聖書にはこのような記述があります。
「第4夜警時に,イエスは湖の上を歩いて舟の所に来た」。
(マタイ14:25)
それは重力の法則に関することなので信じられない
と懐疑的な人は言います。
-271度に冷やした液体ヘリウムとをビーカーの中に入れて、
その中に鉛を浸してそのそばに棒磁石を入れると、
その棒磁石は電磁石になり、-
271度の液体ヘリウムがビーカーの壁を
ずっと上がっていってこぼれるという現象が起きるそうです。
これはこの重力の法則に反する事柄が起きた
ということではないでしょうか。
ですから状況によっては重力の法則などに反することも
起きることが分かります。
聖書の奇跡というのを信じない人も多いかもしれません。
その中には神学者と言われる人もいるようです。
そういうことなのでイタリア、フランス、スペインなどの
カトリック教徒の50パーセントくらいの方が
聖書の奇跡を信じていないようです。
魔術の場合、見せかけが超自然的な感じを出すために
特別な演出とか儀式が付き物だとされています。
聖書の奇跡はどうでしょうか?
こういった仕掛けは何も関係していません。
公衆の面前で公然と行われるわけです。
何の仕掛けもないわけです。
でもそういうことが起きると、本当に不思議な状況なわけです。
「さて,ラザロという男性が病気だった。
マリアとその姉妹マルタの村ベタニヤの人である。
このマリアは,主イエスに香油を注ぎ,
イエスの足を髪の毛で拭いて乾かした人である。
その兄弟ラザロが病気だった。
この姉妹たちは人を遣わしてイエスに次のように伝えた。
『主よ,あなたが愛情を抱いている者が病気です』。
しかしイエスはそれを聞いて,こう言った。
『この病気は死で終わるのではなく,神に栄光をもたらし,
神の子も栄光を受けます』」。
(ヨハネ11:1-4)
奇跡というのは個人の栄光とかではなくて、
神の栄光のためになされたわけです。
「夕方になってから,
人々は邪悪な天使に取りつかれた人を大勢連れてきた。
イエスは邪悪な天使たちを言葉で追い出し,
病気に苦しむ人全てを治した」。
(マタイ8:16)
「イエスは全ての町や村を旅して回り,
会堂で教え,王国の良い知らせを伝え,
あらゆる病気や不調を治した」。
(マタイ9:35)
病気を治してもらいたい人が近づいてきて、
治せなかったことなどなく、全ての人を治したところが
聖書の奇跡が魔術と違うところです。
さらに聖書の奇跡というのは、
その目撃証人によって本当であったということが
確証されています。
出エジプトの時に、
モーセとアロンが奇跡をまず最初はファラオの前で、
エジプトの祭司たちの目の前で行いました。
それから十の災いを行ったわけです。
ですから多くの人の目撃証人がいるわけです。
実際にそういったことがなければ、
何か変えてもそれは嘘だということになってしまうのですが、
そういうことなく今まで歴史に残っているということです。
「私が皆さんに伝えた最も大切な点の中に,
私自身も学んだ事柄があります。
それは,聖書にある通りキリストが
私たちの罪のために死んでくださり,
そして葬られ,聖書にある通り3日目に生き返らされ,
ケファの前に現れ,それから12人の前に現れたことです。
その後,キリストは一度に500人以上の兄弟の前に現れました。
その中には死の眠りに就いた人がいるものの,
ほとんどは今も生きています。
その後,キリストはヤコブの前に,
それから全ての使徒たちの前に現れました。
そして最後に,私の前にも現れてくださいました。
あたかも早産で生まれた子の前に現れるかのようにです」。
(コリント第一15:3-8)
復活後イエスは500人以上の前に現れたということです。
最初弟子たちは、イエスが復活したことを信じなかった。
だけど次々と現れるので信じないわけにいかない。
目撃者が奇跡の証拠だということですね。
そういったことがなくてあったと書いても
歴史として後に残らないわけで、
今聖書で読むことができるので、
確かにそういったことは起きたんだ
ということになるのではないでしょうか。
以前オリンピックの陸上競技で
金メダルを取った選手がいました。
表彰式の前にドーピング検査で陽性になった人が、
メダルを剥奪されて、
その記録も抹消されてしまうということがありました。
実際に本当のことでなければ記録も残らないということです。
ゴルフのプロの公式戦では、
お互いにラウンドする選手同士でスコアを記入するそうです。
自分も記入して、ホールアウトした時に見せるわけです。
その時スコアが合わないとその選手はは失格してしまうわけです
本当のことでないと資格がなくなって失格になってしまい
記録も後に残らないということです。
聖書にはいろんな奇跡が書かれています。
そういったことがでっち上げであれば、
負けた場合など相手のほうがかなり厳しい見方をしますので、
歴史的に残らないわけです。
でも残ってるということは、
そういうことが実際に起きたので、
目撃証人として見ているので、
書いて残っているということです。
では、神が奇跡を行った目的は何だったのでしょうか?
エホバが主権者だということを
知らせるために行われたということです。
モーセとアロンが確かに神から指名されたことを
証明するために奇跡が行われたということもありました。
「イエスはこれを最初の奇跡としてガリラヤのカナで行い,
自分の力を明らかにした。
弟子たちはイエスに信仰を持った」。
(ヨハネ2:11)
イエスの最初の奇跡として、水を上等のぶどう酒に変えました。
イエスがこうしたことを行えるというのは、
約束のメシアであることを証明するものでした。
イエスは、人類を罪と死から自由にするために神が立てた
手立てであることを証明しなければなりませんでした。
では今日、奇跡が起きないのはなぜでしょうか?
今日、信仰を築き上げるために
奇跡が必要でない理由も考えたいと思います。
「愛は決して絶えません。
一方,預言する能力があっても,それは除き去られます。
さまざまな言語があっても,それはなくなります。
知識があっても,それは除き去られます」。
(コリント第一13:8)
「さまざまな言語」というのは
奇跡的に別の言語を話すことです。
突然、他の国の言語を話し始めたならば
それは奇跡ではないでしょうか。
奇跡があっても「それはなくなります」と
1世紀に言ってるので、
現在ではないということになるわけです。
真の神をを納得したり求める点で
奇跡よりも良いものがあるということです。
アルバートっていう方は真の神を求めている人でした。
色々と宗教を調べてみましたけれど
なかなか納得できないという状況でした。
聖書を読んで、まことの神のアブラハムやモーセや
ノアやサウロに対する態度や接し方が気に入りました。
ある時、辺ぴな場所に車を飛ばして行って祈りました。
「神様、どうぞ奇跡をお示しください。
そしてあなたの存在を証明するものであれば
なんでも構いません」。
祈りは聞かれないまま数日が経ち、
エホバの証人の訪問を受けました。
聖書から取られた雑誌をいくらか残していき、
それがきっかけとなって聖書レッスンが始まりました。
ある程度聖書レッスンを行って
正確な知識がだんだん入ってやがて
ついに真の神を見出したわけです。
現代において真の神への信仰を築き上げるためには、
聖書レッスンが唯一の方法ということになるでしょう。
しかしながら、
奇跡も聖書の中の正確な知識となるべき大切なものと言えます。
非常に大切な聖書の中の真実の世界の知識の
一部だということになるわけです。
では、将来エホバが行ってくださる奇跡から
ずっと益を得るにはどうしたらよいでしょうか?
また、どのような奇跡が用意されているのでしょうか?
「神は人々の目から全ての涙を拭い去ります。
もはや死はなくなり,悲しみも嘆きも苦痛もなくなります。
以前のものは過ぎ去ったのです」。
(啓示21:4)
どうすればよいでしょうか?
私たちが信頼している聖書への確信を
引き続き保つということになるでしょう。
そのためには個人的に毎日通読を定期的にして、
その個人研究に励むことができるでしょう。
そういったことを行いながら、
将来地球をパラダイスにしてくださるといった
素晴らしい益にあずかれるように、
これからも忠実に歩んでまいりましょう。
裏付けとなる聖書の言葉は、
nolog.link/s/8NU9hJ
からご覧になれます。