテキサス州で3人の白人男性が1人の黒人男性を殴って、
両足を鎖でつないでトラックに結びつけて暗渠にぶつける凄惨な事件でした。
ぶつけるまでに5キロほど車で引きずっていったようです。
家族はエホバの証人でした。
3人の姉妹たちはどのように感じているかをマスコミに語っています。
「愛する肉親がひどく痛めつけられ、リンチを受けて殺されたので、
言葉に言い表せない喪失感とを味わっています。
私たちは、仕返しすることや憎しみに任せて何かを言い回るようなことは一度も考えませんでした。
イエスならどうされただろう、どう反応されただろうと考えたのです」。
心に憎しみを募らせまいとする3人の助けとなったのは、聖書の言葉だったと述べています。
その1つはローマ12章17節から19節です。
この3人の姉妹たちは、復讐心を持つことはしませんでした。エホバに謙遜に委ねたからです。

その結果3人は許すことについて目を向けることができました。このように述べています。
「あまりに悍ましい不正や犯罪の場合、許しますと言ってもなかなか難しいということです。
そういった場合許すとは、自分の人生を歩んでいけるよう、また恨みを抱いて体や精神の病気にならないよう、
恨みの気持ちを締め出すという意味かもしれません」
と述べて、聖書が恨みの気持ちから自分の心身を保護するものになると言及しています。
聖書の原則に従うことによって怒りや憎しみの連鎖から自由にされて、
自分の体を傷つけ痛めつけることなく、精神の安定を保っていくことができる
という利点があるということをこの経験は物語っています。

もう1つの経験を見てみましょう。
アドリアンは16歳の時に聖書を勉強し始めましたが、 それまではやられたらやり返すという復讐心に燃える人でした。
聖書を学んで人格を変える必要があることを悟って、 憎しみの感情を捨てるようになりました。
助けとなったのは復讐してはならないというローマ12:17-19の言葉です。
この方はこのように話しています。
「エホバはご予定の時にご自分の方法で不正を正されるということを信じられるようになりました。
徐々にではありますが、暴力的な生き方を改めることができました」。
ところがこの事柄は根深い問題です。
ある晩、かつて対立していたグループの若者たちと会い、リーダーが言いがかりをつけてきて、理不尽にも殴ってきました。
そして「どうした、かかってこいよ」と言いました。
やり返したい気持ちに駆られたと正直に述べています。
でもエホバに短く祈り、仕返しをせずに立ち去ることができたということです。
エホバに委ね、エホバは聖なる力をもって間違ったことをしないように助けてくださいました。

翌日そのグループとばったり街の中で出くわしました。
この度もエホバに願い求めました。
驚いたことにリーダーが近づいてきてこのように述べました。
「昨夜は悪かったな。本当のことを言うと俺もお前みたいになりたいんだ。聖書を学びたいんだ」。
怒りを抑えて本当に良かったと感じました。
おかげでそのリーダーも聖書を勉強し始めることができました。

炭を頭の上に乗せることによって、本来その人が持っていた良い特質が醸し出されてきたこと、
エホバは確かに憎しみを捨て去ろうと努力する人を助けてくれることをこの経験を示しているのではないでしょうか。
私たちは理不尽な目に遭うことを避けることはできません。
でもそういった経験を受けた後に私たちがどう反応するかは、 私たち自身がコントロールできるということです。
この点を覚えておくようにいたしましょう。

「怒るのをやめ,激怒を捨てよ。
腹を立てて悪を行ってはならない。
悪を行う人は取り除かれるが,
希望を抱いてエホバを待つ人は地上に住み続ける」。
(詩編37:8,9)

理不尽な目に遭ったとしても、不公正な態度を取られたとしても、それが個人的なものであったとしても、社会的なものだったとしても、
私たちは怒るのはやめて、激怒を表すような行動に打って出ることはやめるということを心に固く誓いましょう。
エホバはそのような事柄を公正に扱ってくださるのです。
9節では、そういった人たちが「取り除かれる」と述べられています。

一方「エホバを待つ」謙遜にエホバに委ねて、平和を追い求め続ける人は、 この「地上に住み続ける」と約束されています。
では、私たちはこのような希望をぜひ心に留めて、エホバを信頼する人たちと共に、この言葉に従ってまいりましょう。