どの宗教を選ぶかは重要?

家からここまで来る時、

Googleマップを開くとルートは何通りかありますが、

どの道を選ぼうがそこまで大差はありません。

何分かの違いです。

では、どの宗教を選ぶかという道選びはどう思われますか?

どの宗教どの道を選んでも大差はない。どの宗教にもいいところがある。

行き着く先はみんな同じだと考えている方が多くおられます。

どの宗教を選ぶかっていうのは重要なことなのでしょうか?

重要なのであれば、どの宗教を選べば良いのでしょうか?

宗教の道選びというのは簡単なものではないかもしれません。

なぜなら世界中にはこの宗教が本当にたくさんあるからです。

ある資料によると世界の様々な宗教は、大きく分けると19、

細かく分けると約1万ほどあると言われています。

その宗教の中で神と呼ばれているものも本当に多くあります。

神道では八百万の神と言われ、至るところに神が存在するという教えがあります。

木とか石とかトイレにも米粒にも神様がいると信じておられる方もおられます。

自分は神を信じていないと言っても、スポーツ選手、著名人、政治家を

いわば神のように扱って尊敬している人たちもいます。

また夢のために自分の全てを費やしている方々もいます。

神とは呼ばれないかもしれませんが自分の生活の中心に置いて

そうしたものを神とみなしている人々もたくさんおられます。

では、本当に神と呼べる存在がいるのでしょうか? 

神の言葉と言われていて世界中のほぼ100%の人が

理解できる言語で読むことのできる聖書という本に、

何と書いているのか共に調べてみましょう。 

聖書は神について何と教えているでしょうか?

聖書は、本当の神はただ1人の存在だと教えています。

「永遠の命を得るには,唯一の真の神であるあなたと,

 あなたが遣わされたイエス・キリストのことを

 知る必要があります」。

 (ヨハネ17:3)

イエスが地上におられる時、最後の晩に神に語りかけた言葉です。

誰かに語りかけたり電話をかける時に、

どこの誰に電話をするかを知らずに電話をかけることがあるでしょうか。 

電話をかける時には、どこの誰に電話をするのかを知っていて、 

実際にその人が存在していて電話に出て話を聞いてくれることを確信しています。

イエスもここで唯一の真の神がどこの誰なのかをはっきり分かっていたので、

そのように語りかけました。 

聖書で教えているその神とはどんな方でしょうか?

詩編83編18節を見ると「エホバという名」を持っておられることがわかります。

そしてこのエホバは、私たちの目には見えず天に住んでおられます。

ではそのエホバは何をした方でしょうか?

「私たちの神エホバ,

 あなたは栄光と栄誉と力を受けるのにふさわしい方です。

 あなたが全てのものを創造されたからです。

 全てのものは,あなたのご意志によって存在するようになり,

 創造されました」。

 (啓示21:4)

聖書はエホバだけが全能の神であること、 

そして人間を造った存在であるってことを教えています。

世界中には多くの宗教がありますが、その崇拝の対象というのは、

地球上にある自然だったり動物だったり人物だったりすることがあります。

でもそうした地球上にあるものは全て、

エホバのご意志によって存在しているということがわかります。 

このエホバが地球や宇宙を創造する前はエホバだけが存在していたわけです!

こうしたことを考えてみると、エホバだけが

崇拝を受けるにふさわしい方と言えるのではないでしょうか。

聖書にこうしてはっきりエホバという神がいて、エホバだけが

崇拝されるべき方だということを教えているにもかかわらず、 

どうして世界中の多くの人はエホバを崇拝していないのでしょうか?

聖書を読むと、エホバを崇拝することを妨害している

悪魔サタンという存在のことが述べられています。 

そしてこのサタンには仲間がいてエホバへの崇拝を妨害する悪い天使たちです。

 

彼らはどのようにエホバへのこの崇拝を妨害しているのでしょうか?

私は神に反抗する者です私を崇拝しなさいという

プラカードを持っているのでしょうか。

実はそんなストレートな方法ではありません。 

もっと巧妙な方法でエホバへの崇拝を妨げようとしています。

1世紀のコリントの状況について考えてみましょう。

サタンとその仲間である邪悪な天使たちは多くの人を惑わして

エホバを崇拝する宗教ではなくて、間違った宗教広めていました。

「それも不思議ではありません。

 サタンが光の使いに成り済ましているからです」。

 (コリント第二11:14)

この光の使いになりすましているという表現はとても興味深いことです。

例えで考えてみましょう。

私たちは家の鍵をいつも使ってると思います。 

夜に家の鍵を落としてしまった時、皆さんはどんな気持ちになりますか?

やってしまったと思います。

スマホのライトを出して光る何かを探すために一生懸命頑張ると思います。

そして光を用いて探してる時に銀に光るものを発見しました。

これは鍵だと思って手に取ると、ガムを包装している紙でした。

これだと思って拾ったのにゴミでした。

サタンはいわば光のような人々がこれだと思えるようなもの、

でも本当は実質のないもの、こうしたものを用いて人々を惑わしています。

それが間違った宗教というわけです。

一世紀のコリントという都市では皇帝崇拝が盛んでした。

ローマ皇帝の崇拝によって地域全体がの統率が取られて、

地域を安定するのに役立っていたようです。

また癒しの神や愛の女神と呼ばれる神々も崇拝されていました。

こうした様々な神々がいて無害のように思えたかもしれませんが、

このコリントに住む人々にパウロは、はっきりとこのように伝えました。 

「そうではありません。

 異国の人々が犠牲として捧げる物は

 神にではなく邪悪な天使たちに捧げているということです。

 皆さんには,邪悪な天使と分け合ってほしくありません」。

 (コリント第一10:20)

自分が直接神を崇拝していると思っても思っていなくても、

サタンは人がエホバさえ崇拝しなければそれで満足しています! 

サタンはその正体を隠して人々を騙し、間違った宗教を広めています。

現代でも多くの人がエホバを崇拝していないのは同じ理由と言えます。

政治家、夢のマイホーム、宗教指導者のことを

人々は本当に尊敬し頼りにしています。

もちろんサタンを崇拝しているつもりはないかもしれません。 

それでもサタンはこうしたものを用いて、

人々がエホバ以外のものを崇拝するように、

エホバ以外に目を向けるように計画しています。 

ここまで考えたように、真の神唯一の神はエホバであることがわかります。

そして偽の神サタンという存在がいて、

私たちにエホバを崇拝させないようにしています。

どの宗教を選ぶかというのは重要なことです。

なぜかというと正しい宗教、エホバを崇拝する宗教を選ぶなら、

その人はエホバを崇拝することになりますが、

それ以外の場合は悪魔サタンを崇拝し喜ばせることになるからです!

私たちはどうすれば

その正しい宗教を見分けることができるでしょうか?

見分けるその方法も聖書が教えています。

「狭い門を通って入りなさい。

 滅びに至る門は広くてその道は広々としており,

 それを通って入っていく人は多いからです。 

 一方,命に至る門は狭くてその道は狭められており,

 それを見つける人は少ないのです」。

 (マタイ7:13,14)

聖書は宗教を二本の道に例えています。

大勢の人が進む広い道と、少数の人が見いだしている狭い道です。 

その行き先は同じでしょうか?

広い道は通りやすくて安全に見えますけど、

行き先は滅びと書かれています。

狭い道は真の神を崇拝する宗教です。

この道だけが命に通じていると教えています。

命の道を通に通じる正しい道を歩む人はエホバだけを崇拝し、

エホバが喜ばれることを行いエホバが嫌われることを行いません。

それで自分はこの広い道を今歩んでいるのか、

それとも狭い道を歩んでいるのかをしっかり確かめる必要があります。 

行き先が違うからです。

ではどうすれば、今自分が正しい道を選んでいるかわかるでしょうか?

目的地に向かって運転している時と似ているかもしれません。

自分が目的地に向かって正しいルートを歩んでいるのかどうか

わからない時があります。

そうした時、皆さんはどうされますか?

なんとなく東に北に向かおうと言って車を進めるでしょうか。

まず立ち止まって、地図を見て確かめるでしょうか。

地図を見ながら、周りの建物とかお店なども目印にしながら、

じっくりとその歩みを進めていくのではないでしょうか?

私たちが持っているこの聖書という書物もこの地図のようなものです。

では聖書の中に正しい宗教を見分ける上でどんな

必要な情報があるのかを少し見て考えてみたいと思います。 

私たちの周りで見られる崇拝とか習慣が、

本当に広い道の特徴なのか狭い道の特徴なのかをよく考えてみましょう。 

1つ目の状況は先祖を崇拝することです。

この崇拝は広い道の特徴ですか、狭い道の特徴でしょうか。

先祖崇拝というのは、

死んだ先祖が目に見えない領域で存在していて、

生きている人を助けることも害することもできるという教えです。 

本当に恐ろしい存在なので、先祖の霊を宥めなければいけません。

それで多くの時間やお金をかけて先祖を供養したり拝んだりします。

この教えは聖書の教えとどう関係がありますか?

こうした習慣や教えは、聖書の教えていることに沿ったものではありません。

死んだ人は何も知らず、働くことも考えることもしないと書かれています。

(伝道の書9:5,10)

この崇拝を、ではエホバはどうお感じになるでしょうか?

「あなたの中に以下のような人がいてはなりません。

 息子や娘を火で焼く人,占いをする人,魔術を行う人,

 吉凶を判断する人,呪術師,呪文をかける人,

 霊媒師や占い師に相談する人,死者に尋ねる人などです。 

 エホバはこうしたことを行う人をひどく嫌い,

 これらの忌まわしい行いのために

 エホバ神はそれらの国民をあなたの前から追い払います」。

 (申命記18:10-12)

エホバがこうした先祖を崇拝する人たちのことを

どう思っておられるのかがわかります。

ここでは死者に尋ねる人をエホバ広く嫌うと述べています。 

これはエホバが私たちの先祖のことを嫌っているとか

大切に思っていないっていう意味ではありません。

エホバは自分のことだけを崇拝してほしいと願っています。 

そしてエホバは私たちの先祖や亡くなった人たちのことを覚えておられ、

復活させてくださいます。 

私たちはその復活させる力のあるエホバだけを

崇拝したいと思うのではないでしょうか。

私たちの周りで見られる習慣の2つ目は、

性的な不道徳を大目に見るという態度です。 

これは広い道と狭い道、どちらの特徴でしょうか?

結婚関係以外の性関係について多くの人は、

息抜きとか火遊びといった表現を使います。

ニュースや報道などで

そんな表現を聞いたことがあるかもしれません。

同性愛についてはどのように多くの人は考えているでしょうか?

自分らしく生きようとか、

ライフスタイルの違いと表現されています。

ではエホバは、

そのことをどのように思っておられるでしょうか?

「正しくない人が神の王国を授けられることはない,

 ということを知らないのですか。

 思い違いをしてはなりません。

 性的に不道徳な人,偶像を崇拝する人,姦淫をする人,

 同性愛行為に身を任せる人,同性愛にふける人, 

 盗む人,貪欲な人,酩酊する人,ののしる人,

 脅し取る人が神の王国を授けられることはありません」。

 (コリント第一6:9,10)

エホバはこうした性的な不道徳や同性愛について、

どんな気持ちを抱いておられるでしょうか?

確かにそうしたものを退けてほしいと思っておられることがわかります。 

聖書を読むと、結婚関係の中での性関係は

神からのプレゼントだと表現されています。

誰かのお子さんに絵本をあげたとします。

でもその絵本を使ってその子供が人を殴ったり、

本の角で人の頭を叩いたりしている状況を見た時、

皆さんはどうお感じになりますか?

そんなつもりで絵本をあげたわけではない

と思うのではないでしょうか?

人を傷つけるために使ってほしくないはずです。

正しい使い方をして楽しんでほしいと思っているはずです。

性関係に関しても、エホバはそのように感じておられるに違いありません。

性的な不道徳、結婚関係外や同性愛行為として示される状況を、

エホバは本当に残念にがっかり思っておられます。

私たちの周りで見られる習慣の3つ目は、

神よりもお金を大切にするというライフスタイルです。

これは広い道また狭い道、どちらの特徴でしょうか?

「誰も2人の主人の奴隷にはなれません。

 一方を憎んで他方を愛するか,

 一方に尽くして他方を軽く見るかです。

 神と富との奴隷にはなれません」。

 (マタイ6:24)

多くの宗教組織や宗教を持っていない人も、

お金を得るということを1番に考えているかもしれません。 

でもこの聖句では、

神と富との奴隷にはなれないと述べられています。

お金を持っていることが悪いことだ

と言ってるわけではありません。

富が神のようになることつまり神を崇拝することよりも

お金を得ることを優先するライフスタイルを

避けるようにと勧めています。

どうしたら自分は神を崇拝することよりお金を大切に

していることを自分で知ることができるでしょうか?

集会に出席したり伝道に参加して

神を崇拝することを行ってはいても、

お金が得られる情報とかお金が稼げる仕事のことで

頭が一杯ならどうでしょうか?

仕事の予定が急に入ってきて、

神権的な活動とか会衆での務めを行う時間と重なる時、

どんな気持ちになるでしょうか?

仕事を調整しようと思うでしょうか。

それとも会衆の活動が煩わしい風に感じるでしょうか。

自分の心がどっちに傾いているのか

そうした場面で確認できるかもしれません。

このように自分の習慣とか考え方や行動を

聖書に照らし合わせて考えるなら、

自分がどちらの道を今歩いているのかを知ることができます。

多くの人は宗教に対して、

どの道を選んでも行きつく先は同じだと考えています。

でも違うということ、

エホバだけに通じる道とそれ以外の道という

二本の道があることを今日学びました。 

皆さんは、このどちらの道を歩みたいと思われますか?

是非真の神エホバを崇拝する道を歩んでいきたいと

思われるのではないでしょうか。

この道を歩いて歩んでいくためにとても大切なことがあります。

それは聖書を学ぶことです。

聖書を学び続けるなら、真の神エホバが

何が好きで何が嫌いかはっきりわかります。 

そしてエホバがなぜそう言っておられるのかという

理由を考えながら聖書を読むことはとても大切です。

息子が学校に行く時に、お父さんはこの道を通って

この信号を通って渡っていくようにと細かく指示を出します。 

子供はちょっと窮屈に感じます。

別の道を行った方が近いからです。

子供はお父さんに理由を尋ねてみます。

すると子供が行きたい道は

車のスピードが出ていて危ない道だと教えます。

今まで事故が何度も起きているということを説明します。 

少し遠回りにはなってしまうけど、

お前の安全を一番大切に願っているから

この道を行ってほしいと言います。 

子供はどんな気持ちになるでしょうか?

お父さんから言われた道を行こう!

こんな気持ちが強まるのではないでしょうか。

またお父さんが自分のために言ってくれたことを

感謝するのではないでしょうか。

私たちも聖書を学ぶと、今までしてきたライフスタイルや

自分がしたいことと相反することがあるかもしれません。

先祖崇拝や性に対する考え方、お金に対する考え方です。

でも、エホバがなぜそう言っているのかを考えると、

エホバのことがもっとよくわかります。 

そしてエホバのことを喜ばせたい

という気持ちが強くなるのではないでしょうか。

このエホバを崇拝する道は、本当に私たちにとっても祝福です。

「その日,彼らはこう言う。

 『これが私たちの神だ!

  希望を抱いてこの方を待ってきた私たちを,

  神は救ってくださる。

  これがエホバだ!

  私たちは希望を抱いてこの方を待ってきた。

  歓喜し,神による救いを喜ぼう」。

  (イザヤ25:9)

エホバだけを崇拝するなら、私たちには希望があります。

救いを経験することができます。 

そしてこのエホバに向かって歩む永遠に続く道を

喜びながら歩んでいくことができます。 

本当に素晴らしい将来が待っています。

どの宗教を選ぶか?

この道選びが大切だということを考えることができました。 

どちらを選ぶかは、私たち1人1人に委ねられています。

ではこれからも聖書を学び、エホバの道を歩む決定を続け、

仲間たちと共に歩んでいきましょう。

裏付けとなる聖書の言葉は、 

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