私たちは、得ている情報の80パーセントを目から得ていると言われています。
見たものは私たちの感情に影響を与えます。そしてそれは 私たちの行動を誘っていくものとなります。
最終的にその人は見たものによって形作られていくことがあります。
実際そのような影響を受けた人のことを少し考えてみましょう。
ダビデという人は、自分が見たことによって、ある感情を抱いたことが取り上げられています。
「あなたが指で造った天を仰ぎ,あなたが並べた月や星を眺めて思う。
死にゆく人間が何者なのであなたは心に留めてくださるのか。
人の子が何者なので気に掛けてくださるのか」。
(詩編8:3,4)
自然から見たことによって、神がどんな方で、どんな特質を持っておられて、そのような方がなぜ自分に関心を持ってくださっているのかという絆を感じ取ることができたということです。
そうするならば、私たちも神を尊敬したり、神との絆を大切にしたい、また崇拝したいという気持ちが湧き起こってくるということです。
素晴らしい創造物を見る時、私たちはエホバの関係を意識することができます。
これはエホバが備えてくださる目の素晴らしい働きと言えるのではないでしょうか。
一方、良いものであっても使い方を間違えてしまうと重大な問題を抱えるという例を考えてみましょう。
例えば、包丁はとても良いもので、それで料理して美味しいものを作るならば、人を幸せにします。
しかし、それを間違って使うならば、人の命を奪って人を不幸のどん底に陥れる作用があります。
私たちの目もそうです。
聖書の創世記3章に、誤った使い方をした1人の人の例が出てきます。
エヴァは、エデンの園の真ん中にある善悪の知識の木の実を食べるとどうなるか聞いていました。
エホバからただ聞いていただけではなくて、目があって確かに園の真ん中にその木があるということを認識していました。
それから食べたならば命を失うことになるので注意しなければいけないという警報を目が発するものとなっていたに違いありません。
しかしある時、邪悪の天使に唆されてしまいました。
その時にどんな変化が起こったでしょうか?
今まで見ていた視点とちょっと変わってそれを見続けていくようになります。
そうすると、なんと魅力的なものに見えてくきました。今までは注意しなければいけないと思っていたものが、おいしそうに見えて、食べたくなってきました。大きな変化が生じたのではないでしょうか?
そして感情の影響を受けて、欲望がどんどん高まりました。
その結果、エヴァはその実をなんと取って食べてしまったのです。(創世記3:6)
エヴァはこの実を見続けて、それに欲望を感じてしまったのです。
その結果、エヴァは死んでしまい、子孫を不幸なものに陥れることになりました。
エヴァはどうしたらよかったのでしょうか?
「私の目をそらさせてください。無価値なものを見続けないために。
あなたの道で私を生き続けさせてください」。(詩編119:37)
無価値なもの、良いものとそうでないものとをしっかりと分別して、必要ないものは目をそらすようにコントロールする、つまり犠牲するようにとここでは述べられています。
続く部分を見ると、エホバに従ってエホバの道を私たちが歩むために、この事柄は とても大切なことであるとこの聖句は述べています。
では、私たちの目はどうでしょうか?
ダビデのように神を認識するものでしょうか。それともエヴァのように、私たちの目は問題に誘うような影響を与えるでしょうか。
私たちはどうしたら無価値なものから目をそらすことができるのでしょうか?そのために何が必要となってくるのでしょうか。
1世紀の使徒であったヨハネは、「見ることから生じる」罪深い欲望に注意を払いなさいと述べました。(ヨハネ第一2:16)
目の影響力に注意を払うようにということです。私たちはクリスチャンとしてどのように目を用いていったら良いのでしょうか?
ヨブはとがめのない人でした。
本当に皆に親切にする人望の厚い彼の元には色々な人たち、若い人たち、年配の人たち、男性、女性、色んな人が来たに違いありません。
「私は自分の目と契約を結んだ。
だから若い女性に対して不適切な関心を向けることなどできない」。
(ヨブ記31:1)
ヨブは自分の不完全さというものに気が付いていました。罪深い欲望を宿すことがあるということです。
ですから、若い女性に対して不適切な関心、つまり不道徳な空想を抱くことをしないようにと思い定めていたのです。
そのためには自分の目と契約つまり目と誓いを立てると述べています。
ヨブは不適切な欲望を持つ上で目が重要な働きをもたらすということを知っていたのです。
ですから、間違った感情を持たないために、自分の目をコントロールする必要があるということを深く認識していました。
つまり自制的な人であったということが言えます。
もう1つの実例を考えてみましょう。
ノアの時代の不従順な邪悪な天使たちは、エヴァと同様ある時にサタンから吹き込まれました。
人間の女性が作られてノアの時代になるまで約1500年という期間がありました。その期間この天使たちは、人間の女性に不適切な関心を向けることはありませんでした。
でも、ある時サタンに吹き込まれたことによって、じっとその女性たちを見続けるようになりました。
その結果、どんなことが生じたでしょうか?
「真の神の子たちは,人の娘たちが美しいことに気付くようになった」と書かれているように感情に変化が生じてきました。
そしてなんと彼らは行動に移したのです。天のエホバの前から去って、地上に来て人間の女性たちと不道徳な関係を築くようになってしまいました。(創世記6:1)
邪悪な天使というレッテルを貼られることになります。
このことは何を意味しているでしょうか?
目をどのようにコントロールするのか、見続けるのかということが全く正反対だったことがわかるのではないでしょうか。
イエスはこの事柄が私たちにも当てはまるということを言及しています。
「しかし私は言います。
女性を見続けて情欲を抱く人は皆,すでに心の中で姦淫をしたのです」。
(マタイ5:28)
イエスは不適切な不道徳な関係を築く上で何が問題だと述べられましたか?
ここで女性を見続けてそういう感情を宿すことを非としておられたのです。
ヨブは自制をすることにより目をそらすことができて、その結果、問題に陥ることはありませんでした。でも邪悪になった天使たちはそうではなかったことがはっきりしています。
つまり見続けるということは、自制をしていない、抑制していない、自己鍛錬ができていないということを意味しています。
そういうことができている人は、見たとしてもすぐに目を背けたり、そらせたりすることができるわけです。
パウロは「自分の体を打ちたたき,奴隷にして」引いていく、そういう強い自己鍛練が必要だと述べています。(コリント第一9:27)
この点で私たちが現代挑戦となるどんな分野があるのでしょうか?
それはポルノという問題です。
エホバこの事柄をどのように見ておられるのでしょうか。
「性的不道徳や,あらゆる汚れや貪欲については,
皆さんの間で口に上ることさえあってはなりません。
聖なる人として正しく振る舞うためです。
恥ずべき行い,愚かな話,下品な冗談なども,
聖なる人にふさわしくありません」。
(エフェソス5:3,4)
不道徳な事柄が口に上ることさえあってはならないなら、行動を起こすことはもっといけないことではないでしょうか。しかし1世紀のクリスチャンの中にはこういう人たちがいました。
「彼らがひそかに行っているのは,口にするのもはばかられる事柄です」。
(エフェソス5:12)
つまり、密かに不道徳なことを行うことが見られていたので注意しなさいと述べられています。
実際、現代ポルノがそのような状況になっています。様々なコンテンツやインターネットを通して、世界中でいつでも24時間どこでも見ることができます。
インターネットの何か広告サイトの中でそういったものが紛れ込んできて、選んだわけではないんですが目にすることがあります。
社会に出るとどうでしょうか?周りの同級生や大人たちがそういったものを見ることは普通のこと、 成長してきた証であって、逆に見ない人はどこかおかしいのではないかという考えをサタンのように吹き込んでくるのではないでしょうか。
そういった状況の中、インターネットの画面で映し出された時に私たちはどうするでしょうか?
見続けてしまうでしょうか。 それともヨブのようにすぐに目をそらすことができるでしょうか。
この点で鍵になってくるのは自制という特質です。
ある人は「エホバの証人になる前、色々なものの中毒になりましたが、中でもポルノは克服するのは格段に難しかった」と述べています。「今でもそうした画像がとんでもない時に頭に浮かぶってことがあります。きっかけとなるのは、偶然嗅いだ匂い、ある種の音楽、見るもの、思いがさまようことです。来る日も来る日も戦っています」と述べています。
別の人は「子供の時に父親が見ていた本、雑誌をつい見てしまいました。その写真は幼い私の思いに恐るべき影響を与えました。25年経った今でも脳裏に焼きついているものがあるのです。どれだけ一生懸命戦っても残っています。それらを考え続けたりはしませんが、それでも罪悪感を感じます」と述べています。
この兄弟たちは一生懸命戦っていますが、時々そういったものが脳によぎると述べています。
ですから私たちはそういったものに、すぐに目を背ける必要があるのではないでしょうか。
まず画面を消し、目を背け、そして思いを切り替えるという自制を働かせたを表した行動を取ることができるでしょうか?
画面を消す目を背ける、そして家族がいれば家族でもいいですが、エホバやとかイエスのことに思いを向けるならば自制を働かせることができるようになります。
この点に注意を払っていくようにしましょう。
パウロはコリント第二10章5節の中で「一切の考えをいわば捕虜にし,キリストに従わせています」と述べて、キリストの思いや考えに合わせるように努力したとしています。
ですから、私たちも同様にすることが必要です。
そのためには何ができますか?
集会に参加して聖書から教えを受けたり、聖書の個人研究をしたり、聖書朗読をすることによって、キリストの思いに合わせ、キリストの考え方に従うように意識的にしていくならば、自制の気持ちが強められていくに違いありません。
「私は無価値なものを目の前に置かない。
正しいことからそれていく人たちの行いを憎む。その人たちとは関わらない」。
(詩編101:3)
無価値なものを目の前に置かないつまり目の前に持ち込まないということです。
どんなものを持ち込むことがありますか?
娯楽の中でも良いものがたくさんあります。
私たちの目をを創造物に向けて、エホバに対する認識を高めることもあります。様々な持っている特質を伸ばし、情緒を育てるものもあります。
そうではない無価値なものもあることをご存じのことでしょう。
占いや魔術的オカルト的なものに絶えず注意を払うのではないでしょうか。
しかし注意しないと、時々コミカルまたロマンティックな状況を題材にしたものとして映画や本やドラマとして取り上げられるとつい見てしまうことが人間にはあります。
そういった時に見続けないように注意する必要もあるでしょう。
「エホバは正しい人と悪い人を調べ,暴力を愛する人を憎む」。
(詩編11:5)
エホバが憎まれるものの1つは暴力というものです。
私たちの見る様々なコンテンツの中には、暴力が取り上げられているものがたくさんあります。
戦争を取り上げた映画や、殺人や格闘技的なゲームといったものが取り上げられています。
それはフィクションである、また格闘技はスポーツである、ゲームだったりするとバーチャルの世界で、誰にも影響を与えてないではないかと思わせることもあるでしょう。
でもどうでしょう、それを見続けると、私たちの思いや行動にどういう影響が生じてくるでしょうか?
この世界を支配しているのはサタンです!
サタンはずる賢く、私たちに間違ったことを吹き込んでそれを見続けるよう働きかけているということをいつも意識するようしましょう。
無価値なものをこれからも自制するということに意識を向けてまいりましょう。
この点で私たちは模範となる1人の方にいつも目を向けておくことは大切です。
完全な手本であったイエスキリストです。
イエスはこのサタンが支配する世の中に来られました。
この世の中にいて無価値なものを全く見ないようにすることはできないということを実際感じ取られました。
イエスもこの地上にいた時、無価値なものを見せつけられたのです。見ようとしたわけではありません。ここにいると見ざるを得なかったということです。
悪魔がやってきて全ての世界中の王国を見せて、間違った誘惑をして私に崇拝を行うならばこの世界中の都市をあなたにあげましょうと言ったわけです。(マタイ4:8)
イエスはどうしたでしょうか?
その時,イエスは言った。「離れ去れ,サタン!『あなたが崇拝すべきなのはエホバ神であり,この方だけに神聖な奉仕をしなければならない』と書いてあるのです」。
(マタイ4:10)
イエスは「その時」つまり瞬時に見続けることをやめ背を向けたということです。
ここでイエスは、エホバだけを崇拝するという強い決意を表しました。
でもイエスはこの時に初めて強い決意を持ったわけではありません。
これ以前に、エホバに従うことを強い決意として成長させて築き上げてきたから、こういった問題が生じた時、瞬時に反応することができたわけです。
私たちもそのような人になるためには、日頃から聖書を通して自分の思いをエホバの方に向ける、つまりエホバの方に自分の目を向けるということをしていかなければならないということです。
「悪い道は一切歩まない。あなたの言葉を守るために」。
(詩編119:101)
私たちもエホバの言葉を守る、エホバに従って歩むために、悪い道を「一切歩まない」少しも容認しないという気持ちを養っておく必要があります。
そういう強い決意を持って、無価値なものを見ないように自制してまいりましょう。
そのような人をエホバはどのように見てくださるでしょうか?
エホバは心から喜んで、その人たちを受け入れてくださいます。その人たちと絆を築いて、永遠に共に歩んでいこうという気持ちを育んでくださいます。
詩編119編37節でエホバは「生き続けさせてくださ」ると述べています。
無価値なものを見ない人たちは、永遠の命が約束されているということになります。
なんと素晴らしい希望でしょう。素晴らしい報いをエホバは備えていてくださっているのではないでしょうか。
では無価値なものが存在する世の中で無価値なものを見分けて、無価値なものを見ないという強い気持ちをこれからも持ち続けて、エホバを喜ばせるようにしてまいりましょう。